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スケッチ・オブ・ミャークを観て

スケッチ・オブ・ミャークめちゃくちゃよかった。とにかくよかった。何がいいってとにかく、人としての在り方。最近よく「どうなりたいか」より「どう在りたいか」の方が大事なんじゃね?ってことをよく考えていて、まさに最高に絶妙なタイミングでこの映画と出会った。タイミングって大事よね。

三重の友達から教えてもらった宮古にある池間島の古謡「池間口説(イケマクドゥチ)」。それを聴いた時、「なんだこりゃ!」って思った。うまく言えないけど、生々しくて人間くせえ!って。何も外部への意識のない、ありのままの歌っていうか、そのまんまの音楽っていうか。

そこからいろいろ調べているうちに、この映画に出会った。
ごくごくたまにあるんだけど、ものすごい光景や作品に遭遇した時に体の中で「ゴォーーーーー」っと音がする瞬間がある。地鳴りのような、はたまた地下で轟々と水が流れるような。この映画を観た時に久しぶりにその音を聴いた。
その前ではっきり覚えてるのは、酒井雄哉阿闍梨の千日回峰行の映像を初めて観た時。もの凄かった。もの凄いものは言葉にできん。解説を拒絶する。

人間という本来であれば動物により近い営み方をかつてはしていたものが、時を経て、言語を生み出し、会話をし、知恵を育み、文明を発展させ人類を進歩させた。それが結果的にはいいか悪いかはひとまず置いといて、自然に寄り添う事がなおざりにされ、言い訳として形式的な対応で済まされてる気がしていて、自然という大前提を後回しに進んでいった文明って感じする。「進歩・成長・発展」のオマケで「たまには自然のことを考えましょうねー」的な。
映画の中での宮古の人々は、自然・大地に対する人間としての「在り方」が、すごく真っ当に感じた。「神歌」という、神を崇める歌。神というと一見宗教臭く感じがちだけど、もっっっと純粋な気持ちで、目に見えない力を信じる心、自分という存在がこの世に生を受けて生かされてる事への感謝、その感謝への対象が「神」っていう形なだけで、その在り方が美しい。

水木しげるが幸福7か条の中で提唱していた「目に見えない世界を信じる」というのも、宮古の人たちの神への向き合い方と同じだと思う。
今の世の中目に見える世界が全てだと思っているから、心に余白がない。「こうしたからこう」っていう、全ての物事に理由があり、説明できると思っている節がある。なんで生まれてなんで死ぬかもわからないのに。

あと、人間って神に思いを馳せたり喜びや苦しみを感じると歌を歌いたくなるんだなっていう。これだけ記録として残されず、「口伝」という形で歌い継がれてきた歌のパワーって計り知れないものがある。歌ってすげえな。
宮古の人たちにとって歌うことと生きることは同義なんだなって。「生きていくことは苦しみである」という前提に裏打ちされた底抜けの明るさみたいなものにめちゃくちゃグッとくるし、そういうものには勝てない。それだけ体の底から湧き上がってくる歌というものにこの映画を通して触れられて本当によかった。

でもひとつ悲しいのが、映画の中でも言ってたけど、そういう神事や祭りがだんだん廃れていって、歌われなくなってきてるということ。その大きな節目は戦後だという。民俗学者の宮本常一も、戦後経済成長あたりから、どこの農村・集落にも当たり前にあった田舎の風景がものすごい勢いで失われていったと言ってた。それだけ日本は経済を発展させることに躍起になって来たけど、結局何が残ったんだろう。懐古主義ではないけど、今の形が正解だとは到底思えない。今まで人類が何万年も保ってきた暮らしの形がここ100年くらいで爆速で変化してなんか色々ぶっ壊れて、逆にそんな時代に生まれてすげーって思うけど、悲しさもある。君たちはどう生きるか、って感じですね。うーん。

ただ山を見て空を見て、遠くで鳥が鳴いてて、たまに風が吹いて
草が揺れて、それだけだった世界はもうない。遠くでホンダの4気筒のバイクの排気音がこだまして、山の麓ではブラジル産の牛ロースがホームセンターのバーベキューコーナーで大量に陳列された炭によって焼かれ、煙があがる。当然スマホで写真に残すし、気が乗ればインスタにもアップする。
そんな世界に自分もいる。もしかしたら自分も共犯者なのかもしれない。
でもそんな時代だからと流されずに、自分なりの在り方を持って抗うところは抗っていたい。








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