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思考の迷路、楽しいですね。
ちょっと、夜更かし。
さて。「見ること・見られること」という対比は、私が大学で卒論のテーマにした安部公房の「箱男」にも登場するキーワードです。色んな対比が層になって折り重なって、物語の中にいくつもの箱を形成しています。「見る側・見られる側」の関係性を作る装置としてのカメラも登場します。詳しくは、本作品を熟読ください。1回読んだだけではダメですよ。
自己認識とか、他人と自分とか。他者とはとか。考え始めるとキリがないですが、まぁ、楽しいといえば楽しいです。悩みにつながる場合もあるので、やりすぎ厳禁ですが。
他人の頭の中のことは、テレパシーも使えませんし、分かりませんが、察することはまぁ、できないこともないわけですね。
でも敢えて私はそれをしないようにしています。
正しくは、察したとしてもそれでおしまいということです。
ある意味では、他人に厳しいのかもしれません。言葉やほかの方法で他者に伝えようとしないのであれば、その程度のことなのだろうと。
困っている人がいたら助けるというのとはまた別です。
「頼めよ」「希え(こいねがえ)」と思う。傲慢なんですかね。
そのくせ、おせっかいだったりもします。この乖離はどう理解すれば良いのだろう・・・?
私は私がやりたいようにやりたい、のだな。他人の受け止め方は置いておいて。
誰かの役に立てるとうれしいというのも、自己満足の域なのだろうなぁ。
だから「〇〇してあげたのに」とかは、絶対に言わない。自分がやりたくてやっているものだからね。
それが自己犠牲的で、受け取る方が苦しくなるんだということは、あり得る。
でも一方で、私に関わる人にはハッピーであってほしい。それは、私の存在が少なくとも害にはなりたくないということの裏返しでもある。
ということは、自分がどう思われるのかを気にしているということだろうか。
でも、そこまで考えて行動してはいないんだなぁ。実際、迷惑かけているし。はっきりと言うので、人知れず相手を傷つけていることもちゃんとある。
迷惑をかけられるのもかけるのも、当たり前のことであるし。
そもそも迷惑とは思わないし。ただ、相手が迷惑だと思う基準については、私には分からないのが正直なところであって。
「すみません」ばかり言う人間にはなりたくないし。
まぁ、だから何かしてもらったら、ありがとうと言うってことです、最終的に。
「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えない人間はダメだということくらいかなぁ。
求められてもいないことは、アドバイス含めやらない方向かなぁ。
思考の迷路、楽しいですね。