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ネタバレいっぱい海神再読第三十八回 八章1.尚隆は漉水の堤に係る策で何をしようとしたのか

あらすじ:頑朴対岸に潜み待ち構える成笙と王師の兵たち。やがて現れた州師は王師の築いた堤を壊そうとする。王師は州師と戦い民の喝采を浴びる。成笙は尚隆の命令を思い出す。

●元州の普通の人々その4

頑朴対岸新易に住む勇前たちは、漉水の増水を心配していたから、堤を造ってくれた王師、堤を切ろうとする州師をやっつけてくれる王師を歓迎する。
勇前にとって、かつてあった堤を切ったのが梟王でその後斡由が荒廃と戦ったことなんて、自分の生まれる前の知らない話なんだろう。堤を造らせなかったのが尚隆なことも、堤が必要だと斡由が奏上して尚隆に黙殺されたことも知らない。堤が対岸の頑朴を沈めるために造られたという噂にも自分たちの側が切られたら困るとしか考えない。自分の回りのことしか頭にない普通の人々。
十二国記の人間観は非常にシビアで、海神も天に選ばれ民を守ろうとする王の話であるにもかかわらず、民もけっして無力で善良なだけじゃない。沈められたら困るのは頑朴も同じだけど、そっちの住人の視点がないのはテクニックかな。五百年前の庶民なんて今ここの自分のことしか考えられなくても無理はない。
勇前も梟王末期とか荒廃の最中だったら斡由に頼っただろうし、尚隆が堤を造る前に水害になったら王を恨んだだろう。

●「漉水に堤を築き、これを以て斡由を試せ」

斡由が堤を切れば自分たちに勝機がある、という尚隆の伝言。これはどういう意味か。
一般には「堤は民のためのものだから造った尚隆は民の味方、斡由が民の味方なら堤を切らないはず。切ろうとしたら斡由は民などどうでも良くて自分のことしか頭にない」てことのようだけど、これはちょっと変。
①王師の遠征以前に堤を造らせなかったのは尚隆、抗議してたのが斡由。
②尚隆は堤を頑朴を水攻め出来る位置にだけ造らせた。
③民は堤に守られる新易だけでなく水攻めで沈められる頑朴にも居る。頑朴の民は八章1では出てこないけど、三章2で「(斡由は)街の者にも本当に慕われている」とあるんだから頑朴にだって民は居た。水攻めされたって民も共に籠城すればいい? 兵糧不足な状態で民と共に籠城した顛末は六章4の小松で描かれた通りだし、
④かつて梟王は叛乱を起こした里の水門を開けて水中に沈め油を流し込んで火矢を放って殺し尽くした。(一章1)
もし斡由が堤を切ろうとしなかったら、尚隆には頑朴を水攻めするという手が使えた。でもそれで勝てても民の心が尚隆に傾くとは限らない。梟王を思い出してむしろ恐れ忌むかもしれない。しかし…斡由の記憶にある王は梟王なんだよ。斡由が王の水攻めを過剰に恐れるのに尚隆は賭けた。斡由に水攻めに使える堤を呈示して狙うかどうか試し、狙えば斡由が唱えた「堤を造る者は民の味方、造らせない・壊す者は敵」という枠組みを逆用して民の心を斡由から引き離し自分のものとする。これが尚隆のいう試しであり勝機なんだと思う。
尚隆の策は見事当たり、斡由は元州の民から見捨てられた。実に巧みな手腕だけど…これってやって良かったこと?
沢山の人を理由説明なしで危険に落し込んで、抗議した者を危険の源に仕立て上げる。実に鮮やかで爽快でさえあるけれど、やっちゃいけないことだよ。尚隆が格好良くって気さくで感じよくて、ここぞというところで民をいかに大切に思っているかを感動的に語るからといって、尚隆じゃない人がやったら相当えげつない策は尚隆がやっても同じだ、と私は思う。
ちなみにこの時の尚隆は斡由が更夜に囚人を始末させてたことは知らないし、成笙に命じた時点では元魁幽閉も知らなかったんだよね。
何故尚隆はこんなことしたんだろう?

●尚隆は何故、漉水の治水の裁可を下さなかったのか、そして堤に係る策で何をしようとしたのか

まず思ったのは、斡由の謀反を戦闘なしに納めようとした。尚隆はかなり以前から斡由を怪しんでいて、斡由から元を切り離すために漉水の治水を利用した。尚隆がそうしたのは戦国時代から来たからだよね。国内の権力が分裂して相争うのを避けるには災害の危険くらい、と思ったんではないか。荒廃…つまり災害と妖魔と戦ってきた斡由が、災害の危険を放置するくらいなら戦争くらいと思ったのと似てる。
しかしこれは少し変。斡由はともかく白沢や元州諸官はもともと真面目な官吏なのに、謀反なんて起こしたのは治水のためだった。勇前のように堤を欲しがってたのは民も同じ。国府の官も必要と認める治水をさせないことで元州を謀反に追いやり、堤を使って人気を得るなんて、マッチポンプ※じゃないか。
それに、尚隆の政策は元州だけでなく雁全土が対象だった。
四章1で斡由が指摘した通り、治水が必要な川は漉水だけじゃない。漉水のが斡由を嵌めるためだったとしても、他の州で大きな災害が起ったらどうする?
尚隆が、
①災害は起きないと思ってた
②災害対策しなくても民の被害は防げると思ってた
③災害で民が被害にあってもいいと思ってた
のどれかなら辻褄はあうけど、
①について…災害対策は災害が絶対起きないなら省略できる。こっちの世界だって省略して経費節減とかやろうという人はいる。災害が起きるまではそれで賞賛されたりする。ただ災害が起きた時に被害が甚大になるだけ。正当な王が居れば災害が起こらないなら対策費用が節約できて助かるけど、なら帷湍や朱衝がうるさく治水をせよと求めるはずがない。つまり常世の常識として王が居ても災害は起きる。
②について…そうであればいいんだけどどうやって? 五百年後の楽俊も「洪水にならないように、王が治水をするんだろ?」(月影五章8)と言った。つまり常世の常識として災害対策は必要なんだ。戦争も災害も人にコントロールしきれるものじゃない。斡由だって六章3の言に反して七章1では戦争のために民から搾取しないわけにいかなくなってる。尚隆だって対策無しで災害を民の被害を出さないようにコントロールなんてできなかったんじゃない?
③は論外。ではなんで?
④ひょっとして尚隆…災害…天災が起きるかどうかで天を試そうとしてた?
尚隆は常世生まれじゃない。天に選ばれた王と言われても実感はないだろう。まして、小松を救えず一人生き延びたことを悔やんでたら、別の国の王にすんなりなれたとは思えない。
尚隆が放浪してて別の王を助けて後継者になった、とかならまだましだったろう。でも常世は尚隆が優れた正しい人間だから王に選ばれたって世界だ。小松を救うより父に従うのを選んだ自分が正しかったなんて受け入れられるだろうか。
雁が荒れ果ててた頃は本当に治水もできなかったのかもしれない。その頃は尚隆もいっぱいいっぱいで余計なことを考えられなかったかもしれない。でも少しづつ余裕が出来た時、自分に王をやる資格があるのかと疑ってしまったんじゃなかろうか。尚隆は元々自己評価が低い。小松滅亡の後では尚更だろう。それなのに常世では王は絶対視される。尚隆は苦しかったろう。苦しかったから天災が起きるかどうかで天を…自分を試してしまったんじゃないだろうか。

なんか非常に変わったことを言ってますが、私、海神はマジで百回以上再読してるんですが、何回読んでも尚隆が治水をやらなくても水害が起きないと知っていたとか、水害がおきても治水無しで民を守れる方法を知ってたとかいう箇所が見つからない。てことはそんな箇所はない。だから、尚隆は天災が起きるかどうかで天を試してたんじゃないかと思う。
王が天を試すのの是非はおいといて、大勢の民の命をかけちゃいかんでしょう。漉水作戦が漉水沿岸の元の民を危険に晒すことで斡由を揺さぶる策だった、てことは、漉水作戦が元の民を人質にした策だったってことだし。
それに斡由を嵌めたやり方。斡由が拠って立ってたのは自分が積み重ねた実績だけど、それを無効化したら尚隆も実績に拠って立てなくなる。尚隆に残るのは「天意を受けた王」だけ。で常世の王はいずれ自分が実績を積み重ねて造ってきた国を自分で損なって死ぬという運命とセットなんだよね。小松を守れなかった尚隆が自分で雁を滅ぼす。その恐ろしい運命を逃れるには国を滅ぼさない程度に道を失ったところで禅譲するしかない。ひょっとして尚隆、禅譲できる程度に道を失うためにあえて天を試していた?

…本当に変わったことを言ってますね。しかしこう考えないと尚隆がなんでああやったかが解らない。王であることが苦しければやったかもしれないと思う。尚隆だって人間だから。尚隆が聡明で誠実であればあるほど苦しかったろうと思うから。
私、尚隆は好きなんだけど、それは八章2で尚隆が自分のやったことにきちんと向き合ったからで、八章2の尚隆はそれくらい良かったんだけど、それ無しの尚隆はマジヤバかったんじゃないかと思います。

●尚隆の理想

自分は民に豊かな国を渡すためだけにいる、と七章7で尚隆は言った。小松尚隆の頃から抱いていた理想。その理想と治水の件は矛盾する。
口先だけの理想だったとは思わない。五章4では早々に肚を括って諦めてしまったけれど、六章4の小松最後の戦では先頭に立って戦った…誰も救えなかったけど。
延王になった尚隆は小松尚隆の理想をどう思ったか。綺麗な理想を抱いて民を救えなかった。理想なんて役に立つのか、とか、自分は理想に相応しくなかったのか、とか疑ってしまったんじゃないだろうか。
無論、理想なんて簡単に捨てられるものじゃない。玄英宮の装飾を売り払い、三官吏を抜擢したのは理想通りだけど、治水の件は相違してる。尚隆は迷っていたのかも。理想を守るか捨てるか。

災害対策しないのはそんなに大したことじゃない、と考えたら尚隆の理想との矛盾はない。
荒廃=災害と妖魔だから、災害と戦うなんてくだらない偽善だ、と考えたら斡由が屑だというのにも矛盾はない。
問題は海神作中の価値観が「災害なんて大したことない、対策なんかやらなくてもいい」なのか、読者である私がどう思うか、なんだな…

●麒麟誘拐事件

海神は斡由の六太誘拐から始まるんだけど、尚隆も漉水沿岸を脅かすことで斡由を挑発してたという構図は面白い。誘拐ミステリって関係者の立場が最初の見かけと違ったり変わっていったりするのがトリックだったりする。斡由は犯人で尚隆は被害者で探偵だけど、見方を変えると尚隆が犯人で斡由が被害者ともなるということ。
あと頑朴にも民が居ることを三章2で書いておいて八章1では書かないのもミステリぽい。必要な情報は全てフェアに呈示されるけど、読者を誘導するように注意深く配置されている。
ミステリって作者が読者に挑戦するジャンル。読者は作者の挑戦を受けて立つよう期待されてる。海神は十二国記シリーズの異色作。ミステリ的読み方をするとしないとでがらっと様相が変わる。本当に凄い話だと思います。
※マッチポンプ…自分でマッチで放火して消火ポンプで消してヒーローになること。自作自演。

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