目に毒

「人の世よ。世も末よ。」
とある出版社で働く浜北の脳みそをこの言葉が不意に駆け巡る。

それは毎度、なんの前触れもなく突然訪れる。

ある朝の通勤途中。
駅の階段を登っている自分の美しく黒光りする革靴を無意味に、一生懸命見ている最中その言葉は浜北の脳みそを駆け巡った。

浜北が不意に横を見ると、階段の途中でパンプスが脱げてしまった新社会人の女が必死に自分のパンプス目掛け右手を伸ばしていた。
その子の周りを歩く人々はなんともまあ無表情に、その子を避けて、はたまたぶつかりながら歩き去る。

浜北も例外なくその子を無表情に横目で見ていた。必死に人の波に逆らい、自分のパンプス目掛け突き進むその子をただ見るしかできなかった。
なぜなら浜北の後ろからは列を乱さぬ様、上を目掛け階段を登る人々が続いているからだ。
自分がその子の心配をし、この一死乱れぬ階段を登る波を止めてはならない。と強い義務感を勝手に感じていたのである。

階段を登りきる頃には、浜北はその出来事を綺麗すっかり忘れていた。

黄色い帯のついた電車が到着した。
まるで電車が嘔吐しているかのように、電車のドアからは沢山の人が降りる。
まだまだ降りる。
電車の嘔吐は止まらない。
この箱の空間にどうやったらこれだけの人が収まるのか、と感じるほど沢山の人が降り続ける。
吐きに吐き続け
電車の嘔吐がやっと止まった。

浜北は死んだ目で電車の中へ入る。
「人の世よ。世も末よ。」
また浜北の脳みそにこの言葉が駆け巡った。

浜北が周りを見渡すと、狂ったようにスマートフォンを見つめる者や死んだように口を開け寝ている者ばかり。

電車のドアが閉まりかけようとした時。

先程、人の波に必死に逆らいパンプスを拾っていた新社会人の子が飛び乗ってきた。
その子は電車に乗れたことに安堵し汗だくになりながらも、なぜか少し楽しそうだった。

その子の足元を見ると、片方の黒いパンプスはとても汚く汚れていた。
が、なぜかその子が浜北の目にはとても輝いて見えた。

浜北は自分の美しく黒光りする革靴に目を落とし、その自分の美しい靴に吸い込まれ自分が無くなってしまうような感覚に陥った。次第にその感覚に恐怖を感じましたので、立ったまま目を閉じ、寝たふりをする事に決め、下車する駅までの時を真っ暗闇の中過ごした。

目的の駅に着いた頃には、浜北はその出来事を綺麗すっかり忘れていた。

2020.08.07  槭川キキ

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