いろいろあって、異邦人。
自分のことをすこし書きます。といってもちょっと長いかもしれません。
自分の誕生 〜 娘の誕生
栃木生まれの茨城・千葉・埼玉育ち。
まわりをうごめくだけでなかなか都内に入れなかったコンプレックスは大きく、独り立ちして最初に借りたアパートは東武東上線沿いの、成増でした。
最終学歴は文化服装学院、中退です。
表向きは「絵本作家になる夢を叶えるため」というものでしたが、若気の至りというのが本当のところでした。
学校を辞めたわたしは、働きながら絵本作家への道をすすむという名目でひとり暮らしを始めました。
生計を立てるため、当時代官山にあり、よくオリーブなどで紹介されていた雑貨店にアルバイトとして入りました。駄菓子や駄玩具を扱い、レトロでキッチュな雑貨や、ブリキやほうろう製品がかわいい店でした。1年間勤務したあと退職して結婚、1女をもうけます。
第1の転機
働いていた雑貨店に併設していたのが、当時人気だったテディベア専門店です。建物の内部でつながっていたので誰もがお互いをよく知っていました。
娘をベビーカーに乗せて、ちょくちょく遊びに行きました。そのとき娘にもたせていた手作りのぬいぐるみがテディベア店の店長の目に留まり、「うちのお店に置いてみない?」と言われたのが、はじまりでした。
娘が遊ぶかたわら、「手ヅクリ家」という肩書きでぬいぐるみやテディベア、手漉き・手刷りのポストカード、布こもの、子ども服などを作っては売りました。自分の手で作れるものはなんでも作りました。
ここでいちど、離婚をします。
憧れだった古物の町・西荻窪での生活から、ふたたび埼玉へ。
さて、ひとりになったら俄然やる気になってしまったわたし。
それからは娘を育てるために、そしてみずからの承認欲求を満たすために、没頭しました。
祖父の死
そんなあるとき、祖父が倒れました。今までも何度も入院し、家でも寝たきりになっていた祖父ですが、今度はようすがちがいました。
祖父は、わたしが何をしでかしても「お前が決めたんだから」と信じていてくれる、わたしの唯一の理解者でした。いつでも笑っていました。惜しみなく与えてくれました。
わたしは仕事をすべて断って、娘とふたりで祖父母の家へ泊まり込み、毎日病院へ通いました。自分への気休めでしかなかったのだと思います。そうすれば、おじいちゃんに何かいいことをしていると感じられたから。
2ヵ月後、祖父は他界します。このできごとは、ライフイベントと言えるほどわたしのこころに深く深く刺さり、ゆくゆくまで棘のように存在しつづけるのです。
第2の転機
娘が小学校に入ったころ、転機が訪れます。
徐々に仕事を再開し軌道に乗り始めると、宣伝広告やテレビなど、メディア用に特別な作品を作ることが多くなりました。我が家のアトリエを使い1ヵ月半かけてミュージシャンの PV のコマ撮り撮影をし、同時にあみぐるみの本を出版しました。
そして、尋常ではない忙しさとさまざまこととが重なり、心身ともに尽き果ててしまうのです。
人生最悪の時期
そこからの5年間は本当にしんどいものでした。
拒食症から体重は小学生程度まで落ち、毎年かならず入院しました。はじめは娘のために作っていたぬいぐるみのはずなのに、娘のこともまともに世話できなくなっていました。
そしてここで、2度目の離婚をします。
第3の転機
この生活から抜け出せたのは、現在の夫との関わりからでした。
アパレル学生だったころはパリなんか全く興味もなく、研修旅行すらパスしたわたしが、なぜかフランス行きを強行し、フランスに傾倒し、フランスの人びとに恋をしたのは今から20年前、2002年ごろのことでした。
日仏交流コミュニティを主宰したり、フランス語学習のサイトを作ったり。仕事のつながりやたくさんの関係を失った分、夢中になりました。
そのときにふと知り合ったフランス人が、今の旦那です。
太陽に照らされて暮らす
彼は寓話「北風と太陽」のまさに太陽のような人で、魂を抜き取られて干からびたようになっていたわたしに生命の光を注ぎ込んでくれました。
その後も紆余曲折ありました。絵本作家にもなれていません。でも今なぜか、全く縁のなかったパリに夫と住み、症状はまだ大きく変わっていないものの、入院することもなく、発作の恐怖に閉じこもることもなく、穏やかに暮らしています。
わたしにとって日本は、住みやすいけれど生きにくく、逆にフランスは、住みにくいけれど生きやすい国。
そんなフランスでの生活、ひとりの異邦人の目に映った異国の日常を、うまく伝えられればいいな、と思うのです。
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