やさしさの波が押し寄せてきて
東京から地元へ戻ってきてなんだかんだもう10ヶ月近く経った。15年ぶりの宮崎の夏はくそ暑い。異常だ。仕事で熱中症気味になって何度かダウンしかけた。
それまで出会うことのなかった人たちと、今までのつながり(幼なじみや高校の同級生)や、地元にいたころには知らなかった場所や人とどんどん出会い、言葉を交わし、そこからさらにつながりが連鎖する。マジでドゥルーズの言うリゾーム構造になってて、びょびょびょ〜っと網目状に関係が広がっている。それに加えて、地元で出会う動物、そこに生息する鹿やタヌキや猪にたくさん巡り合って、土と動物と自分ら人間というものがすべて地続きで繋がっていることが手に取るようにわかる。空気も水も、生き物全体でシェアしあってる感じっていうか。
仕事の相方のおっちゃんの話を誰かにすると、みんなおっちゃんに会いたがる。それだけ魅力というか愛嬌のあるおっちゃん。こんな人もなかなかいない。それがとても建設的な社会システムの上に成り立っていない、何かを成し遂げた成果をあげて知名度をあげてっていう世界線じゃない所で存在してるからすごくて。ただとにかく愛嬌とやさしさに溢れてる人。それゆえに知り合いがめちゃくちゃ多い。仕事をくれる高校の同級生と「おっちゃんが死んだらどんだけデカい会場押さえなきゃいかんっちゃろ(笑)」と話していた。
一昨日、ゴルフコンペの打ち上げ兼おっちゃんの生誕祭があり、生誕祭にのみ参加したぼくは最近部分入れ歯になったおっちゃんの為に、プレゼントと称してポリデントと仕事のスパイク足袋をラッピングして用意しておいた。
2次会のお店でおっちゃんはハッピーバースデーを歌ってもらい、「50」のローソクの乗ったケーキを食べ、シャンパンまであけた。ぼくのサプライズにも「なんだがでっ(涙が出る)」と喜んでくれた。
その翌日である昨日、ぼくと彼女の思いつきでバーベキューをしようという話になり、おっちゃんも誘ったら奥さんも連れて来てくれるということになり、更に幼なじみや造園の仕事仲間(高校の同級生)の家族やらも集まり、急な呼びかけにもかかわらず14人が集まってくれた。地元の川でバーベキューも出来るような場所で、一番いい場所を押さえた。
おっちゃんは初対面であるぼくの幼なじみと同級生ともすぐ打ち解けていた。さすが。幼なじみとはすぐ師弟関係みたいになっていた。さすが職人同士、息ぴったり。
それぞれの世界でぼくが別々に知り合った人同士が一堂に会する、なかなか異色なバーベキューだった。だけどその空気感がめちゃくちゃ自然で、本当によかった。
個人的に人と人とを出会わせるのが大好きな自分的には満足すぎて終始胸がじんわりとあたたかかった。やさしさの波が押し寄せてきてたまらなく心地よかった。
20代の頃、なにもかも足りてない、満たされなさを抱えて東京の街中で塵やゴミクズの用に佇んでいた。心の中は枯渇し乾ききっていて、何かを求めていてもその何かがわからず、あてどなくふらつき彷徨っていた。
ただその足りなさみたいなもの自体が「自分らしさ」であるように錯覚していて、そこにこそ自分のアイデンティティを見出そうとしていた。誰からもわかってもらえなくていい、おれはおれ。それはただ世の中を睥睨して単に楽しそうにしている他者を「満たされている奴ら」と決めつけて嫉妬してるだけの危うい若造。あんな風にはなりたくないと、他者を決めつけ、「幸せな人たち」というレッテルを貼り、わかりやすい分断をして自分を納得づけていた。
至極当然だがそんな短絡的な解釈はまったく見当違いで、紐解いていけばどんな他者もひと筋縄でいく人生などなく、生きてる世界の中に絶対的にハードモードが存在する。そこの苦しみを知ってる人は人にやさしい、と思っている。一方ですごく鬱屈し湾曲してこじらせて攻撃的になってしまうパターンもあると思っている。ただ、ねじ曲がるにはねじ曲がったなりの理由があり、そこを紐解いていく必要もあると思っている。何故なら人は生きているし、生きていくし、その中で他者と関わり合わないことなどできないわけで、他者と関わるということは自分をさらに深掘りして愛していくという行為でもあるので、他者を傷つけてしまうことは自分を傷つけているのと同義だし、そもそも他者と自分が完全に分離して生まれてきた以上、苦しみはデフォルトでしかないので、その苦しみを埋めるためにはどうしても共同体である他者(もっといえば草木や動物)とも共振していく心が必要になる。
最近読んだ「自分とか、ないから。〜教養としての東洋哲学〜」を読んでそれに近いことを書いていた。何百年も昔から人はそのようなことを考えていたのを本を通して知った。
自分とそれ以外、っていう分け方をすると自分だけが完全に孤立して存在してるように思うけど、目の前にある山から風が吹いて、木の葉っぱが自分の足元に落ちる。それを拾う。何かを思う。たとえば茶色いな、とか虫食い穴が空いてる、とか。
そこで葉っぱが見せてくれる自分の心の有り様が自分そのものであり、そこで葉っぱと自分との間に隔たりが無くなる。それが人に置き換わっても成立する話で、つまり何が言いたいかと言うと、すべてを分離、分裂させると余計生きづらくなるよって話で、それこそ仲の良さそうな恋人たちを見てわかりやすく「幸せそうなカップル=満たされている人たち」と断定して嫉妬したり落ち込んだりという状態がそもそも変な話で、自分の感情を他人に委ねすぎというか、自分が満たされる為の努力の集積をないがしろにして後回しにして、その不遇の自分を、他者をわかりやすく否定することで守って一時的に可愛がっているだけ。それは自分を「こういう自分」と固定化して、その変わらなさを一生懸命保ってるんだけどなんの問題解決にもなってないっていうか。結局ただ時間稼ぎをしてるだけなんだなと。実際自分もそうだったし。「こんな自分」を演じることでどうにか死ぬまでの時間稼ぎをして保ってる感じ。
人はもっとゆるやかな波でいいし、まわりの空気との触れ合いたいによっていくらも変化するものだと思っている。そういう意味では自分ってないんだけど、生きてる間は別に自分が消えてなくなるわけではないので、ゆるやかにのびやかに、空っぽの状態で好きなこと楽しいことやってればそれで万事OKよ、って感じ。
そのゆるやかさのおかげでそんな異色のバーベキューも楽しめちゃう。これがこうだから幸せだ!おれはおれだ!とかじゃなくなんとなーく幸せって、いい。幸せに意味とか理由とかない。
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