勘違いな人と「生きてるだけでまるもうけ」

組織の中にはいろいろな立場の人がいて、いわゆるお偉いさんという人もいる。組織に属していなくても世間的に認められていたり、先生と呼ばれる立場の人もいる。そういう人の中には、その立場を鼻にかけている人もいるのかもしれない。そういうやっかいな人とは関わりたくないのだけど、もっと関わりたくないのは、偉い立場の人のまわりで仕事をしているというだけで、自分が偉くなった気になっている勘違いな人だ。自分の心のなかだけで勘違いしているのならよいのだけど、それでおさまらないのがやっかいなところ。そのような勘違いをしている人は、自覚のあるなしは別として、態度で自分の偉さをアピールしてくる。偉くないのに偉いアピールをするその態度は、とかく横柄になり、まわりの者を不快にさせる。

数年前に仕事で出会った人。初めて会った時から、なんとも言えない違和感があった。仕事の相手はその人ではなく、その人がサポートしている偉い人。だがその人は会議をしている中で自分の存在を誇示するようなそぶりをちょこちょこ入れてきた。偉い人を非難するようなことを口を尖らせたような口調で取引先の前で言うのだ。なんとも言い難い気持ちの悪さと違和感をおぼえた。その時は笑ってすませたが、今になってみると、あれは「偉いこの人のことを、私はこんなふうに言える立場であり、それが許される存在なのだ」ということを誇示していたのだろう。 それ以前に出会った同じような立場の人からは感じなかった違和感を、その時はじめて感じた。あとでわかったのだが、その人は、いわゆる勘違いな人だったのだ。自分で気づいているのかどうかはわからないが、まわりは勘違いな人であることを感じ取り、嫌われているらしかった。

どちらかというと自分に自信のないわたしは最初、自分が偉いわけではないのに偉い人と仕事をしているだけで自分が偉くなった気になれることが不思議でしかたなかった。そんなふうに思えることは、まわりの人にとっては災いだけど、本人にとっては幸せなことなんだろうなぁと思った。だけど、よくよく考えてみると、自分に自信がないから、そのような勘違いをするのかもしれない。勘違いすることで自尊心を保っているのかもしれない。もしかするとかわいそうな人なのかもしれない。勘違いすることでしか自尊心を保てないのだとしたら、なんだかかなしい。
勘違いに気づいているのに、はれ物にさわるかのように誰もその人を注意せず、勘違いを助長させているのだとしたらそれはそれで罪つくりかもしれない。勘違いで自尊心をゴリゴリに保ってきた人に「それはあなたの勘違い」と正面きって伝えることは、その人の自尊心をずたずたにしそうであり、なかなか手が出せないんだろう。だけど、そんなのしあわせな状況とは言い難く、そのような状況がずっと続くのだとしたら虚しい。大事の前に小事なのかもしれないが、大事の前だからこそ小事は大事なのだとも思う。
もしかすると勘違いしている本人自身も、勘違いな態度の裏で、心のなかでは虚しさを感じているのかもしれない。そう考えるとかなしい。あるいは自分が勘違いしていることに気づきながらも、そうすることでしか自分を保つ術がないのだとしたら、もっとかなしい。そんなかなしさなんて微塵も感じず、ただただ勘違いしているだけであってほしいとさえ思えてきた。 

「生きてるだけでまるもうけ」、明石家さんまさんの座右の銘だったのかなぁ、この言葉。「生きてるだけでまるもうけ」と思えたら、へんな自尊心を保つ必要もなくなるのかもしれない。勘違いなんかで自尊心を保たなくても、そこに在るだけでいいよね、もっと気楽になっていいよね、って、自分を楽にさせることができそうな「生きてるだけでまるもうけ」。いつか、そっと、自分を楽にさせるおまじないとして、その人に伝え、勘違いをやわらげることができたらなぁと思い始めている。


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