疑いの発現
なにから疑いの芽は芽吹くのだろう?
疑いを知らなくとも生きていける人がいて、その人と話して思ったことだ。
余計な疑いを持つことは脳の負担がおおきくなるだけだが、疑うべき状況を疑わないのはとち狂っているように私には思える。
利益が大きいまたは損益が大きい話は疑うのが吉でその他の毒にも薬にもならない嘘は騙されてやるのが私のポリシーだったりする。
私のポリシーはさておき、人の言うことを簡単に信じてしまう人は何故そこまで人を信じるのだろうか?
知能が足りない場合(脳みその危機管理を司る部分の破損含む)もあるが、やはり経験値が少ない可能性が高かろうと思う。
疑いというのは騙された経験から生じるものだろう。それ以外でも実際に騙されなくとも詐欺の手口をよく知っている場合も疑いは形を成す。
つまり、疑いのなさは人から嘘をつかれなかったために経験値不足で疑いという領域に達しなかったことによるものだと考えられる。
人から騙される経験があれば「こういうものは詐欺である」という騙しのパターンの認知ができることにより危機管理脳とでも呼ぶべき部位が発達し疑いの心が芽生えるのだ。
さて、疑いの心の発現をより知るためには疑い深い人について考えてみるといいかもしれない、疑り深い人は自分も嘘をつくという人が多かったりする。それに嘘をつかれて大失敗した人など経験と知識によって疑り深さが形成されている。他にも特殊な例として特定の人にだけ疑いを持つ人などはその人やその人が属すグループへの嫌悪感からそうなる。
つまり疑いのなさはその人自身が意図的に嘘をつく回数が少ないこと、嘘で傷つけられたことが少ないこと、他人へ嫌悪感を抱くことが少ないことがその理由になるだろう。
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