【オブリ氏の話】好奇心旺盛だが何も続かない人へ
仕事のない平日の午前中である。起き上がって仕事をはじめるイラストレーターの夫を尻目に、私は二度も三度も眠りに帰る。眠れば夢を見る。現実世界と同じような緊張が私を包むが、目を覚ました瞬間から夢の記憶は遠のいていきもう何も思い出せない。
「今日は何をする?」
4時には仲良く歯医者に行く予約を取ってある。ベトナム系スイス人の夫は東京にもう何年も住んでいるのにも関わらず、日本語が下手である。下手というか言語として習得できているレベルではないため、歯医者には私も一緒に行くことにしたのだ。
「歯医者まで映画を見てランチする?」
私は言ったが、夫は渋った。
「仕事があるから、できれば映画は金曜日に区役所に行くときにまとめていけないかな?そのほうが時間を無駄にしなくて済むし。歯医者に行った後どこかでディナーにしよう。それまで僕は働く」
「OK」
夫は時間を無駄にするのが大嫌いである。そして土日祝日も関係なく働き続けている。イラストレーターとしての大きな成功を夢見て、少しでも反響のある変態少女の絵ばかりを書き続けている。再びマットレスに横たわって今度は本を開いた私に、また夫が話しかけてきた。
「あのさ、オブリって知ってるだろ?スイスの僕の親友の。彼も君みたいだったんだよ。ずっと仕事がなくて、色んなことに手を出して、すぐ辞めてた。今君は仕事あるけどさ。」
その通りである。私は新しいものに対する好奇心は強いのだが同時にとても飽きっぽいため、色々手を出して何一つ続いたためしがない。今の仕事もはじめて半年で、もうどん詰まりのような気分である。兼ねてから夫婦間でどうしたら状況が改善するのかを話してきたから、折角の休みを再びマットレスの上でごろごろと過ごそうとしている私に夫は話しかけてきたに違いない。
「僕がデザインТシャツを売る小さなビジネスをしてた時、彼を雇っていたことがあるんだ。最初のころ彼はとても生産的で、一日に1デザインを作り上げることができた。これは凄いことなんだよ。ただ一か月もしたら彼はどうしてももうこれ以上その仕事がやりたくなくなってしまって辞めてしまった。
そのあとは椅子の修理の仕事、車を直す仕事、色々やったが全部一か月ほどは持ってもそれ以上は続かない。
そんなある日、僕とオブリで家を借りようってなったんだ。ただオブリには丁度仕事がなくて安定した収入減があることを証明できなかった。バーを持っている友人は偽りの給与明細を作ろうか、とすら提案してきた。家を案内してくれたエージェントの女性は収入減がないと家を貸すのは難しいと言ってきた。
そこで僕はオブリを車に連れ込んで、こういうことがあるから、何かを続けなくちゃだめだと説教した。どうして何も続かないんだ?と。
オブリは突然怒り出した。
『わかってるよ。全部わかってるけどできないんだよ』
そこで僕は僕がオブリとの間の超えてはいけない一線を超えて偉そうに説教してしまったと気づいたんだ。家は結局借りなかった。
何が言いたいかっていうと、物事は続けなくちゃ身にはならない、結果も出ない。何か君が本当に好きなことを続けようって気になれるといいねって思うよ」
夫は説教垂れるのが好きである。そう話すだけ話してまたイラストを描く作業に没頭し始めた。夫の話の締めくくりは、何かを続けなくちゃいけないということだ。現に夫はもう何年もイラストレーターをやっている。良い時期はイラストだけの収入で世界中を転々と旅していたらしいし、ずっと続けていて、それなりに本も売れていて、依頼もあって、確かに凄いと思う。
しかし本当に凄いのは話の主人公のオブリ氏なのである。私は彼に出会ったことはないが、彼は今ではスイスで成功した若手実業家の一人である。確か謎解きゲームかオリエンテーリングかそんなものを観光客相手にやっていて、現地観光ガイドでは常にやりたいことランキングの上位にあるアクティビティを自ら作り上げた。おまけに何でも自分一人で建築できる才もあって、彼女の誕生日のために日本の居酒屋風の小屋を作った動画を送って来てくれたこともある。
「彼はラッキーだったからね」
夫は言うが、オブリ氏の話は私たち続けられない族にとっての朗報でもある。現にオブリ氏は現在夫の何十倍・何百倍も稼いでいるのだろうし、彼にそんな過去があることのほうが意外だった。何よりもほんの少しだけ私にも未来の希望を感じさせてくれたので、夫とオブリ氏には感謝して読書に戻りたい。
(トップ画像はデザイナーの杉江慎介さんからお借りしました。可愛くって素敵です。)