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人生で最も書けなかった原稿の話

自分のための一歩が、誰かの明日を切り拓く

こうタイトルを付けた記事が、本日4月20日に発売された雑誌『TURNS(ターンズ)』vol.41「多拠点居住と新しい働き方」に掲載されています。P.34〜39の、さのかずやさんの記事です。

2月末にさのさんの企画を出し、予算内でオホーツクに飛べるのかを編集部と相談。

それでもさのさんを書く以上はオホーツクに行かないのはありえないと思っていたので飛ぶと決め、取材、執筆、ページ割を担当しました(今とはかなり状況が違う頃の取材です)。

実は、上に書いたタイトルがさのさんに原稿をチェックしてもらう段階では決まっていなかったくらい、執筆に苦戦。

結局さのさんに二度も原稿をチェックしていただき、校了直前までデザイナーさんに修正をお願いし、かなり粘らせていただきました。ありがとうございました。

さのさん、そしてオホーツクで出会ったみなさんにいただいた、たくさんのパス。それらを未来につなげるために、私が見た物語をそのままに書いています。あとは、読んでくださるみなさまに託すのみ。

取材の裏話は、撮影を担当してくれたはらちゃんが最高のお写真たちとともにまとめてくれたので、ぜひ見てね。こうやって思い出写真をたくさん残してもらえるの、ほんとうにうれしいなぁ。

というわけで今回は、オホーツク取材を経て記事を書き上げるまでの裏話をここに残しておきます。編集後記というか、超個人的な葛藤の記録です。

ずっと、書けない日々が続いた

正直に書き残しておこう。

人生でいちばん、書くのがつらい原稿だった。

取材に行く前から薄々予感していたし、だからこそ真正面からオホーツクをくらいに行ったのだけれど、やっぱり書く段階に入ってからがきつかった。


オホーツクから帰ってきてすぐの頃。

って書いてたからさ、読むじゃん。

シンプルに寝込みました。

「生まれの差」っていうのは本当に理不尽で、ぼくも会社に入ってから慶応義塾大学の人とか得てしてお生まれが良い人にたくさん会うけれど、マジで世界の差を感じる。叩き上げで育ってきて、ぼくがめちゃくちゃ努力して掴んだものを、彼はなんとなく暮らしてたら手に入れてて、ぼくが手に入れたいものが彼のすぐそばにあるのに、手をのばそうとしてない、とか。その人もその人なりに努力してるのかもしれないけど。そういうのに度々遭遇して、どうしようもないんだけど、なんかつらい気持ちになったりする。そういうものが押し寄せてくる。

さのかずや 【読書】「さくらの唄」 が童貞心とクリエイティブ志向にぶっ刺さりまくった件

ええ、母校です。

ここに傷つくとかでは一切なくて、ただ、いっぺん生まれ直したくなった。

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今回はずっと、「おまえがその言葉を書けるのかよ」と自問自答した。さのさんの言葉を書く資格があるのかよ、と。

閉塞感に満ちた過酷な環境で生まれ育ち、小学生の頃から人を信じられなくなり、死に物狂いの努力で地元を這い出て、東京で私の母校出身のような人たちと出会って分断された世界を知り、自分のような苦しみを抱える子どもが少しでもその苦しみを手放せるように、復讐のために地元と関わることを決めたさのさん。

対して、神奈川生まれで中高大と私立に通わせてもらい、東京にいることが当たり前で、非常にのうのうと生きてきた私。

著書に「田舎の狭いコミュニティで幼少期に受けたトラウマ」と書かれていた。だから、小学生時代に何が辛かったのかを、聞いてみた。

「田舎の小学校あるあるって、田舎の小学校を経験した人にしか伝わらないと思っていて」「でもそういういじめの空気は、わりとどこにでもあるような気がしますね」。

当然のように、私は想像できなかった。いじめを見たことがないからだ。もう自分の境遇が嫌になったし、何かに謝りたくなった。

「東京のほうが汚れているんじゃないかと思っていたけれど、意外と東京のほうが平和な環境で育っているからか、人を信じている人が多いなと思いました」。私のことかな。

音源を聞き返したら、「東京で私みたいなやつと出会ってイライラしませんでしたか?」と聞いていた。今ならこの質問にイライラするが、さのさんは「そんなにしなかったかな」と言っていた。

「それよりも、北海道の右上に人が住んでいることを、こんなにも絶対的な数の人が知らないのは何でなんだろうな、と思った」と話してくれた。

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さのさんは、決して個人を憎まなかった。人に憎しみを持つよりも、そもそもなぜこの状態になっているのかを考えていた。

当然、私という個人を憎んだところで何も解決されないと知っていた。憎むどころか、歩くのが遅かったりしゃべるのが下手だったりと、あらゆる点でぽんこつな私を、ずっと見守ってくれた(私が取材しているのにね)。

だからなおさら、私が書いていいのだろうかと自問自答を続けた。この行き場のない罪悪感を抱えていると、さのさんはぜったいそんなことをしないけれど、個人を憎んでもらったほうが楽なのではないか、とすら思えてきた。

活動を伝えるのであれば、6ページと原稿料をお渡しして、さのさんに寄稿していただくほうがよかったのでは、とも頭によぎった。さのさんは、文章を書ける人だから。もちろん、これは私の逃げなんだけれどね。


なぜ、自分が書くのか。

かつてないほどに、その問いを自分に向け続けた原稿だった。


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編集担当に渡した初稿は、けっこうひどかった。エピソードとさのさんの言葉をたくさん盛り込んだ結果、編集担当に「名言集になっているよ」と言われた。

紹介したい言葉が多すぎた。逆に言えば、これは自分の言葉でなかった。

あまりにも書けないので、途中で一度、ターンズの仕事と全く関係ない編集チームの読書会で、不安を吐露した。私は原稿に関する不安を担当編集以外には言わないから、かなり異例だった。

不安をまとめると、「あまりに自分は当事者ではない、むしろ当事者とかけ離れている。それでも、その人の物語を書けるのか」。

このとき、みんなが私の不安を受け止めてくれて、自分はどう書いているのかを聞かせてくれた。そしてとってもよき文章を書く西山先輩が、こんな言葉をくれた。

書くとき、自分は必ず書く主体であり、その文章の当事者である。自分の当事者性と真摯に向き合うこと。そこからでしか、書く行為は始められない。

西山先輩が『言語表現法講義』という本を教えてくれて、そこから抜粋した言葉を朗読してくれた。

ふだん、僕たちはふん、ふん、そう、そうといろいろな問題を耳にして、それをすんなり聞いています。しかし、いざ、それについて書く段になって、何かに気づかされる。書くというのは、当事者として、そのことと向かい合うことですから、まず、自分がその問題の当事者ではないことがすぐわかりますね。そして、それから、その問題の当事者でなければ、自分は何の当事者なんだろう、そういう問いがやってきます。
書こうとするときにその邪魔、障害として現れてくるものを回避したら、絶対にいいものは書けません。書かれる文章に力を与えるのは、その障害、抵抗なんです。僕などは、だいたい準備した後、どこからが自分の書けないところかを見極めると、そこに自分をパラシュートで投下させますね。書けないところから書く。まあ、これは極端で命を縮めますからすすめませんが、少なくとも、書けない、これはチャンスだということです。

加藤典洋『言語表現法講義』より

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私がさのさんの記事を書こうとするとき、そこには強烈な「書けなさ」が立ちはだかった。

自分は圧倒的に、さのさんの抱えている痛みや苦しみの当事者じゃないと思った。理解したふりなんてしたくないし、実際できなかった。

でも、それでいいんだと教えてもらった。そこからしか何も始まらない、そこから始めればいいんだ、と勇気をもらった。

読書会を終えて、編集担当に電話した。「シンプルに、きくちが見てきたもの、感じてきたことを書きなよ」と言ってくれた。

さのさんの言葉は、さのさん自身が語ればいい。実際に、ご自分でたくさん語っている。それなら、「書けなさ」からはじまる私だからこそ書ける言葉を綴ろうと思った。

なによりも、さのさんは自分の時間を割いて取材を受けてくれた。そして、「頑張って」「楽しみにしてる」と言ってくれた。さのさんを書くことを、私に託してくれたのだから。

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「部活の頃、ぼくは優秀なアスリートではなかったので、チームが継続的に強くなっていくために、次の世代が自分たちよりレベルを上げられる方法を考えていた」。

「次の世代のほうが優秀に決まってるから、どんどんパスしていかなきゃいけない」。

そう話していたさのさんのパスは、オホーツクに行った私の目の前で、本当に次の世代につながっていた。新しい物語が動き出していたのを、この目で見た。

そしてさのさんは、私にもたくさんの時間を割き、パスを託してくれた。

ああ、そっか。私はさのさんの痛みの当事者にはなれないけれど、さのさんからパスを託された当事者の一人になったんだ。

そう気づいてから、ようやく自分の言葉で書き始められた。だって私自身が、さのさんのパスによって確実に明日が変わり始めた一人だから。

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「生まれた場所によって、なぜチャンスが違うのか」。

この言葉を私が大見出しに入れることに、覚悟が必要だった。でもさのさんと出会ったのだから、私も見て見ぬふりしないでいようと決めたよ。

さのさんに相談して、自分の言葉にできなかったから、最終稿で消した言葉もある。その代わりに、最後まで粘って考えた祈りの言葉を入れた。

こうして書き上げた原稿は、さのさんが自分で書いたらこうはならなかった、とだけは言える。

私から見たさのさんであり、私がオホーツクで受け取ってきた物語になった。

場所にとらわれずに、場所にこだわる

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以上、個人的なオホーツク編集後記でした。

さのさんの他に岐阜県岐阜市のリトルクリエイティブセンターの記事も、企画から取材・執筆まで担当させていただいています。

リトルはさのさんの修論にも出てくるし、さのさんの記事があったからリトルの記事が書けたし、逆もしかりです。


さのさんは「場所にとらわれずに、場所にこだわる」と言っていた。奇しくも今、その場所に行きたくても、移動そのものが難しいタイミング。

場所に「行く」という関わり方を優先してきた私がもどかしいくらいなので、「行きたいのに行けない」苦しさを感じている人はとてもたくさんいると思います。

私はさのさんとリトルのみなさんに、好きな場所との「住む」だけじゃない関わり方を教えてもらいました。

その考え方は、今住んでいる滋賀だけでなく他の場所にも住んでみたいと考えている私にとって、これからの大きな指針になりそうです。

さのさんとリトルの記事を通じて、少しでも気づきや勇気をお届けできたら、と願っています。

エンドロール

一人で飛び込んだオホーツク取材は、ぜったい忘れない時間になった。

フルネームを名乗った記憶もないし名刺も登場していないし、2日目からはリラックスしすぎてあまり言語をしゃべらず(一応インタビュアーだったはず)、みんなで温泉に行ったし、オホーツクハウスの床で寝落ちした。

一度も面と向き合ってインタビューしていないし(全て車のなかで、さのにいが運転しながら答えてくれた)、取材対象者の前で寝るし、前代未聞の取材でした。私が取材でこんなにリラックスすることない。

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そんな私に、みんながたくさんの宝ものをくれた。さのにいと、みんなの物語もあってこその記事だよ。

あとは、取材直後からこんなに取材で会った人たちに絡むこともない(笑)。でもさっそくみんなといろいろ動けてうれしいです。

■ 取材協力
さのかずや
原田啓介中西拓郎小松輝古賀詠風

ぜんぶみんなのおかげ。むしろ私は、最初から最後まで特に何もしていない。出会ってくれてほんとうにありがとう。だいすきだ〜〜

■ 制作
photo/原田啓介(P.11目次写真も含む)

editing/佐藤芽生
design/杉本陽次郎

direction/ミネシンゴ
他、ターンズ編集部・第一プログレスのみなさま

■ 応援
さのかずや、取材協力メンバー

励ましてくれたinquireメンバー

同じ時期の北海道旅行やヨーロッパ遠征を中止にする決断をしながらも、「きくちは気にせず行ってこい」と取材に送り出してくれて、帰ってきて流氷の動画を見せまくる私の話をやさしく聞いてくれた滋賀のみなさん

いつもながら、一人では決してページを完成させられない。今回もたくさんの方々にご協力いただきました。ありがとうございました。

■ お借りした言葉
・P34「地元への感情は、愛着よりも憎しみのほうが大きい」「原動力は、復讐のような気持ち」:さのかずや「閉塞感が生み出した敵は、幻だったのかもしれない」より

・P34「自分たちの生活を上向けることが、その先の世界につながっていく」:さのかずや 情報科学芸術大学院大学(IAMAS)修士論文「特定の地域にまつわるクリエイティブ・コミュニティ形成のためのメディアの可能性」 「おわりに」より

・P37「居場所を削られる」:@sanokazuya0306
そんな因果かわからんが、そんなふうに居場所を削られた父のような人が、善意で知り合いの人が安く譲ってくれる車を強気で買い叩くことでしか自我を保てないのも見ているよ、お前らにも絶望を見せてあげたいよ #田舎の未来 」(2019/8/15)

・P38「さいはて」:さのさんが2020年1月に開催したイベントタイトル
■ 主に参考にしたもの
・さのかずや 『田舎の未来 手探りの7年間とその先について』 タバブックス 2019
・さのかずや ホームページ(だいたいぜんぶ)
・さのかずや note(ぜんぶ)
・さのかずや Twitter(ぜんぶとか不可能やろ これすき)
・さのかずや どさんこ田舎者、東京でいろいろつくる(ぜんぶは読めず)
・さのかずや 情報科学芸術大学院大学(IAMAS)修士論文「特定の地域にまつわるクリエイティブ・コミュニティ形成のためのメディアの可能性」
・さのかずや 「ローカルで稼がない」田舎の仕事のつくり方について|ローカル泥臭コラム(ジモコロ)
・さのかずや 取材後のFacebook投稿 (読んで)

・遠軽町役場 経済部 商工観光課 えんがるストーリー
オホーツク島
・加藤典洋 『言語表現法講義』 岩波書店 1996
・中西拓郎 道東誘致大作戦を終えて思ったこと
・原田啓介 【平成最後の夏2018絵日記②】北の合宿2018秋
・村上龍 『希望の国のエクソダス』 文春文庫 2000
・NHK北海道 #ローカルフレンズ出会い旅 #道東は世界一な件
#ローカルフレンズ出会い旅 まとめページ
#ローカルフレンズ(2)【瀬田宙大】
NHK札幌放送局 the Locals

・tofubeats 『ふめつのこころ』『LONELY NIGHTS』他
・さのかずやプレイリスト「さいはての旅路
・銀杏BOYZ

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2日目の居酒屋の帰りに残雪のはしっこをぱきぱき踏む遊びを教えてもらっていたら、さのにいが本気で転んだことも忘れません。オホーツクで生きる厳しさを目の前で見せてもらった思い出。

おわりとはじまり

さのさんのジモコロの記事を読み、著書『田舎の未来』を購入し、さのさんに初めてリプを飛ばしたのが2019年9月。

半年後にDMで取材をオファーして、本当にオホーツクに行けた。これは、さのさんが取材を受けてくれたおかげ。

さらに、オホーツクに一人飛び込んだ私に、あらゆるご縁をつないでくれたのもさのさんだ。

結果、オホーツクから帰ってきた日にこのnoteを書いた。

でもこれを書いたくせに、制作過程で覚悟がまだまだだったなと思う場面が何度もあった。

一回、さのにいが刀の抜き方を見せてくれた。おまえの覚悟、そんなもんじゃねえだろ、というメッセージとして受け取った。わざわざ刀を抜いて見せてくれた意味を、忘れずにいたい。

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オホーツクから帰ってきた直後は、雑誌が発売される頃にもう一度オホーツクに行こうと思っていた。取材中にさんざん「見つからない」と言っていた自分のやりたいことが見つかって、オホーツクで始めたかったからだ。

しかし今、飛べない。はらちゃんの思い出写真を見て、しんみりしそうになる。みんなに会いたくて、しょんぼりしそうになる。

でも、オホーツクで受け取ったバトンを、一つでも未来の誰かへのきっかけにつなげるには、きっと今立ち止まっている場合ではない。

現に、さのにいは動き続けている。その背中をずっと見せてくれている。

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だからきくちも、まだまだだけれど、まだまだなりに、泥くさくじたばたしながら、必死に前に進んでいこうと思います。

これで原稿を書くという闘いはひとまず終わりだけれど、一本の記事だけじゃ、さのにいとみんなにもらったものをぜんぜん次に渡しきれない。まだまだ、やるべきことがある。未来につなぐべきものがある。

いっぱい受け取って、いっぱいつないでいけるように。私なりに、私の闘い方で、手を取り合いながら。

また会えたときに、互いの変化を笑って話せるように。

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さのにいへ

さのにいに原稿チェックしてもらうときに「メディア的誇張」って赤が入らないか、緊張していました(笑)。

でも、ぜんぶ自分の言葉で本当のことを書いたので、怖さとか不安とか振り切って最初に原稿を読んでもらったとき、さのにいが喜んでくれて(たぶん)、すごくうれしかったです。

心から、ありがとうございました。またオホーツクで!(って言いたい。信じていたい。さのにいが早く飛べますように、祈りを込めて)
アイキャッチ、記事中使用写真:photo by はらちゃん


ついしん:

「めっちゃ謎」さすがに笑っちゃう。さのにいに感謝しかないね。

追記:いただいた感想

さのにいがTwitterで積極的に発信する人だからか、かつてないくらいにたくさんの感想ツイートをいただいています。本当にありがとうございます、とってもうれしくて心がいっぱいです。

記事本体とこのnoteについていただいた感想を、せっかくなのでここでご紹介させてください。いつか記事と向き合う私の心が折れそうになったとき、きっと何よりもみなさんの言葉が支えてくれる気がしています。




おまけ

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3月30日、さのさんの記事を絶賛執筆中だったときの、noteのつぶやきの下書きが出てきた。

このタイミングでこの記事を書かせていただけて、無事に世に出せて、本当によかったとあらためて。ありがとうございました。

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