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脳内サンプリング5

8年ほど前に、『孤独のグルメ』の原作者として知られる久住昌之さんの美学校に参加したことがある。タイトルは『脳内散歩教室』。確か月1で全4回くらいだったと思うんだけど、平日のバイト終わりに当時住んでいた小平から美学校のある神保町まで通っていた。生徒の中には『パンの漫画』や『おれは短大出』等の漫画を描かれている、漫画家の堀道広さんもいたりして、さまざまな職種や年齢層の方が参加していた。ぼくは当時音楽活動に猛烈な行き詰まりを感じていて、なにかその後の活動の指針や創作のヒントにならないかなと思い立って(というかある人から教えてもらったんだけど)参加したのだった。

授業の具体的な内容ってのはあまり思い出せないんだけど、なにか久住さんからワードを与えられて、そこからなにをイメージしたかをそれぞれ発表したり、久住さんが吉祥寺にある、食べログにも載ってないような入り口の店構えの存在感が明らかに他とは異質で前々から気になっていたお店(確か蕎麦屋だったはず)に勇気を出して入ってみた体験談を聞いたりとかそんな内容だったと思う。授業の中で、「思いつく、とか気になる、といった感性がはたらく瞬間を大事にして下さい」とたびたび仰っていた。その言葉は実際に今に活きていて、それを中心に行動して現在がある感じがする。実際にどんなお店に入るかにしても、前回だかも書いたけど「食べログのレビューの確認作業になっちゃってるよね」みたいな話はこの時に久住さんが言っていた。その後その美学校きっかけで久住さんの存在を再認識し、青山のスパイラルで久住さん率いるバンド『スクリーントーンズ』のライブ(というかほぼディナーショー)を観に行って、おしゃれな雰囲気と大人な世界観に辟易して何頼んだらいいかわからずとりあえずチキンフリットかなんか頼んだら複数人で食べる用のパーティーセットみたいな感じで山盛りで出されて、それをひとり手を油まみれにしながらムシャムシャ貪ってた謎の記憶がある。なんじゃそりゃ。

でもイメージというものがふっと湧いて、そこから行動が始まってその先でなにかが発生してミラクルが起こるみたいな現象が今年は幾度もあって、その度に「そういうことだよな」という確信がだんだん積み重なってくると、最早未来は決まっているんじゃないかってくらい鮮明に見えてくる。これを体験する為にこの過程があるんだなとか、そういう事がたびたび起こる。実際に昨日も起きたし今日も起きた(話せる時が来たら話します)。

地元の高校の同級生で「さかも」と言う友達がいる。
彼は現在森林組合で勤めていて、現場を3つくらい持ってて現場作業もこなすなかなかやり手の男なんだけど、ぼくが高校卒業して地元の工場に就職してからなぜか急に意気投合してそれまで以上に仲良くなって、ぼくが東京へ上京する2日前くらいにも夜の公園でずーっと喋ってたのを覚えている。そいつが書いた歌詞にメロディーをつけて曲をつくったこともあって、音楽をやることをすごい応援してくれたうちのひとりである。

ぼくが東京へ出てきて数年後、まさか自分が東京で林業を始めるなんてのも上京した当初だったらまったくもって考えられなかったし、そのさかもが地元で林業をやってるということも想像してなかった。ただある時、お互いにそれから何年も連絡を取り合ってなかったしアドレス帳からも番号が消えてて、そんな矢先にさかもがテレビをつけたら『がっちりマンデー』をやってて、そこで東京の林業会社がピックアップされていると。「へえー東京で林業なんてあるんだー、ホームページとかあんのか調べてみよー」って会社のHP開いたらトップ画面にぼくが載ってて、「あれ!?なんであいつがいんの!?あいつ東京で音楽やってたんじゃなかったのかよ!!?」とびっくりしたという。その数日後に部屋を整理してたらぼくの番号の書かれたメモ書きみたいなのが出てきて、ぼくのもとへ突然知らない番号から電話がかかってきて「あーオレオレ、わかる?」ってオレオレ詐欺かよ!って謎展開の謎ミラクルが起きた事があって(笑)なんか世界って広くてせまいなーってその時感じた。

世界って多面的に見えて実は意識とか感性の世界で目に見えないまとまりになっている気がしていて、そのまとまりの中のひとりひとりはいつか出会うようになってる感じがする。出会うべくして出会うっていうか、その中の引力みたいなものが発生して個々が出会う感覚。

20代の時に今に続く出会いがたくさんあったタイミングがあって、その中で出会ったうちのひとりである三重在住のダダオさんが、「あの時ひかるさん(山下陽光)によって日本各地にいたなんかおもしろい人たちが一気に集合かけられた感じあるよね〜」って話してて超わかるって思った。その前のタイミングというか、出会い第一波みたいなのも上京直後にあって。その出会いっていうのが今回制作してる新曲のミックスをやってくれてる片岡フグリの力で発生してる。フグリを介してマジでめちゃくちゃいろんな人が出会いまくってて今思い返すとすげえなって。

話を戻すと、山下陽光にめちゃくちゃ出会わされた時、確かひかるさんは今のぼくと同じ歳ぐらいだったはずで、今ぼくがその歳になってみてめちゃくちゃ外へ外へっていう方向に出会いと出会いが繋がってる&繋げてる感じがあって超おもしろい。全然才能の方向性でいうと雲泥の差でぼくはひかるさんの足元にも及ばないんだけど、それでもあの歳の頃こんなことを感じていたのかな〜って想像したりする。

哲学者の千葉雅也の著書『動きすぎてはいけない』の中で、哲学者ドゥルーズが提唱する「ツリー構造」と「リゾーム構造」というものについて解説してて、それを説明したいけどぼくの解説力じゃ無理なのでそれを更に噛み砕いて解説してる人のサイトからちょっと引用します。

ツリーとリゾーム

この『ツリーとリゾーム』についての正しい解釈かどうかはわかんないんだけど、人との出会い方ってリゾーム的な繋がりの方がより強固である気がしていて、ある種運命共同体的な感じがするんですよね。上の解説であるツリー構造でいうとちょっとした軸となるバランスが崩れるとその関係性っていうものが一気に崩壊しちゃう気がする。少なくともぼくの出会い方はよりリゾーム的っていうか。今年は特にそんな1年だった。現在過去未来時代年代距離感すべてがある価値観やある感性によって一気に集合体としてその隔たりを飛び越えてスポーン!とひとつの点になる感じ。(「感じ」とか「気がする」とかぼんやりした感じですいません。って感じ)
社会の構造をアテにして人と人とが出会っていくとその先に起こる時代の潮流みたいなので一瞬にして価値観が入れ替わった時に、関係性が一気に変わるしその負荷にいちいち耐えられないので、ぼくはそんなもの一切アテにしません。感覚がすべて、心がすべて。ただもちろん、この社会の枠組みがあってこそこの世界に存在させてもらってる部分は往々にしてあるので、そこではそこでの付き合い方のノウハウみたいなもんを身につけておけば、それはそれ、とうまくスイッチを切り替えて生きていけばわりとなんとかなる。常に全力自分、とか本音で誰とでも、みたいなのは絶対無理だししんどいので、そういった猪突猛進完全主義的な考え方はさっさと捨て去って駅前の定食屋でアジフライ定食でも食べてましょう。

なんか実際に以前個人宅の庭の手入れの仕事をした時に、その仕事の直前からプライベートで開きまくってた時期で、その個人宅っていうのが空き家だったんだけど、ゴミ屋敷と化してて、その外に置かれてる物の配置とか乱雑さとかその空間の纏ってる負のオーラみたいなものまで吸収してしまって、まるでその家まるごとそこに住んでた人の精神が具現化されてるようで、めちゃくちゃこっちも引っ張られちゃって軽くブルーになった時があったの。ああ、ここに住んでた人はなにをきっかけにそういう風になってしまったんだろうかとかその苦しみに寄り添いたいとかってなってそん時ゃやばかった。だから教訓として、なんでもかんでも全方位的に開けばいいってもんじゃないんだなって。


モノをつくる時もつくりたい!って気持ちが発生するのってある作品に触れたりある文章を読んだ出来事がきっかけで生まれてくることが多い。意識からじゃなくておのずと。
本を読んでも理解なんてものは到底追いつけないし、理解と言える程自分自身に理解力の幅の広さも持ち合わせてはいない。もちろんその作品を捉えきれてもいない。
だけどなにか体の中にむくむくと湧き上がる感覚はある。それを見て自分もなにか表に放出したいという気持ちがある。それがある種の表現欲だったりするのかもしれない。
早川義夫が『ギンナンショック!』という銀杏BOYZを特集した本の中で「銀杏BOYZを聴いて、なにを歌いたくなったかが重要である」と言っていた。
本を読んでいると言葉が溢れる。詩を読んでいると歌詞があふれる。その時それが歌詞かどうかの分類や判別すら出来ていないけど、それは言葉の模倣でもなく、完全なオリジナルでもないけれど(そもそも真のオリジナルなどないのかもしれない)
誰かが繋いだバトンを同じ形じゃなくてもいいから繋げたい。ただ記事にコメントするもよし、自分で新たに文章なり絵で残すもよし。そこに佇んでいる「現象」をまた別の違った角度で伝えて、原型すら留めていない長い長い伝言ゲームを繋げていきたい。ぼくのこの言葉すらもどこかから繋がってる想いであり言葉だ。言葉のバトン。心のバトン。それらが半永久的に生のメッセージとして続いていけばいいと思う。逆に言うと、それが途絶えてたら人類は滅びるんじゃないかなあなんて、ね。
ドゥルーズの『ツリーとリゾーム』という概念が表す形。ぼくは馬鹿なので理解には及ばないけど、それはきっとその想いとか心の拡がりの形がまるで芝の根が地中で繁茂して外へ外へ拡がって行く感覚に近くて、その現象の連鎖によって人類は今日までどうにかこうにか平衡を保ってきたんじゃないかなって。人と人とが出会うその前に、想いと想いが出逢ったり繋がっていく。それは意味とか概念が伝わるんじゃなくて、熱が、ざわめきが、鼓動が伝わる感じ。そういうモノを大事にしたいなあ。

さあーて晩飯食お。

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