「二元論」と「全体論」
前回、前々回のブログに書いた学びを体系化した連続講座「Journey to the Source (JTS)」の第1回目に参加してきました
また、学びと気付きをシェアをします
「ありのまま」とか「心理的な安全安心」について、前回は書きました
まずは「ありのまま」の自分を知って、受けとめましょうということを書きました
今回は、僕の「社交性」を例に挙げて、もう少し深掘りしようと思います
僕は社交性が低い、コミュニケーション能力が低いと自覚しています
社交性もコミュニケーション能力も高い方がいいに決まっているし、低いのはダメなことだと思っていました
〜な方が「いい or わるい」という捉え方を「二元論」と言います
いいか?わるいか? を判断して、ものごとを捉えています
一方、「全体論」とは、そういう判断をせずに「ありのまま」のすべてを受けとめます
こんな僕なので、知らない人に自分から声をかけるのが苦手です
セミナー会場などでは、頑張って知らない人に話しかけてみる時もあれば、休憩時間を一人でスマホを見ながら過ごすこともあります
頑張って社交的に振る舞うのも自分だし、一人でモジモジしているのも自分です
「社交的な自分」と「モジモジしている自分」を行ったり来たりしている動きの全てを「ありのままの自分」だと捉えます
そして、「ありのままの自分」を、まずは自分自身が受けとめ、認めてあげるということが重要です
「社交的じゃなくてもいい」と割り切ってしまい、「このままでいいじゃないか!」と無理矢理にポジティヴを装うのとは違います
変わろうと努力するのも自分ですし、変わりたくないと思い何もしないのも自分です
社交的になりたい、コミュニケーション能力を高めたいと思って、コーチングを学ぶのも自分です
僕は自分の社交性について、そんな風に捉えることにしました
もう一つ大切なことを学びました
「ない」の裏には「ある」が必ずあるという捉え方です
「社交性がない」の裏にも何かが「ある」はずです
その答えは、「自分がある」です
それは、示唆が深く、自分自身を見つめ、内省出来るということであり、自分自身をよく知っているということです
社交的な人やコミュニケーション能力の高い人にはすごく憧れます
でも、社交的でなくても、自分なりの方法でメッセージを発信することは出来るし、人とつながりことは出来るはずです
このブログも、学んだことを通して自分を見つめ、思考を深めてたどり着いた見解や仮説です
これは、誰にでも出来ることではないのかもしれないと思いました
「社交的になければならない」とは考えず、社交的↔︎モジモジ を行ったり来たりしながら、コミュニケーションスキルの勉強を続けつつ、得意な内省によって自分を見つめ、自分なりの方法でメッセージを発信する
気負わずに、肩の力を抜いて、やっていこうと思います
そうすれば、元々持っていた自分の良い面を自然と出せるようになれそうな気がしています
まずは「ありのままの自分」を受けとめられるようになろうと思います
その次に、他者を「ありのままに受けとめる」が出来るようになりたいです
でも、相手の「ありのまま」を受けとめるために、自分が犠牲になる訳ではありません
こちらの「ありのまま」も伝え、お互いの「ありのまま」をぶつけ、対話によってwin-winの案を探るというようなイメージです
「ティール組織」における「全体性」とは、そういう関係性が当たり前の文化になっていることなんだと思います
かなり高いハードルですが、そんな組織、チームを目指したいです
まずは、「ありのままの自分」を受けとめようと思います
社交性もコミュニケーション能力も低いですが、人との「つながり」を拒んでいるのではありません
「ありのままの僕」を理解し、受けとめてもらいたいというニーズを僕はもっています
そして、人とのつながりを広げ、深めていきたいと思っています
こんな僕ですが、これからも、よろしくお願いします!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?