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出社回帰期──そんな時代もあったんだな……【ショートショート/531文字】

リンは207X年、企業研修の一環で企業アーカイブ室に足を運んだ。

いまやVR空間で触覚や匂い、声色や目線の揺れまで完全再現でき、物理的な距離は意味をなさない。ところが、閲覧する資料は2020年代の「出社回帰」期を記録したものだという。

その時代、人々は既にテレワークで基本的な業務をこなしていた。だが、画面越しの薄っぺらい映像や文字情報では伝わりきらない微妙な雰囲気があったらしい。

結果、週1回わざわざオフィスへ戻る動きが生まれたのだ。資料には「並んで苦笑すれば、それだけで少し安心する」といった奇妙な実感が散見される。

リンは思わず笑みを漏らす。207X年の彼女から見れば、ぎゅうぎゅう詰めの通勤電車で揺られ、わざわざ対面で息を交わそうとするなんて冗談みたいだ。

非効率極まりない。

滑稽とさえ呼べる。

だが、その滑稽さにはどこか温かみがある。未熟な通信手段の中で、彼らは人間らしさを補い合おうとしたのだろう。アーカイブを閉じ、リンは静かに息をつく。「そんな時代もあったんだな……」

無駄とも言える努力が、過去には確かに存在した。それは現代から見れば笑えるほど不合理だが、同時に人間同士が手探りで関係を織り直そうとした証拠でもある。リンは唇をゆるめ、アーカイブ室を後にした。



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菊池ショートショート|SF×エンジニア
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