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Giants

「巨人の肩の上に立つ」

 しばしば学問を究める者たちの志として引き合いに出されるこの言葉。先人たちが築き上げてきたものの上に立つことによって新しい何かを見ることができる、といった意味合いで解釈されることが多い。

 先人たちの築き上げてきた叡智を身につけた先、ひらめきや勉励、刻苦が最後、私たちに新たな景色を見せてくれる。そこに近道はなく、先ず私たちは「巨人」との対話を余儀なくされる。ある者は圧倒され、ある者は打ちひしがれ、またある者は逃げ出す。巨人の肩の上に立てるのはいつも、到底届きそうもない著大な巨人に魅せられた、そして巨人に魅せつけた人物だ。もしくは巨人に必死にしがみつき、漸くそこに参着した勇者かもしれない。

 だが忘れてはならないのは、巨人と対話し、その肩を目指しその体躯を登攀する、しているという事実そのものである。その肩に至らずとも、少しでも高く登らなければより広い世界をその眼に映すことはできない。その上、きっと自分ではあの肩に手が届かないとわかっていながら彼に挑むことは決して無駄ではない。巨人は、真っ向から挑んでくる者たちを振り払うことはしない。寧ろ、巨人に真っ向から挑むということ、その営みが巨人を尚も強靭な、遠大なものにするはずだ。我々自身が巨人の血となり肉となることを肝に銘じなければならない。巨人は巨人で自分は自分だと、ある種の区別を下すことは冒涜である。巨人は先人の集合体であり、その骨身をなすのは我々の過去である。そして時に、特に学問において、批判的な態度が必要とされるのもこのためだ。巨人は確かに著大だが、絶対的ではない。どこかに穴が、癌があるかもしれず、それこそ彼が挑戦を嘉納してきたことの証拠でもある。たとえ巨人の肩に届かずとも時にそれを治癒し、彼の崩壊を防ぐことができるのは唯一我々であり、まだ見ぬ末輩を巨人の肩に誘うことができるのもまた我々だけである。

 であれば僕のような拙劣者が多少の勝負を挑むことも無駄ではない。巨人の足元で、彼の確かな足取りを僅かながらでも支えてやれ、と自らに言い聞かせる。

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