ひまわり色に染まった夏

(本作品は台湾華語(繁体字中国語)で執筆しました。執筆過程ではChatGPT-4oをサポートとして使用しましたが、最終的な文章の選定や調整はすべては自身で行いました。)

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それは、少しずつその表情を変えるタイプの絵で、見れば見るほど豊かさが増すんだ。それにね、高更がそれをすごく気に入っていることは知っているだろう。彼が私にそれについてこう言ったんだ、‘あれは……それが……花だ’って。君も知っているように、ジュナンは牡丹を持っていて、クオストはタチアオイを持っている。でも、私はある意味で向日葵を持っているんだ。

手紙番号741/フィンセント・ファン・ゴッホ(ChatGPT-4oで翻訳し)

真っ白なキャンバスに、何色を染まいましょうか?
#FCC800

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「私はステージでキラキラと輝くアイドルになりたい。」そう言ったアイドルを何度も見てきた。しかし、私は「キラキラ」という言葉が根本的に好きではない。結局のところ、「キラキラ」という言葉にはどこか虚偽の気配が漂っている。まるで、12時を過ぎると消えてしまうガラスの城のように、はかなく感じるのだ。
実際、それこそがみんなが信じるアイドルの理想の姿だ。最も素晴らしい姿でステージに立ち、最も美しい瞬間に卒業していく、まるで桜のように散りゆく。
でも、私は時々この「アイドルの理想化」が怖くなる。「絶対アイドル辞めないで」の歌詞にあるように、アイドルはまるで星のようで、ファンはその星を仰ぎ見る地球人のようだ。本当のアイドルがどんな姿なのかを知ろうとはせず、ただ自分が偶像崇拝する過程を楽しみたいだけのように見える。

「君の努力、私の愛」

歌詞にはこう書かれているけれど、彼女が言う「愛」が何なのか、私はまったく感じられなかった。もし相手のすべてを全く理解していなければ、それは本当に「愛」と言えるのだろうか?自分の想像をただ相手に投影するだけで、それを「愛」と呼べるのだろうか?

大学1年生の時、私は同じ学科の先輩に片思いをして、告白の手紙を書いたことがあった。彼女は返事にこう書いていた。「あなたが好きなのは、本当の私ではない。あなたが好きなのは、想像上の私だ。あなたが好きな私なんて存在しない。」その言葉は私の心に深く刺さり、ステージ上でキラキラと輝くアイドルに対する恐れを抱かせた。私にとって、アイドルが輝いているかどうかなんてどうでもよかった。ただ、ステージ上で本当の姿、真の弱さ、真の恐怖、そして「自分らしくあること」を見せてほしかった。私は、「自分がなりたいと思う人間」になり、「私のアイドル」として存在してほしかったのだ。

忘れてしまった、アイドルを見始めたのが何年目の夏だったか。台湾の夏はいつも早く訪れる。たいてい5月からすでに蒸し暑くなり、9月や10月になっても異常に暑い。台湾の夏が5月から10月まで続くと言われても、特に違和感はない。小学校で教わった「夏は6、7、8月」なんて、むしろ間違っているとさえ感じる。ただ、夏が「7、8、9月」に始まるという人もいるようだ。夏がいつ始まり、いつ終わるのか、それは簡単に答えられる問題ではない。この問題は、単なる地理的な問題にとどまらず、文化の違いにまで及んでいる。

なぜか分からないが、日本の歌には夏への特別な憧れが込められている。夏といえば花火、水着、青春など、儚く消えゆくものが思い浮かぶ。一方、台湾の夏といえば、休暇や、外出せずにエアコンの効いた部屋で過ごすことくらいしか思い浮かばない。台湾人にとって、花火や水着、青春は必要ない。台湾の夏に必要なのはエアコンと、エアコンを強くしすぎた時に使う毛布だけだ。

何年目の夏かは覚えていないが、例年通り、アイドルを見に行った。その時は、ちょうどパンデミックが収束した直後で、日本のアイドルが台湾に遠征してくるようになった。この出来事は、台湾のアイドル業界にとっても、私自身にとっても大きな衝撃だった。やはり、台湾人は日本人ではない。私たちは日本語の「言霊」を理解することができない。私たちにとって、日本語は母音が多い響きの言語であり、台湾語と比べると共鳴音が響くように聞こえる。それでも、アイドルグループ「真っ白なキャンバス」の「SHOUT」という曲は、台湾の地下アイドル界で大ヒットした。

私たちは「SHOUT」の歌詞の内容を理解する必要はない。それよりも、「SHOUT」という言葉を見ただけで、この曲が誰かの心の叫びを表現していることがわかる。だから、ただこの言葉の意味を見るだけで、この曲が「叫べばいいんだ」「ぶつかればいいんだ」と直感的に分かる。台湾人は「SHOUT」のコールを合わせ、時には日本人以上に熱狂する。面白いことに、たとえ日本語が分からなくても、この解釈は全く正しい。「SHOUT」はポジティブな曲ではない。アイドルへの制御不能な憧れが、最終的に嫉妬に変わり、アイドルとの関係が破綻する物語を描いている。その後、主人公は生きる意味を失い、アイドルにとって自分がどんな存在なのかを考え始める。彼女にとって、自分は映画のエンドロールに出てくる脇役なのだろうか? 将来、もし彼女と再会することがあれば、彼女は自分に笑顔を向けてくれるのだろうか? そして、曲の最後には、主人公が初めてアイドルとハイターチした瞬間の記憶がよみがえる。

真っ白なキャンバスが初めて台湾に来たとき、ほとんどの台湾人ファンが「SHOUT」を待ち望んでいた。本家「SHOUT」がどのように歌われ、どのようにパフォーマンスされるのか見たいと思っていたのだ。その時、オタクの中には真っ白なキャンバスによる「SHOUT」の解釈が気に入った者もいたが、一方で「SHOUTは大したことない」と感じる者もいた。しかし、そういった意見は私にとってはどうでもよかった。彼女たちのパフォーマンスを見ている時、私はある特別なことに気づいたのだ。

その時、私は少しだけ動きが不自然なアイドルに目を留めた。彼女のダンスはリズムよりもわずかに遅れていたようだったが、そのダンスから彼女が伝えたいことが感じられた。まるで彼女が言葉を使って話しかけているかのようだった。今の私が思うに、これこそが「言霊」なのかもしれない。日本人が言うところの「言霊」は言葉の中に宿るものだが、ダンスだって一種の言語ではないだろうか? ガリレオは「数学は宇宙の言語だ」と言ったが、ダンスだって言語である可能性がある。

その頃の私は、今よりもさらに日本語が下手で、ひとまとまりの日本語を話すことすらできなかった。しかし、その頃の私は日本語の読解力はそれなりにあり、ただ聞き取れず、話すこともできなかった。このことは、日本人にとっては奇妙に思えるかもしれない。どうして日本語を読めるのに、聞き取ることや話すことができないのかと。日本語の文章には難しい漢字が出てくるかもしれないが、会話にはそれほど難しいことはない。だが、私にとっては漢字の方が安心できる。台湾人にとって漢字を読むことは容易なことだからだ。また、日本語の文章を読んでいると、文脈から「主語」が何であるかを感じ取ることができる。複雑な日本語の語彙が網のように織りなされ、その網を通じて日本語が伝えたいことを理解することができるのだ。

しかし、聞き取ったり話したりすることは簡単ではなかった。相手が突然一言を発しても、それがどの日本語の漢字に対応しているか考える間に、写真を撮る一瞬の時間が過ぎてしまう。ましてや日本語を話すのはさらに難しい。脳内で断片的な単語を思い浮かべ、それらを正しい日本語の文法で組み立てるのは非常に大変なことだ。まずはその言葉が動詞なのか形容詞なのかを判断しなければならないし、形容詞なら「い」形容詞か「な」形容詞かによって接続の方法も違ってくる。正しく日本語を使おうと考えている間に、また一瞬のシャッターチャンスが過ぎてしまうのだ。

だから、写真を撮るときには「スキ」という言葉しか言えなかった。文法など考えずにただ「スキ」と言えばよかったのだ。しかし、ここが台湾人のずるいところだ。台湾人は本当の意味で「スキ」を理解できていない。「好き」という漢字は「好」と書き、中国語では「いい」という意味になる。だから、私たちが「スキ」と言うと、まるで「君がいい」と言っているように感じられるし、時には「こんにちは」と言っている感覚に近い。「你好」は中国語で「こんにちは」と同じ意味だ。このことは滑稽だ。「スキ」という言葉が日本語では重い意味を持つのに対して、中国語では軽い言葉として誰でも口軽く言うことができる。

彼女と初めてのチェキを撮るとき、コロナの影響で私たちの間にはプラスチックの仕切りがあった。彼女が半分のハートのジェスチャーをすると、私はすぐにそれに合わせた。私たちは仕切り越しにハートを作った。彼女はチェキに「スキ」と書き、それを指さして笑いながら「知ってる? スキ?」と言った。

その時、私は自分の日本語がバカにされたように感じたが、何も言い返せなかった。ただ頷くだけだった。今なら首を振って、冗談っぽく「全然わからないやん」と言えたかもしれない。なにしろ、中国語では「スキ」の本当の意味を理解することはできないのだから。

それに、日本語の中で「すきって何でしょうか」と自問すると、「すき」の意味は変わってくる。どうやって「すき」を説明すればいいのだろう。誰かに「すき」と言うとき、私は何を伝えたいのだろう。もし自分の心にある「すき」の感情を感じ取ったとき、それはずっと存在しているのだろうか。それとも変わるのだろうか。時には、一瞬で「すき」が「きらい」に変わることもある。それでも「すき」と言えるのだろうか?

後で、私はそのアイドルの自己紹介をネットで見た。そして、彼女は本当はアイドルになりたくなかったことを知った。彼女はYouTuberになりたかったのだが、他の人たちの勧めで最終的にアイドルになったということだった。そう考えると、彼女にはアイドルを「すき」という感情はないのかもしれない。もし今、彼女に「アイドルのことすきですか?」と聞いたら、きっとはっきりした答えは返ってこないだろう。しかし、それでも彼女はアイドルとして生きることを選んだ。

彼女に再び会ったのは、次の日のCorner Houseでのワンマンライブだった。その時、私は初めて「SHOUT」以外の真っ白なキャンバスの曲をたくさん聴いた。その時、もしかしたら私は「PART-TIME-DREAMER」が好きになったのかもしれない。この曲は、自分の能力不足を感じるアイドルが、自己卑下から自分を「アルバイト」と称しながらも、誰よりも真剣に取り組んでいる姿を歌っている。彼女は自分が「偽物」だと思い込んでいるため、「アルバイトアイドル」という名前を自分につけたのだ。

台湾に来る前、ちょうど真っ白なキャンバスがメンバーのカラーを発表したところだった。もともと真っ白なキャンバスにはメンバーカラーはなく、彼女たちの名前が示す通り、さまざまな可能性を秘めているのが「真っ白なキャンバス」だった。だから、もしメンバーカラーを決めてしまえば、それは可能性を一つに限定してしまうように感じられた。しかし、その時に運営方針が変わり、メンバーそれぞれに代表色が与えられた。

彼女の代表色は「黄色」だったが、私はその「黄色」にどうも違和感を覚えた。「黄色って、彼女を定義してしまうことになるんじゃないか?」そんな不安を抱えながら、ステージ上の彼女を見つめていた。歌にもダンスにも無限の可能性があるのに、彼女の魂がどこかに閉じ込められているように感じた。「黄色なのか?」私はそう思いながらも、確信は持てなかった。

ワンマンライブが終わった後、私は彼女に一枚のメッセージカードを書いた。その頃の私は日本語が非常に下手だったので、まず中国語で下書きを書き、それをChatGPTで翻訳した。実際、今でも私の日本語はあまり上達していないので、この小説もまたChatGPTの翻訳の産物だ。彼女に渡したメッセージにはこう書かれていた。

白キャンについての考えを共有したいと思います。
みんなが白キャンの色を白と考えていますが、キャンバスは絵の素材であり、だからこそ白キャンは白ではなく、様々可能性を秘めた色彩を持っていると感じます。もしくさらに進んでいえば、自分自身の色を創り出すことかもしれません。黄色ですが、私は黄色がキミを定義するのは難しいかもしれないと感じています。
僕は、キミの舞踊は最も綺麗だと思います。
ちなみに、お誕生日おめでとう!

私がそのメッセージを彼女に手渡した時、彼女は静かに涙を流しながらこう言った。「アイドルを頑張ってるから。」

もしあの時、私が間違えていたことがあったとすれば、それは「向日葵色」を「黄色」として捉えていたことだ。実際には、「向日葵色」は単なる「黄色」ではない。もし「向日葵色」がただの「黄色」だとしたら、ゴッホの有名な「向日葵」の絵もただの「黄色い絵」ということになるだろう。しかし、私はそうは思わない。「向日葵」を見つめると、その背後に言葉にできないほどの情熱が感じられ、世界との距離を強く意識させられる。なぜなら、私が見ている向日葵は、他の人が見ている向日葵とは違うからだ。もしかすると、ゴッホもそんな向日葵を見えたのかもしれない。そして、彼は自分の目に映った真実を、油絵という形で表現しようとしたのだ。向日葵はただの「黄色」ではない。向日葵は絶対に「黄色」ではない。

02


その後、彼女は一時的に活動を休止した。理由は分からないけれど、心の中で彼女のことが少し気になっていた。「もしかして、このままアイドルを辞めてしまうんじゃないか?」なんて不安が頭をよぎることもあった。でも、しばらくしてまたアイドルとして戻ってきたと知って、本当に嬉しかった。だから年始に日本へ行って、ステージに戻った彼女を祝う手紙を書こうと決めたんだ。

でも、当日は彼女が体調不良で休んでしまった。ZEPPで「PART-TIME-DREAMER」を聴きながら、がっかりして仕方がなかった。「これで、彼女との縁もここまでなのか?」なんて、どうしても考えてしまう。日本に住んでいれば、地下鉄やJRに乗るだけで簡単に会えるのに、台湾のファンが彼女に会いに行くには飛行機でわざわざ日本へ行かないといけない。そんなにしょっちゅう行けるわけじゃないから、いつか忘れられてしまうんじゃないかって、ふと不安になる。

結局、この手紙だけを残して、台湾へ帰ることになったんだ。

久しぶりです、体大丈夫?今日はあなくて残念です。いつもキミの字が一番綺麗だと思います。チェキを大切にします。
いつもキミは、白キャンと似合ってます。最近、PART-TIME-DREAMERとっても好きです。
優しい曲と思います。君も優しい人だと思うよ。あけおめ!

台湾にとって「真っ白なキャンバス」は、やっぱり特別なグループだ。台湾のアイドルグループが「真っ白なキャンバス」の曲をたくさんカバーしているし、ファンも「コール」をするのが大好きで、その熱意は日本のファンに負けないくらいだ。でも、言葉の壁があるせいで、台湾人には日本語の歌詞に込められた悲しみがあまり伝わらないことも多い。例えば、「SHOUT」の主人公が最終的に出禁になったり、「PART-TIME-DREAMER」が自虐的な歌だったりすることに気づくファンは少ない。もしかしたら、これも台湾のファンにとっては一種の幸せなのかもしれない。

台湾のアイドル業界は日本と比べると競争が激しくないし、台湾のアイドルはなぜ日本のアイドルが「地下アイドル」と呼ばれることを嫌がるのか、理解しづらいようだ。単純に、テレビに出られるのが地上アイドルで、出られないのが地下アイドル、そんな風に捉えている。アイドルは心の中の星のような存在で、自分もその光に照らされているように感じるんだ。

でも、知らないうちに日本のアイドルたちは「キラキラ」した輝きから抜け出そうとしているみたいだ。その輝きの代償は、自分を少しずつ殺してしまうことだからだろう。台湾のファンは「アイデンティティー」を歌っても空しさを感じず、「全身全霊」を歌っても、自分を鏡で見るのが怖いなんてこともない。たぶん、台湾のファンは歌詞をただ曲の一部としか捉えず、そこに「言霊」の力がないと信じているから安心できるんだろう。

けれど、日本語を学んで深く掘り下げるにつれて、その「言霊」の力に心を支配されるようになってきて、だんだん恐怖すら感じるようになった。周りのファンがアイドルと日本語で気軽に会話しているのを見て、何年も勉強しているのに日本人と普通に話せない自分に劣等感が湧いてきた。まるで人間の言葉が理解できない「化け物」になったみたいに感じていた。

それから半年後、日本の「わたしと私」公演にもう一度参加したけれど、アイドルのパフォーマンスを見るよりも、字幕にばかり目がいってしまった。一文字一文字が宝物のように感じられて、字幕にしがみついてやっと息ができるような気分だった。字幕がなかったら、目の前の世界がすべて理解不能になってしまうような恐怖に襲われていたんだ。

公演が終わった後、チェキ券を買って一度外に出て夕食を取ろうと思った。入口には「再入場禁止」と書かれていたけど、公演中に戻れないだけだと思っていたし、特典会の時間には再入場できるだろうと考えていた。でも、戻った時、スタッフに止められてしまった。長々と日本語で説明されたけど、最後の「なぜ入らせるべきなのか?」という質問しか聞き取れなかった。

その時、やっと「再入場禁止」が二度と入れないという意味だと理解した。一度外に出てしまった私は、もはや人間ではなく「化け物」になって、もう中に入れない存在だった。

化け物だから、わかりません」と答えた。

スタッフはその言葉を聞いて上司に確認してから、最終的に入れてくれた。

この時初めて、私は「わたしとばけもの」の中の化け物そのものだと気づいた。他人を化け物に変えることで生き延びる存在のように感じた。エスカレーターを何層も上って、アイドルの元へと向かった。彼女が私を忘れてしまったのではないかと不安だったので、マクドナルドで急いで書いたファンレターを手渡した。彼女は「あなたがあの時の手紙を書いてくれた人よね。そして、お誕生日おめでとうって書いてくれた」と言ってくれて、私はうなずき、忘れられていなかったことにほっとした。

でも、その瞬間、化け物の本能が少しずつ広がって、私の内面を侵し始めた。それは私の劣等感で、言葉が出てこなくなってしまった。ただ、日本人の話し方や文字を真似するばかりで、実際には一言も理解できていないことに気づいた。この時書いたファンレターには、こう書いたんだ。

ひさしぶり、こんかいやっと会えた。今日のキミは最高なアイドルです。
ツーアのタイトル「私とわたし」って、本当の自分と偽装な自分ってわかりますけど、どちは本当のはわからないけど、原因は、僕にとって、台湾人として、「私」という漢字はもっとなれるから。とってもむずかしいなあ。
僕は本当に白キャンの曲がすきです。深い歌詞がおおくて、深いのは生きる意味を考えること、その部分はとってもすきです。
そしてキミは白キャンのメンバになることもとっても感謝します。
僕はつねにこの社会とにあわないとかよくかんがえます。普通な人間になるとか、特別になるとかわからない。だから、キミのパフォマンスをみたとき、少し自分のことを思いだした。
たぶんキミはいつも「自らしいアイドル」はなんですかっていっぱいかんがえてた。だからキミがすきから。『PART-TIME-DREAMER』の歌詞は「誰かと手を取り合う勇気があればな」ってキミとわたしのものがたりです。
白キャンで出会ったよかったです。さらば

特典会が終わった後、トイレに立ち寄って手を洗っていると、鏡に映る化け物が人間の形をしていないことに気づいた。鏡の中の自分に向かって「目を合わせないで!」と叫んで、そのまますぐに走り出した。その後、自分の行動に驚いた。もしかしたら、化け物としての本性が突然現れたんじゃないか、理性を超えた化け物の衝動が、もはや自分を人間として偽ることを許さなくなったんじゃないかと。

「私は何?」と、まるでモノクロームのモノローグのように問いかけた。

03

その後、友人が妊娠5ヶ月の奥さんと一緒に岡山に遊びに行くときに私を誘ってくれた。そこで、7月の初めに東京から直接岡山に飛んだ。岡山から東京に戻るとき、飛行機の窓から外を見ていると、白い雲が見えた。その白い雲はまるで真っ白なキャンバスのようで、何もない純白のキャンバスだけが広がっているように感じた。他には何も見えなかったが、そんな純粋な景色の中では、景色がとても近く感じられ、国と国の境界が存在しないかのように思えた。その時ふと、台湾人は日本語が話せず、日本人も中国語が話せないけれど、もし時を数百年前に戻したらどうだろう、と考えた。その頃の日本では、唐詩が高雅な文化とされ、貴族たちが唐詩を学ぼうとした。だから、やがて漢字を使う芸術が書道として現代に至ったのだ。だから、彼女の日本語が聞き取れなくても、もし私が彼女に詩を贈ることができたら、それで人と化け物の境界を越えられるのではないかと思った。そんなことを考えながら、飛行機で紙とペンを取り出し、この手紙を書いた。

こんにちは。卒業の日まであと4ヶ月ですね。
アイドルの卒業を見たことがありますが、今も慣れないです。先日のライブで初めてを聴きましたが、今はその歌詞の意味も理解していまアイドルの卒業みったことがあリますが、いまもなれないです。先日のライブで世界犯初めてきいたですが、いまその歌の歌詞もわかってる。作詞人 mimimyさんは有名な作詞家です、彼の歌詞はよくこころのなかのよわい部分を述べて、恐ろしいことも歌詞に入ります。『世界犯』は、人間の無常とか、悲しいとか描く歌詞です。いっかすべて終わりって、イメージして、世界の無常に示してる。
いつか別れる時も来る。出会ったから短くない?ほぼ昨年の5.6月のことたった。もし、僕は日本人だったら、きみのことをもっと知りました。でも、台湾人のままで、、自分だけできることもあるよ。だから、この漢詩はプレゼント、

夏之歌
此處望西野,
彼時憶東雲。
月昇幾千明,
日落三百歌。


書道のように、たぶんこの詩を読めると思います。台湾人はよく漢詩を学んだり、僕でも少しできます。
だけど、幼い頃詩を覚えることとっても嫌いだった。

この手紙はNATSUZOMEの時に彼女に渡した。これが自分にとって唯一の幕張訪問だった。その時、幕張メッセの大きな会場を目にしたけれど、彼女が本当に卒業する時にはその場に立ち会うことはできなかった。

NATSUZOMEでは真っ白なキャンバスのために2日間参加することに決め、初日にこの手紙を渡し、翌日には彼女に自分の詩についての感想を聞こうと考えていた。チェキを撮る時、いつも何も話せなくて、何を言えばいいかもわからず、その一瞬の静寂を楽しむだけだった。周りの日本人ファンが彼女と流暢に話しているのを見て、ただ手紙を渡すだけしかできなかった。

翌日、再び訪れた時には、彼女のチェキ券がすでに完売していた。物販で忙しそうな彼女を眺めながら、その距離感に少し失望を感じた。もしチェキが撮れたとしても、この沈黙を克服できるとは思えない。ただ、何度も文字に頼り、ファンレターを通じて伝えたい思いを書き続けるしかなかった。

初めて彼女にファンレターを書いた時のことを思い出した。その手紙にはたくさんの漢字を詰め込んで、日本人に驚かれたのだ。台湾人からは字が汚いとよく言われていた自分の字も、日本人からは「綺麗だ」と称賛された。日本語において漢字とは一体何なのか、と改めて考えた。

日本語では、漢字は数百年前の外来語と同じだ。今の外来語には片仮名が使われるけれど、以前は外来語に漢字が使われていた。「外来」というのは「他者」、つまり自分とは異なるものを指す。日本人にとって、漢字は平仮名に比べて距離感があり、どこか中国文化を感じさせるものだ。

今の台湾人にとって、漢字は母語の一部であり、漢字以外の世界を知らないほど馴染み深い存在だ。以前、ある人が日本語は中国語の模倣だと言っていたのを聞いたことがある。清国末期の学者は、中国語ができれば日本語は簡単だと考えていたらしい。でも、彼らは否定形の「ない」を理解できず、苦笑するしかなかったという。「漢字」は台湾と中国をつなぐものであり、どんな自己認識や国家認識があっても切り離せない存在なのだ。

ただ、100年前の台湾は日本の一部だった。その頃の台湾人は、今の大阪弁に似た日本語を話していたらしい。祖母もその時代の人で、幼い頃には私たちに日本語で話しかけてくれていたが、私が少し日本語を話せるようになった頃には彼女はすでに他界していた。第二次世界大戦中、日本と敵対していた中国を象徴する台湾政府は、30〜40年前、日本語学習を反国家行為と見なしていた時期がある。

今の私は「台湾華語」とも呼ばれる中国語を話し、日本語を学び、書けるようになったが、ほとんど日本語を聴き取ることができない。自分は台湾人だと感じているし、中国人ではないと思っている。日本語が堪能な人を羨ましいと感じることもあるし、この時代において日本語学習が反国家行為と見なされることはなくなったものの、心の中には常に何かしらの矛盾が渦巻いている。

これは「化け物の哀れ」だ。台湾人のような化け物であり、人間の帰る道もなく、日本の「物の哀れ」を学ぶこともできない。だから、自分のような化け物には哀れさがあるのだ。

04

その後、真っ白なキャンバスの最後のTIFで、俺は白キャンの宣伝用の扇子をゲットした。物販の時に、何気なくその扇子で彼女に風を送っちゃったんだ。「自分で」って彼女が言った瞬間に、はっとして、失礼なことしちゃったのかもって気づいた。自分の扇子で勝手にアイドルに風を送るなんて、もしかしてマナー違反だったかもしれない…。その場で申し訳ない気持ちがこみ上げてきて、「もしかして出禁になっちゃうんじゃないか」とか頭の中でぐるぐる考えちゃった。台湾人として、日本の文化や暗黙のルールを知らずに破っちゃったのかもって、自責の念に駆られた。

次の日、また彼女とのチェキを撮るために、今度は手紙を書いて行った。

いつもいつもありがとうございます。
いつも言葉できなくてごめんね
もし合格なファンになればいいなと思います
いつもありがとう

手紙を渡した後、彼女は俺にハンディファンを手渡して、自分で涼むように示してきた。俺はそのファンで自分に風を送りながら「涼しいね」って言ったんだ。少しの沈黙があって、彼女が「このあと、何を食べるの?」って尋ねてきた。少し考えてから「焼肉!」って答えたら、彼女は嬉しそうに「一緒に食べよう!」って笑ってくれた。

その瞬間、心がふっと軽くなって、「ああ、出禁にはならないんだろうな」って安心した。でも、実際に彼女と一緒に焼肉を食べることなんてありえないんだ。その日が最後の出会いの日で、その後は台湾に戻る予定だったから。

「一緒に焼肉を食べる」なんて、アイドルとファンの間にある冗談みたいなもので、現実には起こらないこと。繋がりが不可能だからこそ、一緒に焼肉もできない。でも、たとえそれが想像上の幸福だとしても、その瞬間は本当に幸福を感じたんだ。

その時はもう彼女に会えないと思ってたけど、その後に発表された台湾遠征が決まって、心から嬉しく思った。まだ伝え切れてない言葉をもう一度伝えられる機会が来たと感じたんだ。台湾にいるときは、なんだか不思議と気楽でいられるんだよね。

真っ白なキャンバスの台湾遠征の当日は、友人の結婚式が重なってたから、ライブを楽しんだ後は物販に行かず、そのまま結婚式に向かうつもりだった。

ワンマンライブで「全身全霊」が歌われた。この曲は友人が最も好きな曲の一つで、彼は聴くたびに泣いちゃうって言ってる。俺は彼がどの部分に感動するのか、具体的には聞いたことがないけど、「全身全霊」は歌詞の中に「身」や「霊魂」そのものが語られてるわけじゃなくて、「全て」、つまりその人の「全て」を指してるように思うんだ。一人の全ては、デカルトみたいに心身を分けて説明できるものじゃなくて、一つの完全な存在なんだ。

「弱い自分が嫌なんだろう?」って歌詞は、自分の全てを嫌い、体も魂も嫌悪し、怪物のような自分自身を嫌うって意味で歌われてる。俺も「自分以外の誰かになりたい」って思うことがある。日本人みたいに日本語を流暢に話せるようになりたいし、作詞作曲ができる人になりたいし、能力ある人間になりたいって。でも、怪物のような自分を見つめると、嫌悪感しか感じられないんだ。

台湾の観客の中で「全身全霊」を聴きながら考えてた。みんなが楽しそうに笑顔でいる中、どうして自分だけがオーバーセンシティブになって、上を見上げても何も見えなくて、劣等感だけを感じてるんだろうって。どうしてみんなが白キャンの曲を純粋に楽しめるのに、俺だけがそうできないんだろうって。

俺は、最後の曲は「PART-TIME-DREAMER」だと予想してたけど、それは外れて、最後の曲は「いま踏み出せ夏」だった。その瞬間、自分の中で白キャンへの理解が崩れていくのを感じた。自分は少数派の「怪物」であり、白キャンの歌詞を理解できる存在だと思ってたからこそ、「PART-TIME-DREAMER」こそが、アイドルになりたい怪物にふさわしい曲だと思ってた。でも、最後の曲が「いま踏み出せ夏」だったんだ。もしかすると、全てが自分の思い込みに過ぎなかったのかもしれない。

ライブが終わった後、彼女との最後の出会いになるかもしれないって思い、友人の結婚式には急がず、彼女に最後の手紙を渡すために物販に向かった。

今日も手紙があります。毎回は最後の手紙を言っても、今日はまじ最後かな。
ここはキミと出会ったところです。最後ここにちゃんと会うことはとっても幸せです。
すてきなアイドルと思います。よく頑張ってできたよ。
いちばん勇気がありますアイドルさんです。
とっても尊敬しますね。
いつもありがとう、幸せです。
台湾にいっぱいきてくれてありがとう
アイドルって、キラキラものじゃないと思って、自分は自らしい人になるのは
アイドルと信じます。
だから、キミは ザ・アイドルです。
PART-TIME DREMERでも真剣で、夢に向き合った。
いい夢を見ました。僕らで。

その時、前にいた女の子が彼女に話しかけて泣いてて、彼女はその女の子に「かわいい」って優しく微笑んでた。俺のアイドルはなんて優しい人なんだろうって、その瞬間思った。

俺が手紙を渡すと、彼女は「いつも手紙を楽しみにしている」って言ってくれた。その瞬間、初めて日本語が自然に出てきて、「いつもちあきちゃんのファンで幸せです」って、一言ずつ口に出したんだ。「こちらこそ、ありがとう」って彼女が言って、手を伸ばしてハイタッチをしてくれた。

ハイタッチを終えてから、俺は友人の結婚式へと向かった。それが彼女に言った最後の言葉だった。

その後も、俺はアイドルとファンの関係について考え続けた。アイドルとファンの間に愛はあるんだろうか?そこに本当の感情はあるんだろうか?彼女と数枚のチェキを撮って、少しの言葉を交わした時間、彼女の心を感じ取ったような気がしたけど、それも全部が俺の幻想だったのかもしれない。

ある日、高校の同級生と一緒に食事している時、俺はその問いを投げかけた。「ファンはアイドルの一番良い面しか見られないなら、その面が偽物だとしたら、アイドルとファンの関係は本当のものって言えるのかな?」

その友人は結婚して、今では子供もいて父親になってた。俺は続けた。「真実の愛とは、子供を産むことができる関係って言われることもあるよね。そう考えると、アイドルとファンのように、時間が経てば消えてしまう関係も愛って言えるのかな?」

「もし機会があったら、君はそれ以上の関係を望む?」って彼が聞いてきた。

「いや」って答えた。「台湾でのワンマンライブの翌日にオフ会があったけど、行かなかったんだ。人との距離って、ある程度必要だと思う。時には距離が近すぎると、不安を感じてしまうこともあるから。」

彼はうなずいて、父親になった彼には俺の気持ちが理解できるようだった。「陰と陽のようなものだよね。暗闇があるから光が輝く。関係が光ばかりだと、バランスを失って破綻するかもしれない。人との距離が近すぎると、相手の内面の暗い部分に触れてしまうことになる。だからこそ、君が人との距離を保とうとするのは、ただ美しい部分だけを見ていたいからだろう。」

その時、俺は気づいたんだ。化け物である自分は、人間のような恋愛を求めるべきじゃなかったのかもしれない。人間にとって結婚は正しい愛の形かもしれないけど、化け物同士が近づきすぎると互いに傷つけてしまうんだ。だからこそ、化け物と化け物の間の恋愛は、アイドルとファンのように遠いものなのかもしれない。

ファン・ゴッホがひまわりを好きすぎて、耳を切り落とすほどに愛することもある。もし、人を好きになれても、それほど好きにならず、化け物の距離を保つことができたら、化け物としての幸福を手に入れられるかもしれない。

その時、俺は気づいた。もしかしたら、俺の好きなアイドルもまた化け物なのかもしれない。いや、真っ白なキャンバスそのものが化け物なんだ。作詞を担当するmimimyさんやシロトリリオンさん、作曲の古屋葵さんもまた化け物で、みんなが人間のように偽って生きてるんだ。

消し去ることのできない劣等感、永遠に報われない愛、化け物であることの恐怖、それらはすべて真っ白なキャンバスの歌の中に潜んでいる。もしかしたら、化け物だけが化け物の言葉を理解できるのかもしれない。化け物に愛することはできるのだろうか?

いま踏み出せ夏
言葉はいらないの ねえ

言葉にできない俺は、「いま踏み出せ夏」の主人公のように言葉を捨てて、ただ自分だけの「夏之歌」を書いてるんだ。

その時、ふとアイドルと交わした最後のハイタッチを思い出した。まるで「SHOUT」の歌詞の最後の一節「初めての日のハイタッチを」みたいに。誰もが最後には去っていき、世界は俺たちを殺してしまう。それでも、死後に響く人生の章で、この瞬間の幸福を思い出すことがあるだろうか。

何気ない日常が 瞬く間に過ぎてゆく
ふとした瞬間 想うことが
どんなに幸せだろう Woah

私はふいに、
たとえ全てを失ったとしても持ち続けることのできる幸福を感じた。
たとえ化け物であり、
人間じゃなくても得られる幸福を。
それは神の憐れみなのかもしれない。

ファン・ゴッホが初めてひまわりの中に自分を見出し、
それを描くことを決意した時、
あれは単なる黄色じゃなかった。
黄色はきらきらしすぎて、
それは内面の恐怖を直視して逃げずに向き合う、
化け物のような色。
もしかすると「ひまわり色」こそ、
彼女の名前にふさわしい色だったのかもしれない。

その時、俺は初めて気づいたんだ。真っ白なキャンバスがメンバーの色を発表した時、そこには「黄色」という文字は一度もなかったことを。最初から最後まで「ひまわり色」だったんだ。


西野千明

❝ 向日葵色(ひまわりいろ) ❞
\#FCC800

「向日葵のようにあなたを見つめて、一人一人を幸せにしたいです」


そんなツイッターポストを見たけれど、
たとえ向日葵は色でなくても、
色を失っても、
色が付けなくてもいい。

向日葵(きみ)は、ただ向日葵(きみ)のままでいい。

つまりはそう、君が好きだ。
キャンディタフトみたいに。

全文完


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