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心のふるさと

蝉が去って静かな朝。鈴虫やらがコロコロなく朝露の間に間にひんやりした風がベッドまで流れ込んでくる。夏の暑さが異常だったせいで、まるで嵐でも過ぎ去ったかのようにより静かに感じる。

今ここにいること、誰かがいること。この場所にいることで繋がりうる人とかモノとか場所とか生き物。もしかしたらまだ東京で暮らしてたかもしれないという余韻を残しつつ、とりあえず今は、この地元の空気を感じて、地元の土を感じて、生きている。

コロナになったり、入院したり、その都度生活を立て直す。リズム感、というのがとても重要なことだと気づいたこの数ヶ月。生活のリズムパターンをつくることで心の安心がある。人は安心をベースに生きているのかもしれない。
具体的に言うと、やはり入院したりでいつもと違う生活パターンを踏むと、戻すのに時間がかかるしバランスが崩れて精神的に不安定になる。
そこで自分の中で元のリズムに戻すのに重要だったのが「自炊」だ。
自炊は心の効能としてとても重要な働きをしていることに気がついた。
自炊はただ「料理をつくる」という動作だけではなく、そもそも「自愛」のこもった行為なんだなと。
味付けや盛り付けの見栄えもそう。丁寧にやることで自分をやさしくつつみこむ。以前も少し書いたけど、自分のつくった料理は自分の心の味がするのだ。

20代前半の独身時代も基本的に自炊だったが、料理と呼べる代物ではなかったし、具体的に言えばただもやしを炒めて醤油をかけただけのものだったり、安いレトルトの牛丼だったりで、心のケアとしてはまったく機能してなかった。逆に言うと当時の自分の荒んだ心の表れのようにも感じる。

人にやさしくなるには、とにかくまず自分自身が充足していなければならない。その充足の為の行為・行動こそが万事生きる目的でもあり、それは簡単に言えば「楽しいことをすること」であり、むしろそれだけが生きる意味かもしれない。

今ある自分の荒んだ状況に向き合う事をせず、そこから遠ざけるかのように他の事で時間を潰し目を逸らしたとしても、なんの問題解決にもなってないので、結局荒んだままの自分がそこにある。それは全くもって不健康なことなので、体を崩したり精神的に参っちゃったりするのは当然だ。
目を逸らすツール、というのが世の中溢れちゃってるので、このままでいいやとなりいつまでも濁り水の中で泳いでいるかのような状態になる。

目を逸らし続けた結果、その積算時間が多すぎるせいで子供の頃あった自分のあるがままの感覚が消え、何で今こうなんだっけ?と幼少期から完全に切り離された自分がポツンとそこにあり、佇み、まるで迷子のように彷徨っている。有象無象のゾンビ、それが都心で見た人たちだった。

時間軸で言うところの現在地点の情報ばかりに頼りすぎてしまうと、現在地点の情報というのは日々変化していくので、拠り所なき砂のお城のようで心はぐらつく。
変わらないものなどないにしても、心は安定していたい。揺るぎない不動の地平を心の中に預けて生きていけたらどんなに穏やかだろうか。それは郷愁ともいえるし、心のふるさとともいえる。そういう不動の風景みたいなものを、情報でもない、流行でもない手応えのある、土と繋がっているような感覚を持ち続けていたら、生きている間はとりあえず大丈夫な気がする。


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