極の山姥切長義の修行から見る、「山姥切」の名を持つ刀剣男士の設定とこれからについての思考録
2025年1月25日ついに山姥切長義の極が実装されました。
2018年10月31日に彼がゲームに実装されてから実に6年以上の期間を得てようやくです。
伯仲と呼ばれる 本歌と写しの彼らに魅せられて10年。ようやく一つの思考がまとまったのでここに書き記しておきます。
前提として、学術的な見解というよりかは個人がいろんな情報を、見て、聞いて、感じて、考えた、そんな見解となっております。
とにかく個人の考えがメインですので、ご了承ください。
誰かの思考の一助になれば幸いです。
山姥切国広、山姥切長義のキャラクター設定および、元になった刀剣の情報整理について
山姥切国広
初
霊剣 山姥切を模して造られたとされる打刀。霊剣山姥切の写しを言われ性格は少しひねくれ気味。
オリジナルではないことがコンプレックス。長尾顕長の依頼で打たれた刀。
と公式では紹介されている。
すでに、フィクション要素がほぼすべてになってしまっており、実は長義の写しとはゲーム内では提示されていなかった。
極
長尾顕長の依頼で打たれた刀という認識は変わらず、国広第一の傑作として審神者の刀となる。
ちなみに写しであることを捨てたわけではない様子は、就任3周年「写しだろうが気にせず本質を見ようとするのは、経験ということか?」や、戦闘中に「偽物なんかじゃない」と口にしたり、畑当番で「土いじりしていると、雑念も吹き飛んでいくものだ」
など、初のころからの口癖や思考は残っている様子。
さらに、回想でも自分が写しであることは否定しません。
他、受け入れている様子は、恰好などからも時々滲んでおり、どことなく長義に寄せた髪型を軽装でしている様子がうかがえます。
(祝装では、どうやら極長義にあるアイテムと同じような形のものがネクタイの装飾にあるようで…?)
修行の手紙について
2通目には、初めて長義の名前が出現します。
また、3通目の手紙では山姥切の名前がフィクション性の高い、後付けであることが強調されています。
そして、国広は写しであることよりも山姥切の伝説が引っかかっており、刀剣そのものが写しであることは受け入れている様子です。
長義との関係は、初も極も、迷いながらもすれ違っている様子が回想や手合わせで判明します。(引用は省略します)
大本の、本来の性格は極で判明しますが、見た目以上に幼くて無垢で純粋。※主観
さらに頭の中では発する言葉以上に考え事をしがち。
言葉遣いは難しく話がちですが、主語が抜けていたり肝心なところが話せていなかったり。さらには会話は苦手で自分の気持ちは短文になりがち。
豆まきの行事を知らずに行っていたことが極で判明(声色で分かります)、節分の意味を頑張って調べた様子が、まるで学び途中の子供のよう。
審神者に対しては全肯定の様子を見せ、基本的には受動的。
(※景趣ボイス:いや、俺に意見はないな。好きにすればいい が顕著。)
しかしながら、いざ戦場になると思考はしつつも力技。
考えた後に自分が切った方が早いとしがち。意外と自信家です。
「相手がなんだろうが知ったことか、斬ればいいんだろう?」は彼の戦闘に関する考えの主たるものだと察せられます。
山姥切長義
極状態ではなく初の状態だけの情報で記します。
性格は、もてるものこそ与えなくてはの言葉通り、与えたがりな一面がありつつも、高慢。※主観
やりたくない、嫌なことでもなんだかんだやってくれる。(畑当番・馬当番・豆まき参照)
気に入った相手にこそ皮肉めいた、嫌がらせにも思える呼び方で呼ぶ。(猫殺しくん、メディアミックスではありますがへし切くんなど)
とりあえず自分の武力に絶対の自信があるのか手段が暴力的。「相手が誰だろうが知ったことではないな。斬って捨てればいいだけだ」の言葉通り、最終的に暴力。
余裕があると見せる演技をすることが多い。(それが隙になっている)
山姥切国広に対してただならぬ感情を寄せている。もしかしなくても山姥切国広に対して期待を寄せている?(特命調査聚楽第参照)
監査官という任務を与えられるほど、優秀で理性的(だが暴力が結論になりがち)
長義の山姥切という名前についての見解についてですが。
ここで彼は認識されるべき、とは口にしつつもそう呼ばれるべきとは一言も言うことはありません。
刀帳もそうです。
ちなみに元ネタの刀剣である「本作長義 以下58文字」も、山姥切という号で呼ばれてはいません。刀剣の登録として山姥切の号を持つのは国広の方のみ。逸話や伝承などで付与されることはありますが、所蔵元である徳川美術館は否定しています。
何故彼は山姥切長義として刀剣男士になったのか。明らかに持っていないと否定されているのにも関わらず。
私は実装直後からここに疑問を抱いていました。
疑問は極で解消されることになります。
山姥切長義の修行の手紙について
1通目
しぶしぶなんかい!
とツッコミを入れつつも(弱い刀にはとか言ってたからそのくらいは言いそうではありますが)
ここで、一つの思考が判明します。
山姥でも斬りに行ってみようか?
やはり彼は、山姥を切った伝説を記録していない存在で。
さらに持っていないことに自覚的だったのだと。
元ネタでもある 本作長義 以下58文字が山姥切の号を持っていないとしている、所蔵元である徳川美術館の見解とほぼ同じのような認識を持っているよう。
あくまでも彼は「山姥切」と名乗っている「本作長義」なのでは?と私は考えました。
持っていないがあえて持っているように振舞っていた。
自分はあの国広の本歌なのだから、持っているべきなのだと。
※山姥切の名前の推移などの見解については下記の論文をご参照ください。
とても詳しく書いてあり、また界隈でもよくお見かけする方々のお名前も記載されております。山姥切の名前のあれそれについては是非そちらの方々の見解なども合わせてご参照ください。
もうね、すんごい。
とにかく、この1枚目で彼は霊剣山姥切ではなく「本作長義」をもとに生まれた刀剣男士であると判明していると考えられます。
2通目
まず、二行目については、具体的な主語がないためいくらでも余白を考える余地はあります。
さらに「一人、心当たり」ということ正当な評価を得られたのは一人以上となるため、複数人のうちの一人、と考えていいともいます。(だけ、と断定していないため)
私としてはその中で「刀工 堀川国広」を思い出したのかと思いました。
そう思った最大の理由は、彼の茎に刻まれてる長い長い銘です。
2018年の京のかたな展、本作長義の紹介音声ガイドにこんな一文がありました。
本作長義に刻まれた名前が、堀川国広(刀工)が刀として本作長義と向き合った何よりの証拠。
審神者の他に本作長義を極めた、史料として残っている確かな人物は刀工、堀川国広と残されている。
残された証に気づき、彼は刀工堀川国広のもとへと向かったのではないでしょうか。
次に1行目について。
刀剣男士、山姥切長義視点での「正当な評価」とは?
あくまでも刀剣男士、山姥切長義のキャラクター視点での評価であることを前提にさせていただきますが…。
まず、長義が言われて嬉しかったのだと判明する回想について。
後家兼光との回想 其の141「無類の桜梅」より。
後家兼光はありのまま、長義の刀そのものを見て良き刀だと言う。
そして、それに対して皮肉も交えながら刀工長義が喜ぶだろうと伝える。
長義の性格として、気に入った相手にこそ皮肉めいた物言いをする、嫌味な言い方をしがち。
(南泉とのやりとり参照)
ということは、皮肉や意趣返しのようなものを含んだ時点で、彼はものすごく嬉しかったのだと分かる。
そのことを踏まえて、本作長義の評価の話。
本作長義の解説として、京のかたな展でこんな記載がありました。
私たち人の視点からすれば、史料として貴重というだけでも十二分に価値があり、素晴らしい評価だと思います。
けれど、「長義の刀」としての視点はどうでしょうか?
長義の刀なのに、重点的に評価されるのは「国広」の話。国広の状況が残されている貴重な銘。
もちろん本体の評価も傑作だと評されていますが、目立つのは国広の話です。国広が打った写しがあることも含めです。
長義の刀なのに、国広の証明になってしまっている。それが重要視されてしまっている。
さらには、過去はよかったものの現代においては磨り上げは完全な姿ではなくなるということで、価値を下げられがち。
刀としての価値も、本体の美しさや切れるといった価値よりも。
伝承を持っている、号がある、著名な人物の、著名な家の宝であること、刀工の名前が秀でていること、など。本体に関係のない付与されるものでの評価が広がっている。
過去も現在も、ブランド志向は根強い。
(もちろん本体重視で評価している人もいたでしょうが、大多数は物語と名前の強さに埋もれてしまっていたのだろうなと思えます。吉光というだけで評価したり、村正の名前が広がって贋作が広がりまくったなどありますし。)
もしかすると、記録されていないだけで、刀そのものを評価した人はいたかもしれない。
けれど銘打以前の情報があまり残っていない以上、辿りようがなかったのかもしれない。
そんなこんなで、刀そのものを第一に考える高慢な性格の長義が、人間のこの評価に呆れるのも・・・なんとなく分かる気がします。本質を見れていないな、と。
けれど、否定はせずそれも評価ではあると認識してはいそうですけどね。
(持たされた名前の通りにふるまおうとしたりしていたので)
とにかく、写しの話とはまた別枠で、彼の本質である部分が別の評価で隠されてしまいがちだったと思います。
彼の長義の刀としての評価が主体であるべきだという思いは、自分の存在を証明するはずの銘によって隠されてしまっていたのかもしれないと。
これは妄想ですが、もしかすると意外と山姥切の名前で呼ばれることは不服だったのかもしれません。呼ばれても否定や訂正もしないでしょうが。
3通目
長義が打った傑作として、彼は自分の物語の核を認識します。
もともと持っていたのかもしれませんが、素直に再認識したのが伺える3行。
彼の手紙の通り、本作長義が傑作だったから国広はリスペクトをもって写しの国広を打った。
この当時の写しの概念は、本作長義と山姥切国広が完全に一致な姿をしていないことから今の復元模造とは異なることが分かっています。
以前、本丸博2017があった際、三日月宗近の写し制作にあたり確か写しの影うちが展示されていた記憶があります。
その際に、写しについての解釈で、刀工がリスペクトを持って打つものだとあったのを覚えています。(文章写真にとったような記憶があるのですが大分前なのですぐには出てこず)
原案サイドにもきっとこの認識はあったと思われるので、長義が実装されたころには写しは本歌のリスペクトがあって生まれているものと考えてもおかしくはないのでは、と。
とにかく、写しが打たれるということは傑作の証明のようなもの。
彼はその大事な核を改めて認識して修行を終えたのだのでしょう。
その次の行からは彼の監査官として、として高慢な性格が示されています。お、お前の修行で何故こちらが評定されてるんだよ!?
ずっと長義は審神者を試していた、自分の主たるものか評定していた。
とはいえ修行がきっかけで評定を下したというよりかは、修行に出されたことを最終的な合格点にしたような気がします。
ラストの文章。
彼の真面目で誇り高い一面と、審神者への絶大な信頼と圧。
物として判断は審神者に委ねるつつも、そうなるつもりはないという宣言。
これ以上なく、高慢で、けれど信頼の証があふれる言葉。
「総て」というところに彼の誠実さと、審神者にも教えないことがあることが分かります。
「全て」完全なほどに審神者に与えることはできないのだと。あくまで「総て」であること。
確かにこの手紙から、彼の感情や苦悩は分かりえません。
一線がしっかり引いてある距離感の誠実さ、自分と審神者の明確な違いを認識しているところが誠実です。
そこに交えるキーワード「なまくら」
斬れない刀に価値はないというような物言い。刀本体の本質を主張するネガティブワード。
なまくらには刀剣男士としての価値はない、使えなくなった道具はあなたには不要だろうという考えは、実に暴力的で鋭い刀のよう。
美しいが高慢。より正確に言えば自分に自信があり、他に臆する事がない。
彼を体現する言葉通りの手紙だと思います。
帰還セリフについて
彼自身の一つの結論として、己は長義の傑作であることを軸にしたことがうかがえます。
ここで、俺は山姥切を名乗り、と、あえて己の号ではない名前を完全にものにしたよう。
歴史の中で、自分を写した傑作の一振りに山姥切という号がついた。経緯はどうあれ、号がつくということは名刀の証であり人からの評価の一つ。
自分を認めた堀川国広が写した傑作の名前を本科である自分が持つことは、刀工達への手向けになる、そんなことを考えたのではないでしょうか。
化け物切りは強い物語《なまえ》。
強い物語《なまえ》が与えられるということは、刀にとっての誉の証でもある。
自分を見初めてくれた、長義の刀として心を寄せてくれた堀川国広(刀工)の心を寄せた結果の傑作が評価として持たされた名前。
その名前を本歌である自分が持たないことは堀川国広を否定することに繋がるから。
だからこそ、写しが山姥切と呼ばれる限り、その歴史がある限り自分は山姥切であり続けよう。
そんな風に受け取れます。
自分を愛した刀工が、自分を研究し写した一振りは自分が傑作の証。
周りの脚色も国広の銘の評価も、すべては自分が傑作であった一つの証拠なのだから、全て持つことが持てるものの義務である。
持てるものこそ、与えなくては。
持つことを受動的ではなく能動的に選んだ彼。
彼は、山姥切国広と本歌と写しの関係性であることを”傑作の証”だと改めてそれも自分の核にしたのだと思います。
本科と写しの関係がどうでもいい、いらないものなら、本作長義として刀剣男士の名前が確定していたことだと思えるので。
その方が長義としての評価で済むのだから。
けれど山姥切長義はそうはしなかった。
(メタ的な見方をすると、原案サイドが現実の山姥切国広を霊剣山姥切の写しと、現在では誤りにも思える情報で作り上げたが故の、帳尻合わせのような気がしないでもないですが…それでも彼ら二振りを本歌と写しにしたかったのでしょう。物語的に楽しいですしね。)
修行で改めて、彼は自分の核と、心、物語と向き合ったのだと思います。
修行後、極の言動について
審神者に対して
信頼度がとにかく高くなり、物言いは柔らかいけれど言うべきことは言う、怒りもする。
絶大な信頼がここにある。
甘やかすだけではなく、そして一線も引きながらの信用と信頼。
「すごいや……」と思いました。
この距離感は、一歩引いていたい人、近くにいてほしい人どちらにもマッチするようにふるまっているのが「とんでもない魔性キャラクターが完成しちまったぜ…!」という気持ちです。
器もなんだかとても大きくなりました。素直に言葉にするようになったのが、あまりにも強い。いろんな意味で。
山姥切国広に対して
現状手合わせしか情報がないので「追加情報よこせ!」とはなりましたが、それでもきちんと情報開示はされているので整理します。
対初
対極
ここで重要なのは対初かと思います。
偽物くんと呼んでいないこと、写しなら、とはっきり国広が写しであることを口にしています。
そのことから本歌と写しという関係性であることは間違いないです。
傑作の俺の写しならもっとやれるだろう?という最大級の期待と感情が向けられています。愛の種類はさておき、愛なのではと思えます。(愛にはいろんな意味がありますからね)自分に心を寄せた証拠の写しを、高慢な長義が愛さないなんてことはないわけです。
おそらく初への感情と極への感情そのものに変化はないと思うので、極の国広にもこの感情はあると思います。だからこそのなまくらならばそれまで、という最大級の責任の取り方をするわけです。
素直に出力した分、物騒感と重い期待と愛情が見えます。
極同士であっても、なまくらなら折る気満々で対初と心構えは変わりません。愛は変わらず。
とはいえ声色は相手が折れることはないのが分かっていての長髪のようで国広の声色もきちんと互いを見ていて、とてもいい関係になったことが分かります。お互いの視線が合った、言葉がかみ合った瞬間です。
それはそうと。
頼むからこの他にも追加回想をくださいという気持ちでいっぱいです。
(何て呼び合ってるんですか……。あの、ほんと。
全力のぶつかり合いを楽しそうにされてて、だからこそ、ねえ??)
初の長義と極の長義
大きな違いの所感
審神者との距離が近い(以前が遠すぎたのかもしれない)
結構はっきり素直に言うようになった(完全なからかいと皮肉がなくなったわけではない)
青さがほぼなくなって器が大きくなった
わざと分かって囁いてくる
国広を写しと認識して可愛がっている。伯仲の相手だと、たった一振りの対等な相手だと認識しているし。さらに折る権利は自分にあると言わんばかりの言動もあり。
審神者に対しては依然と変わらず自分とは異なる概念を持った存在と認識してはいるが、与えてくる感が強い。
このくらいで、高慢なところは変わらず(むしろちょっとパワーアップしている)物騒なところも豆まきが嫌いなところも、畑が嫌いなところも変わらない。
変わっているようで殆ど変わっていない所感です。
個人的には国広の極めの時もそうでしたが、もともとこうだったな、と思えるほどしっくり来ています。
山姥切国広と山姥切長義
霊剣:山姥切 伝承がもたらした 祝いでもあり呪いでもある繋がりの名前
いつかの時代、いつのまにか付与されていた化け物切りの伝承を持つ刀の写しの物語。
本歌ことは記さずに、写しではなく山姥切とあれたのかもしれない本科と写し。けれど、堀川国広が確かに残した痕跡が、彼らを本歌と写しの関係の刀だと現物は証明しています。
実は書面上はっきりとした痕跡はなく現物だけらしいので、9割おそらく本歌と写しだろうともいわれています。
すこしだけ現物はあいまいな部分が残っているそう。
それでも刀剣男士は物語の付喪神。
いつのまにか生まれた「山姥切」という名前。
写しにつけられ、写しについているのならば本歌にもあってしかるべきだろう。
そうやって付与された名前。
紆余曲折を得て、彼らはやっと本質である「長義の傑作」と「国広の傑作」そして互いにとってなくてはならない「本歌と写し」であるために、彼らはその名前と物語を再確認し、受け入れ、選んだのだと思います。
山姥切という名前は彼らを強固に結びつける物語の象徴なのでしょう。
とはいえ、どうしてつけられたのかは謎ですが。
・・・なんでも昔は切れ味商法やら、物語商法なんてものがあったとか。
もしかするとマーケティングの一種で生まれたのかも、しれませんね。
詳細はいつか誰かが紐解くのかもしれません。
(妄想すると、山姥の物語って昔流行ってたらしいとか。金太郎の母は山姥とか言われてたなぁ堀川国広も田中金太郎だったころがあるなぁとか考えてしまいますね)
行動や性格は似ていないようで割とそっくり
長義と国広。
高慢と卑屈、なんてよく比較されていますが。
以外と行動や言動はかなり似ています。
方法は違えど結論は同じところになりそうで。
修行に行ったら主のために、そして、己が傑作であることを誇り。
敵がいればとりあえず切ればいいか(自分は切れるので)と向かっていく。
プライドも高いし、主が誇るべき存在だと自信を持っている。
さらに手紙や主の前では語らないことも多い。
お互いのことは審神者には関係のないことなのか、語らなくなっています。
(語らなくとも当たり前に本歌と写しとしてすごしている様子は手合わせで伺えますが)
とはいえ、似ていない部分ももちろんはっきりとあり。
長義は与えるものであり、国広は受け入れるものだったり。
正反対の部分も残っています。
そんなところが、元ネタである刀剣の、ぱっと見似ていないけれど、よく見ると似ている、この部分は一緒だ、でもここはやっぱり異なるなと、思えてつながる部分があって嬉しいです。
偽物くん という呼び方について
そういえば偽物くん呼びだった理由は不明のままですが。
一つ仮説があります。
完全に判明した初の長義の性格からの推測でしかないのですが。
もしかして:キュートアグレッション実害バージョン
だったのでは、と。
初の長義は写しを可愛いと思っていて、可愛がりたい(極の圧参照)気持ちはあれど、素直に認めたい気持ちを消化しきれなくて攻撃的な行動で「傷つけたい」と素直になれない強感情、みたいなことが合わさってあんなことになっていたのではないかと。(猫殺しくん、へし切くんのひどいバージョン)
アグレッションが過ぎる……。
極ても、かわいがりは変わってないというか素直になったものの、たまにアグレッション発動して偽物くん呼びはたまにしそうな気はしますが……。
本当どうなんでしょうね。謎です。
まとめと願望
山姥切国広極との回想ください!!!
という願望を抱きつつ、長義の修行をまとめると。
山姥切という名前を持つことを選択した
自分の核は長義の傑作であることを再認識した
山姥切国広は俺の写し(絶大な期待と愛)お前が使えなくなったら俺が責任もって折ってやるという意思(愛は200種類あるから…)
彼の本質は「与える物」で変わりはない
性格的にはかなり素直に出力するようになった
審神者を認めた
個人的には劇的な変化はなく、知ってる味がした、という印象です。
本質が全然変わってないからでしょうね。
与える物が彼の本質だから。
美しくも高慢。視覚に言えば他に臆することのない性格。
変わらない部分を嬉しく思いながら、今後何かしらの形で長義と国広の物語の断片がでればな、と思う次第です。
追記
そういえば、本作長義は何度か見に行ったのですが。
秋田で出張展示があった際、いつもと異なる展示方法で展示されていました。
太刀置き、かつ普段の刀の置き方とは逆の裏面を魅せる展示。
あの時の輝きは、いつも見る刀の置き方とは異なる眩しさでした。
いつも見える光の反射とは異なる、誰が見ても「眩しいっ」と思える姿。光や置き方だけではきっとこうならないであろう輝き。
表側はもちろんだけれど、普段見せない裏側により激しい苛烈さと眩しさがある。
刀剣男士山姥切長義は、間違いなく本作長義から生まれた「物語」の付喪神なのだと、証明された気持ちです。