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休日(日記)

多摩川駅―武蔵小杉

用事と用事の間にできた、谷間のような日曜日だった。
夕方あたり、武蔵小杉の駅前に、2時間くらい座っていた。隣のスーパーマーケットで割引で買ったコッペパンを片手に、タワーマンションの敷地の公開緑地のような場所にある、ウッドデッキで本を読んだ。
だいいちに書かないといけないのは、秋の花粉が飛んでいたということ。めずらしく自撮りを彼女に送ってみたら「きょう、顔がむくんでいるね」と返信が来た。塀に上って遊ぶ子供たちも、鼻をすすっていた。
それで、二時間も何をしていたかといえば、西村佳哲『かかわり方のまなび方』を読んでいた。その少し前、午後2時くらいに多摩川の河川敷に座っていたときは、Patagonia創業者イヴォン・シュイナードの『社員をサーフィンに行かせよう』を読んでいた。おかげでジーンズの尻の部分が土で茶色くなった。

人混み

本の感想は後から書くとして、読書と同じくらい面白かったのは、駅とグランツリー武蔵小杉を行き来する人々の流れだった。(武蔵小杉駅から歩いて3分ほどのところに、「グランツリー武蔵小杉」というイオンモールのような大型ショッピングモールがある)
本を読むのに疲れたら、薄いインスタントコーヒーをすすりながら、流れていく人々を見る。この「人々を見る」という行為だけれど、これはとても楽しい。あまり、というかほとんど飽きがこない。

何が面白いのかといえば、人混みはすっかり、自分の理解よりも多くの情報を含んでいることだ。たとえば、ベビーカーを押している男性がいる。しかしよく見ると、それは赤ん坊を乗せるものではなく、愛犬を乗せるものだったりする。そしてスウェットの半ズボンを履いていて、白いクロックスのようなものをつっかけている。ということは、この近辺に住んでいる可能性が高い―――、こう考えているうちに、その人は駅の方に曲がって見えなくなる。そして彼を隠すように、次の親子連れがやってくる。親子連れが視界から外れると、別の親子連れが現れる。ここですでに、想像力がとらえきれる範疇を越えている。

この圧倒的な情報量に接していると、何となく、独特の心地よさを感じる。心地よさ、というか、面白さ。村上春樹の『ねじ巻き鳥クロニクル』に、ただ新宿駅で何日もぼうっとするシーンが出てくると思うが、それを思い出す。いずれにせよ、ただなんの目的も目標もなく、行き来する人々を眺める。それは水溜りに打ち付ける雨を、窓のそばで見ている時に似ている。あるいは、銭湯で水面から上がっていく湯気を眺めるときにも似ている。ぼうっとすることの心地よさ。

駅前の犬

駅前にNPOの動物保護団体の人がいて、ちょっと話しかけてみた。
犬が彼の足元で寝ていたので、背中を撫でてみた。彼女(女の子といっていた)は、薄く目を開けて、しかし気持ちよさそうに眠っているようだった。
動物っていいな、と思う。
僕の周囲の人間は、何かと理由をつけて動物と関わることを面倒に思っていたので、僕もあまり動物には触れてこなかった。でも、僕じしんは、動物がかなり好きだと感じる。ユクスキュルの「環世界」ではないけれど、動物は動物なりの都合で生きているところがとてもいい。たとえば人間がいくら叱っても、動物はそれを無視することができる。ここには何かしら、救いを感じる。理詰めしてくる人間から逃げて、走って帰る道の空気のようなフレッシュさ。動物と接しているときに感じる、謙虚さが好きだ。
こんど、保護された動物がいるカフェに行ってみようと思った。

Patagoniaと柳宗悦

読んだ本のことも書いてみようと思う。

まずこちらの本であるが、内容としてはPatagonia創業者が、自伝と社史、企業の方針を書いている本だった。まだ途中だけれど、けっこう面白い。いくつか気になったポイントを。
・Patagoniaは慈善団体ではなくて、あくまでビジネスであるということ。正直、環境や社会問題を「第一に」気にしているのかと思っていた。しかしこれを読んでみると、ビジネスを継続することと「同程度に」環境や社会問題を重視するというスタンスのようだ。微妙な違いに見えるが、体感としてのギャップがあった。ここが面白い。
・Patagonia製品を作る上で重要視していることがいろいろと書かれている箇所がある。たとえば「手入れや洗濯は簡単か」「美しいか」など。この箇所が、柳宗悦『民芸四十年』に書かれている「工芸の美」を思い出させる。

用途への奉仕、これが工藝の心である。
 それ故工藝の美は奉仕の美である。凡ての美しさは奉仕の心から生まれる。働く身であるから、健康でなければならぬ。日々の用具であるから、暗き場所や、荒き取扱にも堪えねばならぬ。彼らの姿を見られよ、丈夫な危げ(原文ママ)のない健康な美が見えるではないか。いつも正しき質を、また安定なる形をと選ぶ。

柳宗悦『民芸四十年』岩波文庫 1984 pp.101-102

いささかマッチョで古めかしい世界観であるにせよ(そして言っていることを人間でイメージすると、奴隷のようで嫌だけれど)、僕は「クラフトマンシップ」とか「職人」とかを考える上で、この柳宗悦の一節が好きだ。たぶん筆者のイヴォンも、この一節を気に入るように思う。

・イヴォンが息子に言ったアドバイスに、考えさせられる。

息子のフレッチャーがまだ10代の少年だったころ、彼韻は、手でなにかを作る技術さえ身に付くなら、将来は好きなことを仕事にしていい、と言っていた。

イヴォン・シュイナード 井口耕二訳『新版 社員をサーフィンに行かせよう パタゴニア経営のすべて』2017 p.132

この「手でなにかを作る技術」を身に付ける仕事という表現が、自分が「格好いいな」と思っている働き方に当てはまっている気がする。

ファシリテーションと「もの」

もう一冊はこれ。西村佳哲さんの本はとくに好きで、見かけるたびに揃えている。この本も上の本と同様にまだ途中だが、いくつか気になったポイントを。
・「ファシリテーション」全般に関し、理論化できないことを理論化しようとしているような感じを受ける。わりと冒頭で、西村さんがこう書いている。

誰のためのファシリテーションなのか?ということ。いろいろな療法や、ファシリテーションの技法を並べたところで、人格的なかかわり合いのないところに統合も成長も起きないし、そもそも力は湧いてこない。

西村佳哲『かかわり方のまなび方: ワークショップとファシリテーションの現場から』ちくま文庫 2014 p.68

本書には様々なインタビューが書かれているが、とても共感するひとと、そうでもないひとが出てくるのが面白い。根本的に不思議なポイントとして、「人格的なかかわり」を促進するための「ファシリテーションの理論」はあるのか、という点がある。仮にいくつかの理論が出来上がったとして、それを基にした教育プログラムが、無限に多様な人間を育てることができるのだろうか。有限個の規則から無限の人間を育てるようなプログラムができるのか、という点がとても気になる。

・合わせて読んだ本がPatagoniaだったからかもしれないが、僕は「もの」に対して向き合っている人の話の方がシンクロできると感じた。『自分の仕事をつくる』だったと思うが、パンを作っている人や、そばを打っている人が出てきた。その人がパンやそばを通して社会や人間を見つめるまなざしのほうが、自分にとって理解がしやすかった。「パン」「そば」「アウトドアウェア」など、なんらかの対象のなかに「深み」を見つけていくほうが、人間そのものを対象として「深み」を見出すよりもフィクショナルではないという気がする。

そういえば「もの」に関して、まえから陶芸をやってみたいと思っていた。大学のキャンパスにろくろがあると聞いたので、次の休みまでに行ってみたいと思う。

以上

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