冬霞の巴里 配信視聴の感想文~広いお心でお読みください
「冬霞の巴里 配信視聴の感想文」
まず先にお断りを。これは配信一回のみ視聴の私の感想レポなので、おびただしい記憶違いや勘違いが頻発していることは間違いなく、なので、あれ、間違っているよ、と言うところがあれば是非ともご指摘いただきたく。よろしくお願い致します。
ひとこファンのフィルターありきのため、基本、褒めます。(注:ネタバレ有)
ひとこの、初の東上作品。
先行画像、そしてポスターも、ひとこの一人写りで、指田先生の拘りが伝わってくる作り込まれた世界観が垣間見え、こりゃもうどうなっちゃうんだ!?死ぬの?私たち、死んじゃうんじゃないの?客席はひとこの三白眼に殺されたファンで死屍累々になっちゃうんじゃ!ないの!!ともう、ひとこファンは皆、期待ではち切れそうになって悶えていたと思う。
私も、コロナの状況的に行けるかどうかは微妙だったが、一応、チケット戦線には参戦した。が、一枚も取れずに惨敗を喫し、これは多分、神様が「まだ行ってはならぬ」と仰っているのだろう、と観劇遠征は断腸の思いで諦めて、配信があることを祈って待つことにした。
本当に、つくづく、宝塚に限らず、ライブ配信という新たなエンタメコンテンツができたことはありがたいことだなと思っている。生観劇とは比べられないけれど、それでも、見られるならなんでもいい!というのも、オタクの正直な気持ちだ。そりゃ生観劇できるならそれが一番だけれども、仕方がない、これが私の運命ならば、運命、お前を愛するよ…!そんなふうに自分をなだめながら、無事に初日が開けてからも、ツイッターでひとこの様子を伺いつつ、ネタバレや感想などは極力踏まないように気をつけながら配信の日を待った。
そうして迎えた配信の日。4月2日(土)16時。シアタードラマシティ公演の千秋楽。我が家のVIErAに映し出された梅田芸術劇場シアタードラマシティの緞帳が静かに上がると、そこはパリの街(だろう)、バンドネオンかアコーディオンか、の音色が流れていて、馬車の音もする(馬車の音がすることで、時代背景は解説にもあるベルエポックの頃だと印象づけられるのは上手い。始まるまえからこちらの気分を誘導してくれている)。この、タカラヅカの舞台での開始前に見せて下さるセット場面で音が流れているのはそんなにないよね、と物珍しかった。そういえばバロクロの時も時計の音がしてたなと思い出した。そして、厳かにひとこの公演アナウンスが流れる。ああ!主演なんだあ!とこんなとこから感動。作品が暗いお話なので、ひとこのアナウンスも低く暗かった。ここからもうオクターヴくんなんだな!さすがだわ!とモンペ全開で思った。
幕開きはゾンビふうメイクのエリーニュス3人(復讐の女神アレークトー、メガイラ、ティーシポネー、この3人がずっと舞台上で「復讐」のモチーフとして存在していた。蛇足だが私は昔FSSオタクをやっていた時期があり、この、アレクトー、メガエラ、というファティマの名前にはかなりぐっと来てしまった、指田先生も仲間だと嬉しいな)のシーン。その後ろでセットの建物の大きな窓に映される二人の影。これは恐らくオクターヴとその姉アンブルなのだろう。そしてセットが左右に開いてパリの街が現れ、美空真瑠くんの新聞売りの号外号外シーンで物語が動き出す。アナーキストが爆弾テロをやったという内容の号外で、いきなり不穏な感じだ。
ど頭で、アナーキストって言葉を遣うあたり、指田先生って言葉に拘りがある人なんだなと感じた。たぶん、普通なら「無政府主義者」「反政府主義者」「テロリスト」このあたりの言葉を遣うのが分かりやすいし常套だと思う。わざわざ耳慣れない「アナーキスト」なんて言葉を遣う、これは言葉の響きを優先したのではないか。それと、これは全編を通して感じたことだが、指田先生の書く台詞は言葉として美しい。私はレトリックの奴隷なので、この、指田先生のレトリックに彩られた台詞の数々は、めちゃくちゃに刺さった。
不穏なパリの街のシーンの群舞を割って、ひとこオクターヴが登場。「ただいま。この腐った街、パリ…!」ひゃあ!カッコいい!!!鬘もお衣装もよく似合っていて、スタイルの良さも損なわれないスマートなお衣装で嬉しい!有村先生ありがとう!メイクも随分大人っぽくなった。花組さんがどちらかというとクラシカルなお化粧だから、ひとこもそちら寄りになってきたなあと、ファシネのスチールを見て感慨を深めていたが、オクターヴのお化粧はシンプルモダンで、お役に合わせたのだろう、キラキラせず、口紅もヌーディな紫がかったベージュでとても良かった。私の好きな感じだ。そしてお歌も…、当たり前だけど、ソロで…。ああ、嬉しい、真ん中でソロで歌ってる…!バロクロでちょっと壊したらしい喉も戻してきたんだなと、その伸びやかな歌声に酔った。ひとこの歌声が、私は本当に好き。(昼食会のシーンで一瞬だけどひっくり返ってヒヤッとはしたけれど)
と、ここまで書いて気付いたが、この調子だと5万字くらい書かなきゃ終わらないし、終わらないどころか2万字書く頃には二幕の内容なんか忘却の彼方、ってことにもなりかねない。…私の残念な脳みそが内容を忘れてしまわないうちに、さっさと中身に入ろうと思う。
物語は古代ギリシアのアイスキュロスによる戯曲「オレステイア」が元ネタの復讐劇。青年オクターヴとその姉アンブルは、父を殺した母クロエ(紫門ゆりやさま、初の女役、お美しい。低いお声も年増の色気で大変良かった)と叔父ギョーム(つかさくん、さすがに上手い)への復讐を目論み、長く離れていた(らしい)パリの街へと戻ってくる。幕開きでのオクターヴの台詞「ただいま。この腐った街、パリ…!」で示された通り、舞台上のパリの街は、汚職と貧困とそれに抵抗するアナーキストによるテロとで、華やかさなど皆無の暗い荒んだ街に成り果てている。オクターヴとアンブルが住む下宿も窓は割れあちこち壊れたあばら屋で、大家のマダムも店子たちも皆薄汚れてみすぼらしい、まるで浮浪者のごとき怪しい集団で、組子たちの顔も気合の入ったメイク。目の周りなんかみんな真っ黒で、こわ…、って声に出てしまった。この中にあって、オクターヴの身なりの良さと汚れていない綺麗な顔は、確かに一目で「ブルジョワ」だなと納得してしまう。
アンブルとオクターブは久しぶりに会ったようで、こうして再会するまでは手紙でやり取りをしていたということが判る。劇場の歌手として働くアンブルはどうやら最近は手紙はサボり気味だったらしく、そんな姉さんにちょっとおこなオクターヴくんが可愛かった。8学年も下の星空ちゃんだけれど、元々が陰の持ち味がある子なのと、役作りの巧さで、ちゃんと姉に見えたし、ひとこもちょっと拗ねる感じのニュアンスの作り方が上手で、弟らしさが出ていて、姉弟の設定に無理は感じずに見られた。(…よくよく考えると、姉の設定年齢は私が感じた年齢よりも恐らく上だと思われるが、視聴している間は気にならなかった)
さて、新聞記者として働くオクターヴくんだが、全編通してたぶんそんなに働いてねえなという印象。パパの遺産で働かなくてもなんとかなっていて、生活のために働こうなんて気はそもそも無さそうだ。その点、アンブルちゃんはちゃんと歌手として働いていて、主体的で自立した中身なのだろうと察せられ、こういう細かいところで、しっかり者の姉と、復讐だ復讐だとそれにのみのめり込む弟、という姉弟像が垣間見えた。
正直、私個人として、オクターヴのような甘ちゃん根性の人間はあまり好きではない。もしも私が彼の姉ならば、お前まずはちゃんと一生懸命働こうな、話はそれからだ、と言って聞かせると思う。(なので私はハムレットも好きではない。私がホレイショーならオフィーリアに尼寺へ行け!と言うハムレットに「お前が寺で坊主になって王の菩提を弔いやがれ!」と暴言を吐きたい)
ひとこの役作りが巧みで、眉間に皺を刻み深く苦悩するどシリアスな美青年っぷりがスタンディングオベーションしたくなるくらいに素晴らしいので誤魔化されてしまうが、オクターヴ、こいつ、まともに働いてないし、根拠の無い上から目線がなんか癇に障るじゃん、と話が進んでいくにつれて、「復讐だ!」という彼の心情に、今ひとつ共感しにくくなっていく。(これは別に私がオクターヴくんが好みじゃないからというわけではない。それがどんな人間でも、私はまずは物語の主人公に感情移入を試みる)この、共感しにくくなっていく違和感は、最終的にはそう誘導されてしまったのだということが解ったのだが、見ている間は何かモヤモヤと、主人公に感情移入出来ないことへの居心地の悪さを感じていた。
殺されてしまった、オクターヴとアンブルの大好きな「優しい父さん(しい様、またしてもひとこのパパ役ありがとうございます)」だが、周囲の人たちからもたらされる評判がことごとく悪い。それはちょこちょこと少しずつ示されるため、いつの間にか「パパは実は悪い奴だった」が降り積もり、まんまと刷り込まれていて、昔の部下である成金ブノワ(峰果とわくん、おじ様役めちゃ上手い)や叔父ギョームと母クロエが父親の悪行を暴露するシーンではもう、やっぱり!パパは悪い奴だったんだ!と無理なく納得させられる。しい様パパの白いお衣装に血の様な模様が入っているのも、最初はピストルで撃たれたパパの血だと思っていたが、ここまで来るとパパの悪行で死んだ人たちの返り血のようにも見えてくる。また、過去の幸せだった家族の風景(の中にも不穏な種は細かく仕込んである)もオクターヴの記憶の中で再現されているような演出で、過去の情景の中、こちらには何の説明もなく知らん女の子(後にもう一人の姉、琴美くららちゃんのイネスであることがわかる)が居たりして、これ誰だよ、と印象に残る。この女の子について何の説明もないのは、オクターヴ自身が忘れてしまっている(あるいは忘れさせられている)からであり、そういうところも劇作として上手いなと思った。(この繰り返し出てくる過去の風景のシーンでは、少年オクターヴ役の初音夢ちゃんが光っていたことを付け加えておく)
一幕に伏線張りまくり、という前情報を得ていたため、一個も逃すまい!と気合を入れていたが、そこまで気合を入れずとも、ちゃんと印象に残る張り方なのと、作品のトーンが常に緊張感を持った作り方なので、気を抜く暇が無く、結果、伏線は自然と頭に入ってきた。
ここからは私個人の勝手極まりない解釈というか、考察というか、おこがましいことではるが、「私はこんなふうに観た」という事を書いていこうと思う。
一つだけ、私が心配していたのは、これは、姉と弟の禁断のやつなのだろうか、だとしたら無理…!ということであった。これは個人的な事情なのだが、私は本当に、心の底から「近親相姦もの」が苦手なのだ。いやまあ、得意な人はそんなにいないだろうけれども、実際、兄と妹、姉と弟、という関係性のそういうやつって、一定の需要があるのも事実。可愛いロリ風味のヒロインが「お兄ちゃあーん!」ってなやつ、目したことのある人も多いと思う。私はそういう「匂い」だけでも、かなり嫌、な派閥の人間なので、冬霞の巴里がそんなんだったら嫌だなあと、そこを心配していた。結果から言うと、そこはギリギリセーフでなんとか受け入れられるエンドではあったのだが、それがハッキリするまでの間は、やはり、何か気持ちが悪かった、が、これは私の個人的な事情であるので置いておく。何故なら、禁断の愛、的な匂いも、この作品の中では、不穏な空気を漂わせ続けるために必要なものであったからだ。
この、禁断の愛の匂いについては、私がそう感じたことは間違ってはおらず、アンブルは完全にオクターヴを弟として以上に、特別な存在として愛している。ハッキリとそういう台詞があるわけではないが、でも絶対そうでしょ、ということは、アンブルのオクターヴを抱き寄せる感じや、リボンタイを結んでやる仕草(ナウオンでひとこがベッドでいちゃいちゃ、と言っていたシーン。ここでのひとこのシャツのボタンを留める仕草はめちゃくちゃ色っぽいので必見)、怪我した手を取る手つき、心配している様子、エルミーヌと一緒に居る弟を見る目つきなど、端々に滲んでいて、その滴るような「女」の匂いに、何か背筋が寒くなる。しかもだ。父親のせいで自殺した姉イネスのことも、実は自分たちが血の繋がらない姉弟であることも、アンブルは意図的にオクターヴに隠しているようなのだ。愛しているならば男女として愛し合えるように姉弟では無いことを明かせばいいようにも思うが、敢えて姉弟のままでいる、そこがこの姉の業の深さなのだろう。
二人で歌うデュエットで「もしも血が繋がっていなかったらずっと一緒にいられたのだろうか」という意味の歌詞があったと思うのだが、普通に考えると逆だろうと思う。ここのところは逆説的な歌詞なのだと解釈するのが妥当かもしれない。この歌詞だけではなく、ミスリードを誘っているかのように、様々、意味深な台詞が散りばめられ、しかし、物語はきちんと事の真相に迫っていく。褒め過ぎかもしれないけれど、なんとなく、カラマーゾフの兄弟のような物語の構造を、私は感じた。
アンブルのオクターヴへの執着について、もう少し掘り下げてみたい。
私は上記でオクターヴを「根拠の無い上から目線が癇に障る」と書いたが、それは、アンブルが、自分以外の人間から彼を遠ざけるためにそう育てたのだろうと想像している。手紙のやり取りで、弟を上手に褒めながら、繰り返し彼の中の叔父と母への憎しみの炎を煽り続け、都合の悪い部分(父親には殺されても仕方のない悪党の一面があったこと、姉のイネスの自殺についてもそう)は敢えて伏せて、忘れるように誘導し、父が死んだ際に二人で聞いてしまった叔父たちの会話を秘密が好きな弟(秘密が好き、というのは少年オクターヴが繰り返し口にしている)に「私たちだけの秘密」として、おぞましいはずの記憶をまるで宝物のように共有し続けている。叔父と母への憎しみと復讐は、二人の共通の目的であり、アイデンティティであり、それがある限り、二人は運命共同体なのだ。そしてそれは強固な共依存の関係となる。アンブルはオクターヴが自分から離れないように、自分から離れて、いつか自分無しでも平凡な日常の幸せに目覚めないように、この共依存の関係が崩れたりしないように、絶えず憎しみと復讐の呪いの呪文を囁き続け、他人を遠ざけさせ、彼にとって自分が唯一の理解者となるよう、弟との関係を塗り固めてきたに違いない。お金はあるのに劇場の歌手として働き市井の女として擬態したり、ブノワのような男の愛人にも易々となってみせたり、そうは見えなくとも、実は聡明で抜け目の無い彼女だから、オクターヴを蜘蛛の糸に絡めとることもそう難しいことではなかっただろうと思うのだ。
彼女は弟がいなければ生きていけないし、だから弟も自分無しでは生きていけないように、この共依存の関係をせっせと塗り固め続けてきたのだ。作中、共犯者と言う言葉が何度か出てくるが、これは、共依存に置き換えてもいい言葉かも知れない。
登場人物の中に、アンブルとオクターヴと対となっているカップルが出てくる。義弟ミッシェル(希波らいとくん)とその婚約者エルミーヌ(愛蘭みこちゃん)だ。このミッシェルとエルミーヌが、純粋で美しい魂の持ち主で一貫しているところが、ものすごく残酷な対比として描かれている。もしかしたら、アンブルとオクターヴもあちら側の人生だったのかも知れない、そう思わずにはいられない。オクターヴはこのエルミーヌとの関わりの中で、もしかしたら自分もこの子のいる側(憎しみなど知らない幸せな世界)で生きられたのだろうかと思う。印象的だったのが「最初から、ずっと、君のいる世界にいたかった」というニュアンスの台詞と、「優しいのは、苦しい…」という台詞。明るい光の中で生きることを選択できたかも知れない、その可能性に自ら言及するオクターヴ。ここまで復讐に執着しているはずなのに、それが、これらの台詞で徐々に説得力を失っていく。先に書いた「主人公に感情移入できない居心地の悪さ」の正体はこれだ。なんともどっちつかずというか、まあ人間なんてそういうものだし、そうであって然るべきとも思うが、オクターヴのそれは、何か座りが悪い感じがするのだ。上手く言えなくてもどかしい…。警視総監であるギョームに両親を殺されたアナーキストのヴァランタン(ほのかちゃん、渾身のメイクと刈り上げのツーブロが凄かった)の方がよほど復讐へのモチベーションが高くシンプルで、心情の理解もし易かった。叔父を殺せずにきたのは、「覚悟ができていなかった」せいだとオクターヴは言うが、そうではないと私は思う。本当ならば、エルミーヌのいる世界で生きたかったし、生きられる可能性は十分にあった、が、姉の呪いによって洗脳され、自身のその本当の想いには蓋をしたまま生きてきたせいなのではないか。姉の思い描く世界の中に閉じ込められていて、そのせいでオクターヴが自分でも気付いていない心の奥底にある「もしかしたら」という想いが、彼に復讐を完遂させない足枷となっているように、私には思えた。
片や、私の中では既に黒幕と言ってもいい姉アンブルは、実のところ、復讐そのものにはそこまで思い入れはないように見える。復讐はアンブルにとって目的ではなく、むしろ、オクターヴと一緒にいるための手段となっている。そう、目的と手段が逆なのだ。そのことに気が付いた時、私の目は、舞台の上に、アンブルの描いた一幅の絵を見た、その絵が見えた途端、背筋が寒くなった。ガラス屋根の上からこの復讐劇を見下ろしているのは、もしかしたらアンブルなのかも知れない、そう思った。
ラスト、アンブルは血の繋がらない弟に、私たちは姉と弟なのだと言い、弟は「俺だけの姉さん、俺たちだけの罪…」と口にして、二人は並んで腰に腕を回し合って舞台奥へと消えてゆく。このシーンで、アンブルはオクターヴを手放す気などさらさら無く、この先も一生、この可哀想な弟を、二人だけの秘密という鎖で縛り続けるのだろうと思った。
男女の愛ならば、肉体関係を結ぶことがある意味最初のゴールの一つだが、アンブルは敢えてそうなることを拒む。弟の方から水を向けたにも関わらず、男女の関係性を拒み、姉弟であり続けることを、弟にも約束させる。そうすることで、この二人は、肉体関係を結ぶことはなく、そうであることで、永遠にこのままなのだ。姉が弟の手を離す決断をしない限り。そして、オクターヴから姉の手を離すことはない。何故なら彼は完全に姉の手中にあり、己がそうなるように育てられたことにすら気付いてはいないからだ。だから「俺だけの姉さん、俺たちだけの罪」という台詞も、主体的にそう思って口にしたのでは無く、そうと意識はしていないが、実は姉に言わされているだけなのではないか。この台詞は本当は、アンブルの口から紡がれるはずの「私だけのオクターヴ、私たちだけの愛」なのかも知れない。
以上のように、私はこの救いのない物語を自分勝手に解釈したが、この解釈は、一にも二にも、ひとこオクターヴとみさきアンブルのその繊細な演技によるものである。
ひとこオクターヴの激しく憎しみを燃やす目や、周囲に人を寄せ付けず孤立している様、姉にだけ見せる拗ねたような子供っぽい様子、心配してくれるエルミーヌから離れて姉の方へとヨロヨロと吸い寄せられて行く時の儚げな様、姉に抱かれる時やその肩に頭を預けているときの形容し難い、無垢な子供のようにも見えるが、恍惚と諦念までをも感じさせる表情、そして、ひとこオクターヴが何か一言口にするたびに、台詞の全てに何かが隠されている意味のあるものに聞こえてしまう、あれはひとこの口跡の良さがあってこそだろう。
対するみさきアンブルは、常に纏っている悲しげな佇まいと、弟とは対照的に周りの人と良好な関係を築いているらしい様子や、一転弟に対してのみ感情を昂らせ声を荒げる様、劇場の歌姫である時の説得力ある艶と美しい歌声、姉としてイニシアチブを取る強さも、全てが「アンブル」という女性を表現するに足るものだった。ブノワの愛人となったところも生々しさがなく、これは宝塚の娘役として最適解だと思う。正直に言うと、ここまで、星空美咲という娘役が私はそれほど好きとは思えなかった。それは普段から何か悲しそうというか、影のある感じがして、娘役に私が求めているものとは少し違っていたからなのだが、その陰の持ち味が今作では良い方に作用していて、彼女の魅力がとても良く分かった(当て書き脚本の勝利だとも思う)。ニュアンスを積み上げていく役作りも、ひとこの役作りと似ていて相性が良く、ひとこもやり易かったのではないかと思えた。恐らくだが、アンブルとオクターヴ、二人のやり取りについてはかなりのセッションを重ねたのではないだろうか。それくらい、役への理解が深いように、私の目には見えた。
主役二人以外で特筆すべきは、愛蘭みこちゃんのエルミーヌだ。まさに陽の女の子。明るく愛らしく可憐で、何よりも「無邪気」。本当に邪気が一切ないのだ。優しさ、明るさ、幸福な空気、周囲に愛されていて、他人を疑うことが無く、だからこそ惜しみなく人を愛することに躊躇いが無い。オクターヴとアンブルが持たないものの全てを凝縮しているような存在、この子の存在があるからこそ、オクターヴとアンブルの闇が際立つ。闇は、光があるからこそ存在し得るのだ。エルミーヌが自らオクターヴに関わっていく時も、それは善意からであり、そこに何か色っぽい嫌らしさはミリも感じられない。ちゃんとミッシェルを愛していて、その兄である人を気がけている、という一線が一切ブレない。この二人の間に何かあるとしたらそれはオクターヴ側からのものでしかあり得ないと信じることが出来る。ミッシェルもきっと彼女を心から愛し信じているのだろう。もう私がミッシェルになりたい。この作品の中でもしもなれるなら私は断然ミッシェルがいい。エルミーヌちゃんと結婚できるなんて、ミッシェル、前世でどれだけの徳を積んだんだろう…。羨ましい…。
愛欄みこちゃんを、私はこのエルミーヌできちんと認識したが、本当に可愛らしく可憐で、これぞ宝塚の娘役という雰囲気があり、とても好きになった。お歌もお上手で、これからがとても楽しみな娘役さんだ。
私はひとこが推しなので、ひとこの素敵ポイントも書いておきたい。
・姉の出ている劇場の階段上から姉の姿を見ている昏い目
・昼食会と劇場でのドリンク芸(カメラが引きだったのが残念だった、もっとアップで見たかった)
・フェンシングのシーン前、上着を脱ぐところ(黒シャツとベスト最高)と手袋をぐいってするところ(ここもカメラが引きで残念すぎた、ライブビューイングジャパンのカメラマンは絶対ひとこ担ではないな…)
・フェンシングのシーンはさすがに上手いからめちゃくちゃカッコいい。剣先の走りが早くて、本当に殺しそうだった。…あと、このシーンはひとこのお尻がとても綺麗に見えて、内心、きゃーきゃー言っていた
・ベッドでいちゃいちゃのシーン、開襟のシャツのボタンを留める仕草がめちゃくちゃ色っぽく、長い指が本当に美しくていやらしかった
・からの、姉さんにタイを結んでもらってるときのお顔!萌え死ぬ!
・エルミーヌちゃんとのパリの街お散歩、焼き栗買ってあげたり、ちょっとだけだけど楽しそうに見えて、ここだけがなんか救いのようなシーンだった(ちぎみゆプレお披露目だった伯爵令嬢のコリンヌちゃんのパリ散歩をちょっと思い出したりもした)
・お歌が多い!ひとこのお歌が大好きなので、本当に嬉しかった、青木朝子先生のメロディに指田先生の歌詞、ナンバーはどれもこれも良かった
・そしてフィナーレナンバー!地毛に戻してのダンスだったが、本当に美しくてうっとりしてしまった。曲はタンゴで、男役とも絡まりあっており、みさきちゃんとのデュエットダンスも素敵だった。か、ら、の!一人振りのタンゴ!最高です!
あああ、書ききれない!!!
書きたいことはまだまだあれど、ここまでで既に9千字を超えているので、そろそろ筆を置こうと思う。
最後に。私はこの作品を視聴して、大変に図々しくおこがましいいことであるが、己の詩作を思い出していた。
2020.6.29にここではない場所で書いた、「ガーデン」というタイトルをつけた詩だ。
ここに引用しておく。
「ガーデン」
冷たい闇に匿われていたくはありませんか
暖かい場所は本当は苦しい
明るい場所は本当は痛い
優しい声は本当は悲しい
幸せは辛い
かじかむ指先が溶けて解けていくことが怖くはありませんか
身を縮めて凍えていたくはありませんか
秘密は暴露されるためにあるのだと思いませんか
夢は全て悪夢なのではありませんか
幸せは、いつか終わってしまうから
苦しんでいれば永遠にここに居ることを許されるから
私は、痛い、苦しい、辛い、寒い、悲しい、冷たい
だから、ここに、居させてください
永遠に
この詩の中に自分が書き込んだアンビバレンツを、私はオクターヴの「優しいのは、苦しい…」という台詞で思い出していた。苦しむことでのみ生きる場所を獲得する、なんと悲しいことだろうか。しかし、そうとしか生きる術のない人間も存在するのだ。誰しもがミッシェルとエルミーヌになりたいと願いながら、そう生きることは易くない。そしてもしかしたら、そう生きることを願いながらも、自ら放棄してさえいるのかも知れない。そのアンビバレンツを、私はオクターヴの中に見た気がしたのだ。
非常におこがましいことと自覚はしているので、どうかお赦し願いたい。
余計なことまで書いてしまったが、以上が私の「冬霞の巴里」配信視聴の感想である。
ひとこ自身は「暗い話ではない。希望の光や暖かさがある」とナウオンで言っいたけれど、いやあ、暗いし救いなんかちょっともないよなあと私は思った。だって!お話が始まる前と幕が降りてからで、なんか少しでも状況が好転したよね、って人、いたかい…?いないよね…?この作品の中の唯一の光、ミッシェルとエルミーヌのカップルもなんか影を落としてて、アンブルとオクターヴの二人は姿を消してどっか行ってしまうのは、これはロマンティックな感じもしないではなくもない、けど、決して幸せそうではない(幸せじゃないけどそれが幸せ、メリーバッドエンドと言ってもいいのかな)、客観的に第三者的に一般的に、状況が好転してる人は一人もいない。
しかし。この救いの無い物語世界が、私は好きだと思える。見終わってすぐにも最初から見直したい衝動に駆られ、あるはずのない巻き戻しボタンを探してしまった。最初から見直す、そうすることが必要な作品だと思った。
もう一度見ればまた、違った景色が見えるかも知れない、いや、きっと見えるのだろう、そう思う。
東京公演の配信もあることを祈りながら、今回は筆を置くことにする。
以上です。
最後までお読みいただき有難うございました。
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