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恥じらいを見つめて―信仰告白

私ははじめから、救いようがないほど愚かなのだ。その愚かさから目を離さずに生きていくことを、恥じらいというのだろう。

今、ここに生きていることについての、救いようのなさ。
ほとほと絶望する、権力というもの。ドナルド・トランプだって?日本にも、考えるだけでうんざりさせられるような連中が出てきた。政治で火遊びを始めて、人を殺し始めた。テレビ局はもとから内包していた性暴力によって炎上している。万博が始まるというが、能登半島は復興していない。
総じて、生きていることに対する恥じらいが欠けすぎていると思う。「文系」の知性とはすなわち反省する人間存在のことを指すと思うけれど、そのようなものは地上から失われたのだろうか。ここにこうして生きていること、「こうやって生きられたのかもしれない」という後悔と「こうやってなら生きられるのかもしれない」という希望によって照らされた今の自分を、罪悪感を持って生きること。これが恥じらいだと感じる(あるいはキリスト教圏ならば、それは「原罪」と呼ばれるのか?)。ともかく、そういうものがない。

謙虚は美徳と言われるが、多くの人間は、定義をせず、ただ謙虚だと思われる動作を模倣しているだけに見える。謙虚とは生に対する恥じらいから生まれる、反省的な動作のことを事後的に指すのではないか?つまり、「なんらかの理想」があって、その理想とはほど遠い自分の姿を恥じること。これが開始地点。そこから、「それでもなお」という姿勢のもとで、生き続けること。こうして生きている人間の佇まいが「謙虚」に見える。こういう仕組みなのではないか。

いま、生き続けること、と書いたのは、自分自身が「自殺をしなかった/していない」という意識のもとで生活をしていることによる。生き残ることを選択した。それに対する大きな恥の気持ち。自分は生きているのではなく、死にぞこないなのではないか?という気分。私という「個体」は、より集団的で総合的なものからはじき出された「死」のひとつの形なのではないだろうかとも感じる。

恥じらい。
この気持ちが強まるにつれて、人間が作った社会の外側に目が行くようになった。森、水、空、動物…。それらは不変でありながら、常にすがたを変える。これらが、あたかも、自分をはじき出したひとつの総体かのように見えてくるのだ。

「自分」というのは総体から切り離された個体にすぎない。社会は急速に、個体としての「勝利」を重視するようになっている。これは「自分」「俺」「私」などといったそれぞれの人間の自我にもとづいてヒエラルキーが作られていくことを意味する。たとえば『あなたらしく』とか『責任を持って』とか、そういう文言が増えてくる。いつから私たちは、自分自身をこれほどまでに信頼するようになったのだろうか?

こういう時代にあってむしろ私は、人間が作った社会の外側の、私がはじき出されているように見える「総体」に窓を開け放ちたい。どんどん自分というものを溶かしていきたい。自転車で風を切って、農作業をして、丘に寝転がりたい。そういうことを許さない社会が訪れたときに、個体としての私は終わるだろう。

恥じらい。
常に自分より大きな総体が世界を運行していて、私はその総体の一部であり、ほかの一部を損ないながらしか生きることができないということ。せめて、総体と調和し、総体とともに生きていきたい。総体の運行に適うように生きていきたい。それが、私のささやかな願いだ。

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