大谷翔平の契約を勉強する
どうも、こんにちは。雨宿りです。
今回は、ちょうど1年ほど前に大谷翔平選手とドジャースが結んだ契約(特にお金の面)について、私が色々調べてわかったことをまとめてみました。
この契約は戦力均衡の観点から批判されることも決して少なくはなく、ドジャースが今オフも大型補強を続けていることで再び注目を浴びているのも事実です。ただ、それらの批判が果たして妥当であるのか、極端な後払い契約は悪なのか、そもそも後払い契約の目的は何なのか、などなど、これらを理解するためには、私自身まだまだ十分な知識を持ち合わせていないと感じ、今回勉強してみようと思った次第です。
この契約については、明らかとなっていない(あるいは自分のリサーチ不足、理解不足な)部分もいくつかあるため、この記事で大谷選手の契約の全貌を知ることはできない点はご留意ください。また、見落としている点などがありましたら、ぜひ教えていただきたいです。余裕があれば適宜、追記・修正していきます。
このnoteではとりあえず、調べてわかったこと、そこから推察できることを主に記していきます。この記事が大谷選手の契約への理解を深める一助になれば幸いです。
では早速、本題に入りましょう。(内容が前後していて読みづらい部分もあるかと思いますが、その点はご了承ください)
総額700Mドルの大型契約
◼️契約の概要
大谷選手は昨年の12月に、ドジャースと10年総額 700M(7億)ドルの契約を締結。約97%の後払いが契約に含まれており、契約期間中(2024〜2033)の年俸は 2M(200万)ドルで、契約終了後の10年間(2034~2043)で毎年 68M(6800万)ドルがドジャースから大谷選手に支払われることになっています。
(またこの契約には、全球団に対するトレード拒否権、契約の1%未満をドジャースの慈善団体に寄付すること、フルタイムの通訳をつけること、レギュラーシーズンとポストシーズンのホームゲームでドジャースタジアムのスイート席を用意することなどが盛り込まれているとされています。さらには、球団オーナーのマーク・ウォルターか編成本部長のアンドリュー・フリードマンが現職を退き、ドジャースを退団するようなことがあれば、大谷選手は契約を破棄することができるという異例の条項も含まれています)
97%の後払い契約
大谷選手の契約によって一躍脚光を浴びた「後払い契約」ですが、実際には大谷選手の契約以前にも「後払い契約」自体は存在していました。それにも関わらず、なぜ今回の契約がここまで注目を集めることになったのでしょうか。
その理由は、間違いなく後払い額の割合にあります。
一般的な後払い契約では、球団が選手に後払いする金額は契約総額の20~30%程度に収まるのが通例です。しかし、大谷選手の場合は、その割合は驚異の約97%に達します。具体的には、大谷選手が今後10年間に年俸として受け取るのはわずか2Mドルであり、残りの金額は2034年から2043年にかけて、年68Mドルずつ無利子で支払われる仕組みとなっています。このような高い割合の後払い契約は前例がなく、その斬新さと規模の大きさが大きな衝撃をもたらしました。
◼️後払いの定義
CBAでは後払い(=繰延報酬)は以下のように定義されています。
◼️97%の後払いはオーケー?
では、そもそも97%の後払いはルール上、許されているのでしょうか?2022年にMLB機構と選手会の間に交わされた包括的労使協定(以下CBA)では、後払い(=繰延報酬)について以下のように記されています。
つまり、CBAには後払いの割合に制限がないとの旨が記されており、97%の後払いもルール上は決して問題でないことがここに示されています。
◼️後払いの制限を拒否した選手会
97%という極端な後払い契約も、現行のCBAでは一切規制されていませんが、2021年のCBA交渉の際に、MLB機構側は後払いに関して規制を設けることを提案していました。これに対し、選手会側は選手たちのサラリー拡大や契約の柔軟性を優先する姿勢を示し、この提案を拒否したと報じられています。
したがって、MLB機構と選手会の合意によって定められた現行のルールにおいては、97%の後払いも可能であるということです。
◼️後払い契約のリスク
MLBのCBAでは、後払い契約に明確な制限が設けられておらず、選手と球団の合意に基づき柔軟な契約を結ぶことが可能です。この仕組みは、選手のサラリーの拡大や長期的な収入の確保といったプラス面が存在し、球団にとっても資金運用の柔軟性を得られるというメリットがあります。しかし、こうした自由度の高い契約形式には、選手側が負う明確なリスク(デメリット)も存在します。特に「後払い」という仕組みがもたらす選手側への経済的なデメリットは、決して無視できるものではありません。
後払い契約では、選手が契約締結期間中に手にするはずだった報酬を将来的に受け取る形となるため、インフレの影響でその金額の実質的な価値が目減りする可能性があります。また選手が早期に全額を受け取れば、自ら投資を行い資産を増やす機会を得られますが、後払いではその投資機会自体も喪失しかねないのです。
他にも、将来の税制変更によって、後払いで支払われる収入に対する課税が選手へ不利になる可能性や、万が一にも球団が財政難に陥った場合に、支払いが遅延または減額される可能性もゼロではないはずです。このように後払い契約の選手側へのデメリットはいくつも存在し、それらが理由で後払い契約を望まない選手がいる(何なら望まない選手の方が多いはず)のも事実です。
大谷選手の場合は、この後払いの割合が極端に高いため、その分リスクも大きくなることが考えられます。しかし、これらのリスクを理解した上で契約を選択した大谷選手は、その特別な決断力や独自の価値観などを改めて我々に印象付けました。(選手側へのメリットもあるので、それについては後述します)
なぜAAVが46Mドルに?
◼️CBAの贅沢税ルール
MLBでは、各球団が一定額のペイロール(全選手の年俸総額)を超えた場合に課される「贅沢税」という戦力均衡を目的とした制度が設けられています。MLBにはサラリーキャップは存在しませんが、球団の支出を抑制するためのソフトキャップが存在するのです。贅沢税は、基本的に球団全体のペイロールに基づいて計算されるのですが、このペイロールの求め方がやや複雑です。
贅沢税のルールをこの記事で1から説明するのは、今回の本題からは少し逸れるので、ここからは、贅沢税の大まかな仕組み(ペイロールやAAVなど)を理解している前提で話を進めます。
おそらくこの記事を読んでいる方が気になっているのは、なぜドジャースのペイロールに加算される額が70Mドルではなく、46Mドルなのかという点だと思います。
この疑問を解消するために、CBAに記載されている具体的なルールを引用しながら説明していきます。
つまり、選手の給与の一部が後払いされる場合、贅沢税計算におけるAAV(平均年俸)はインフレや減価償却を考慮して現在価値に調整されるということです。
◼️現在価値の考え方
今日の1ドルの価値は、20年前の1ドルと同じではありませんし、20年後の1ドルの価値もきっと今日とは異なります。なぜなら、今日受け取るお金は、銀行に預けたり投資したりすることによって、将来的に増やすことができるからです。またインフレが進行すると、同じお金で買えるモノの量が減り、実質的にお金の価値が下がることにもなります。
こうしたお金の「時間的な価値」を考慮し、将来受け取るお金の価値を「今の時点」で評価するのが現在価値という概念です。この評価には、金利やインフレ、リスクといった要素が反映された割引率という数字を用いて求められます。計算方法は以下の通りです。
$${PV=\frac{FV}{ (1+r)^n}}$$
・PV:現在価値
・FV:将来価値
・r:割引率
・n:期間
◼️AAV 46Mドルの算出方法
では大谷選手の契約の場合はどうなるでしょうか。CBAにはこのように記載されています。
大谷選手の後払いは利息なしで支払われることが公表されている(上記の"それ以外の場合"に該当)ので、推定ローン金利(Imputed Loan Interest Rate)を割引率として適用して、現在価値を算出します。
そして大谷選手のAAVを計算する上で重要になってくる数字は、68Mドル、10年、そして4.43%の3つ。
まず、68Mドルというのは、大谷選手が契約終了後の10年間に毎年後払いされる金額です(計算式のFVに該当)。続いて、10年というのは、契約期間の各年が何年後に後払いされるかを示した数字(計算式のnに該当)。そして最後の、4.43%は割引率です(計算式のrに該当)。ではこの4.43%という数字は一体どこから出てきたのか。
CBAには割引率について以下のように述べられています。
連邦中期金利については以下のページで確認することができます。
上記リンクによれば、2023年10月の連邦中期金利は4.43%だったので、これを割引率として適用し、現在価値を求めるというわけです。この4.43%は年間の金利であり、各年に適用、つまり10回適用されることになります。
これらの数字を先ほどの計算式に代入すると、大谷選手と契約終了後の10年間にドジャースが毎年後払いする68Mドルの現在価値は約44M(≒44,081,4765)ドルになります。この44Mドルに、割引の対象外で大谷選手に毎年支払われる2Mドルを加算した46Mドルが毎年の贅沢税に適用されるAAVとなるのです。
◼️割引率が固定される違和感
さて、大谷選手のAAVが70Mドルではなく、46Mドルになる理屈を説明してきましたが、理解の早い方ならこのような疑問を抱いたかもしれません。
「割引率が契約期間全体にわたって固定され、その固定された値をもとに各年の後払い金額の現在価値を計算するのって、本当に合理的なの?」
実際、私自身もこの点には同じような疑問を持ちました。CBAでは、後払い契約の現在価値を算出する際に、契約締結年の直前10月に適用される「連邦中期金利」が割引率として固定されます。この割引率は契約期間全体に適用されるので、契約期間中の経済環境の変化は計算に反映されず、CBA上の"現在価値"が実際の経済的な現在価値と乖離する可能性があります。
なぜ固定割引率が採用されたのかは定かではありませんが、経済環境の変動を考慮することには一定のメリットはあるものの、それに伴う複雑さや不確実性が球団の財務計画やMLB機構全体の運営効率に影響を与える可能性が考えられます。これらのリスクを回避し、契約計算の一貫性と簡便さを確保するために、固定割引率という妥協点が設けられたと考えるのが妥当でしょう。
後払いは贅沢税回避が目的?
◼️贅沢税の回避とは
そもそも、何を持って"贅沢税を回避した"と言うのでしょうか。この議論を明確にするためには、まず「贅沢税回避」の定義を考える必要があります。
あくまでこれは個人的な見解ですが、私は「特定の選手が1年間に見合うと期待される金額(市場価値に基づく妥当な年俸)よりも低いAAVが設定される結果として、球団が支払うべきと予想されていた贅沢税の負担額が軽減されること」が"贅沢税の回避"だと考えます。
この定義をもとに、大谷選手の契約を当てはめて考えてみましょう。
大谷選手は契約期間中、年俸として2Mドルを受け取ります。仮にAAVも2Mドルに設定されていた場合、それは間違いなく贅沢税回避にあたります。しかし、実際のAAVは46Mドルです。これは大谷選手が1年間に見合うと期待される金額よりも低いのでしょうか。
◼️大谷選手に期待されていたAAVは?
大谷選手がフリーエージェント(FA)となった時点で、彼のAAV(平均年俸)について多くの予想が立てられていました。そのほとんどが40M〜50Mドルの範囲に収まっており、例えばMLBの有名情報サイトであるMLB Trade Rumors(MLBTR)は、彼のAAVを44Mドルと予測していました。また、MLBTRの記事によると、彼らが追跡していた他の6つの媒体によるAAV予想の中央値は45.9Mドルだったとされています。
これらの予測値を基にすると、大谷選手の実際の契約で設定されたAAVである46Mドルは市場予想に極めて近い水準です。しかし、史上初の50本塁打・50盗塁を達成したことや、1年目からチームを世界一に導く活躍をしたこと、さらには今オフにフアン・ソト選手が結んだ契約規模を考慮すると、46Mドルはやや低いようにも思えます。
ただし、大谷選手がFAとなったタイミングを思い出してみると、話は少し変わります。FAとなった時点では、これらの記録や成果はまだ実現されておらず、さらに昨オフの大谷選手は2度目のトミー・ジョン手術を受けたばかりでした。そのような背景を考慮すれば、AAV 46Mドルという数字は、当時の市場価値を十分に反映した妥当な金額であったと考えるのが適切ではないでしょうか。
◼️大谷選手から後払いを提案
これまでに例を見ないほど極端な後払い契約を結んだ大谷選手ですが、実はこの契約形式は大谷選手自身が希望し、代理人とともに球団側に提案したものだと後に明らかになりました。この後払いのアプローチは、ドジャースに限らず、大谷選手が交渉を行った全ての球団に対して一貫して取られていたと言われています。
当時、ジャイアンツの編成を任されていたファーハン・ザイディ氏も、大谷選手から後払い契約の提案があったことを公に認めています。
◼️契約の名目金額が膨張した可能性
大谷選手から後払いの提案がなされたことで、彼の価値に見合う契約をどのように形作るかという議論が、交渉のテーブルで進められたと考えられます。後払いを前提にすることで、大谷選手サイドと球団サイドは互いに最大の利益を引き出そうとしたはずです。大谷選手自身も、球界トップの選手として、彼の契約が今後FA市場に出てくる選手たちの価値に悪影響を与えることを避けたいという思いがあったことでしょう。一方、球団側にとっても、97%の後払いという大谷選手の提案を拒む理由は見当たらなかったはずです。
言わば、大谷選手が97%の後払いを望んだからこそ、契約の名目金額が700Mドルにまで膨れ上がった、と考えられるのです。大谷選手が後払いを希望していなければ、きっと契約総額が700Mドルに届くこともなかったでしょう。後払い契約が単なる財務戦略を超え、名目金額にまで影響を及ぼす仕組みであることが、この契約を特異なものにしているというのが私の見解です。
一方でこの点に関しては、まだまだ議論の余地があり、最初からドジャースが大谷選手に対して700Mドルを提示していたのではないかとする主張も存在します。今年の12月に掲載されたUSAトゥデイの記事では大谷選手の代理人であるネズ・バレロ氏の言葉を引用して以下のように書かれています。
一つ目の段落では、この記事を執筆したボブ・ナイチンゲール氏の見解が示されています。彼は「後払いにより、ドジャースの贅沢税の対象となる年俸額は年間70Mドルから46Mドルに減少しました」と述べていますが、この点は私の解釈と異なります。その根拠はすでに示した通りです。一方で、次の段落にあるバレロ氏の発言には注目すべき点があります。同氏によれば、大谷選手は交渉期間中に「その年俸の全額または一部を後払いにしたらどうなる?」と述べたとのことです。この記述をもとにすると、ドジャースが最初から10年総額700Mドルの契約を提示しており、その後に大谷選手が後払いを提案したかのような印象を与える構成になっています。
しかし、この文章にはいくつかの曖昧さや問題点が存在します。特に、大谷選手の発言にある「その年俸」が何を指しているのかが明確にされていません。文脈的には70Mドルを指しているようにも思えますが、バレロ氏の発言中では具体的な数字には一切触れられていません。このように記者の解釈がバレロ氏の発言と混在しているため、どの部分が事実に基づく記述で、どの部分が記者の推測や構成上の演出であるのかが曖昧になっています。
私の見解としては、当時の市場価値に基づいて考えれば、大谷選手が後払い契約なしで10年総額700Mドルの契約を受け取ることはなかったと思われます。後払い契約がこの金額に達する重要な要因だった可能性が高いのです。
◼️贅沢税の観点から批判される理由
ではなぜ大谷選手の契約が「贅沢税回避を目的としたもの」として批判されるのでしょうか。
この背景には、主に二つの理由があると考えられます。
一つ目の理由は、契約発表当初に報じられた内容と、実際の契約価値との間に生じた情報のズレです。大谷選手の契約が決まるや否や、多くのメディアが揃って「10年700Mドル」という数字を報じました。この名目上の契約総額は非常にインパクトがあり、ファンの多くがその数字を基に「AAVは70Mドルになる」と自然に想像したことでしょう。しかし、その後に明らかになったAAVが46Mドルだったため、そのギャップに驚き、また混乱を招いたのです。報道の順番が逆であれば、ファンの感想も違っていたかもしれません。
二つ目の理由は、大谷選手が後払いを望んだ意図への解釈です。大谷選手が後払いを希望したのは、チームを利する目的があったはずです。しかし、一部の人々は、その「チームを利する」という目的を、単純に「贅沢税の減額を狙ったもの」だと誤解した可能性があります。確かに、この契約がチームに利益をもたらすことは事実ですが、その利益が贅沢税の負担軽減だとするのは本質的に間違っていると私は考えています。(この契約がもたらすチーム側の利益についてはこのあと別の観点から言及します)
結局のところ、大谷選手の契約を贅沢税回避の意図があったと論じるには、いくつかの前提条件が必要です。それは、大谷選手のAAVが当時の市場価値を著しく下回っていること、あるいは70MドルのAAVを得られる可能性があったにもかかわらず意図的に低く設定されたという証拠です。仮にドジャースが大谷選手のプレーヤー寿命を遥かに上回る20年700M(AAV 35M)ドルの契約を提示し恣意的にAAVを下げたり、97%の後払いが含まれた10年500M(AAV 約33M)ドルの契約を提示していたのなら、それは結果的に贅沢税回避の意図があったと見なされるでしょう。しかし、現実のAAVが46Mドルであり、それが市場価値に基づいて妥当とされている以上、この契約が贅沢税回避のためだったと批判するのは無理があるように思われます。
大谷選手が後払いを選択する利点
◼️世界一への意欲
大谷選手が後払い契約を選択した背景には、彼自身の並々ならぬ「世界一への意欲」があると思われます。これまで大谷選手は「ポストシーズンに出たい」「ワールドシリーズを制覇したい」という目標を公言しており、その勝利を追求する姿勢は誰の目にも明らかでした。FA市場に出た時点で、大谷選手が高額契約を結ぶことは既定路線でしたが、彼はその高額な契約がチームにとって負担とならないようにするためにどうすべきかを考え抜き、後払い契約を選択しました。そして大谷選手が大きな割合での後払いを希望したことにより、ドジャースは財政面での柔軟性を高めることに成功したのです(贅沢税の観点ではない)。
Sports Illustratedによると、大谷選手は、自身が後払いを選択することで生じた資金を、ドジャースがチーム強化に充てるよう求める文言を契約書に盛り込むよう提案していたとも報じられています。このような要求は、大谷選手が自身の報酬よりもチームへの貢献を優先する姿勢を象徴するものと言えるでしょう。
もちろん、大谷選手がフィールド外で莫大な収入を得ていることも、この大胆な選択を可能にした一因であることは間違いありません。しかし、それ以上に彼の選択には、チームの勝利を最優先に考える姿勢が強く反映されています。こうした特異な決断力と献身的な姿勢こそが、大谷選手を特別な存在たらしめているのです。
◼️後払いがもたらす節税の妙
大谷選手が後払い契約を希望した主な理由は、チームの勝利を優先する思いからだと考えられます。しかし、この契約形式には、大谷選手個人にとっても明確なメリットがあります。それは、将来の税負担を軽減できる可能性があるという点です。現在、大谷選手が居住しているカリフォルニア州は、全米で最も高い所得税率を誇ります。大谷選手がドジャースでプレーする10年間に受け取る年俸(毎年2Mドル)は、このカリフォルニア州の高税率が適用されることになります。しかし、2034年以降に支払われる680Mドルの後払い分については、大谷選手が税率の低い州や国外で生活している場合、その金額にはカリフォルニア州の税率は適用されません。
例えば、97%の後払いを含む10年700Mドルの契約(実際の大谷選手の契約)と、後払いなしの10年460Mドルの契約を比較すると、その現在価値はほぼ同等と考えられます。しかし、大谷選手が後払いを受け取る期間に所得税のない州や税率の低い州で暮らしていた場合、税引き後の収入には最大で200Mドル以上の差(後払い契約の方が有利)が生じる計算となります。さらに、税引き後の現在価値を比較しても、後払い契約の方が約50Mドル高い結果となると推定されています。
したがって、大谷選手の選んだ後払い契約は、彼自身の未来の収入を見据えた合理的な選択であると捉えることもできるのです。大谷選手本人がこの点を気にしていたかはわかりませんし、そもそも後払いされる680Mドルをカリフォルニア州で受け取る可能性も残されています。
後払い契約がもたらす大幅な節税に関して、カリフォルニア州会計監査官のマリア・コーエン氏は、2024年1月に次のような声明を発表しました。「無制限の後払い契約は、税の公平な分配を妨げる要因となっており、税制の不均衡を是正するために議会が早急に行動を取る必要がある」。この発言を受け、同年4月には州上院議員ジョシュ・ベッカー氏が、後払い報酬に対する課税の在り方を見直す決議を提出しました。この決議は、州議会の税務委員会で可決されたと報じられています。しかし、これはあくまで州レベルでの決議であり、実際に法的拘束力を持つものではありません。そのため、後払い契約に関する課税ルールの変更が実現するには、連邦レベルでのさらなる議論と立法措置が必要となります。今後もこの点については、情報をキャッチアップしていきたいところです。
ドジャースへの恩恵
ここからは、多くの方が関心を持っているであろう、大谷選手の後払い契約がドジャースにもたらした具体的な利点について掘り下げていきます。
これまでに、大谷選手の後払い契約がドジャースに何らかの利益をもたらしていること、そしてその利益が贅沢税の回避を目的としたものではないこと、この2点について言及してきました。ここからは、これらのポイントをさらに詳しく探りながら、ドジャースがどのような形で恩恵を受けているのかを説明していきます。
◼️義務付けられている資金確保
CBAでは、後払いする報酬について次のようなルールが規定されています。
これは、ドジャースが2026年の7月1日までに、大谷選手の2024年シーズンの報酬のうち後払いとなる分の資金を予め確保しておかなければならないことを意味しています。同様に、2025年シーズンの報酬は2027年の7月1日まで、2026年シーズンの報酬は2028年の7月1日までというように、毎年の報酬分について規定された期限までに資金を確保する必要があります。このパターンは、2033年シーズンの報酬については2035年の7月1日までといった形で続きます。そして確保するべき報酬の額については以下のように定められています。
大谷選手の後払い契約において、ドジャースは未払い分の後払い金額(毎年68Mドル)について、2025年11月1日時点でのJ.P.モルガン・チェース銀行のプライムレートに応じた割引率で現在価値を計算し、適切な資金を確保しなければなりません。たとえば、プライムレートが7%未満であれば、CBAで規定されている5%の割引率を適用して計算された68Mドルの現在価値、つまり約42Mドルを2026年7月1日までに確保する必要があります。一方で、プライムレートが7%以上であれば、割引率は新たに協議され、計算額が変更される可能性があります。ここで注意すべきなのは、AAV(平均年俸)を算出する際に使用された割引率とは異なる値が適用されるという点です。
ではどのようにして資金を確保しなければならないのでしょう。こちらについても当然、CBAで決められています。
読んでいただければ分かる通り、後払い契約における資金確保のルールは、非常に複雑で曖昧さを残しています。まず初めに「統一選手契約に別段の定めがない限り」という一文が登場します。これが特に厄介な部分で、大谷選手の契約内容が全て公になっていないため、彼の契約に「別段の定め」があるかどうかは現時点では判断がつきません。この曖昧さは、大谷選手に限らず、後払い契約を結んだ全ての選手に共通する課題でもあります。
仮に大谷選手の契約に独自の資金確保方法が明記されていない場合、以下のCBAで定められた条件に従う必要があります。
資金は後払いの支払いにのみ使用されなければならない(球団の運営費用や投資などの他の目的に流用することができない)
資金は現金または現金同等物、登録済みで制限のない市場性の高い有価証券の形で保持されなければならない(流動性の高い資産や、公開市場で自由に売買可能な株式や債券など)
ただし事前にMLBおよび選手会の書面による承認があれば、別の形式で資金を保持することができる
確保された資金は、球団の一般債権者からの請求対象である必要がある(つまり球団が財務破綻や破産した場合、この資金は債権者が請求可能な資産として扱われるということ)
大谷選手が後払い契約を選択した背景や彼の希望を考慮すると、後払いの支払い以外の目的に資金が流用されることを完全に禁じるというルールが適用されるのは考えにくい面があります。むしろ、大谷選手の契約には独自の資金確保方法や柔軟な運用方法が盛り込まれている、つまり「別段の定め」が存在している可能性が高いと言えます。ただし、これはあくまで推測の域を出ません。
現実として、大谷選手の契約内容が完全に公開されていない以上、資金がどのように確保されているのかについては明言することはできません。これには、エスクロー口座の利用が関連するかもしれませんが、その詳細もまた不明です。ただ少なくとも、MLB機構と選手会はその内容を把握していますし、資金確保についての報告義務も存在するとCBAでは決められています。
大谷選手の契約における具体的な資金確保の方法は不明な部分が多いものの、MLBのルールに基づいた厳密な管理体制の下で運用されていることだけは間違いないでしょう。
◼️後払い資金の運用
ここまでで明らかになったのは、10年後に支払われる後払い報酬であっても、報酬が該当するシーズンの2年後の7月1日までに資金を確保しておかなければならないということです。また、その資金の確保状況についてはMLBコミッショナー事務局に定期的に報告する義務があり、これによって選手の報酬が確実に支払われる仕組みが構築されています。そのため、10年後に突然ドジャースが財政的に追い詰められるというような事態は考えにくいのです。
大谷選手が後払い契約を結んだことで真っ先に考えられるドジャースにとってのメリットは、やはり2年というモラトリアムでしょうか。モラトリアムと言っても完全な自由を意味するわけではありませんが、球団はその間に必要な資金を調達、または計画的に運用することが可能です。
本来であれば、2024年のうちに支払わなければならないお金を、2026年7月(2025年分は2027年、2026年分は2028年と続く)まで球団資金として運用できるのは、財務計画上非常に有利な話です。
さらに、この資金の運用方法については、大谷選手の契約内容次第で柔軟性が生まれます。運用先は選手補強に限らず、球場の大規模改修(実際に今年のオフシーズンに行われています)や、その他の投資プロジェクトなど多岐にわたります。これにより、ドジャースは短期的なキャッシュフローを活用しつつ、長期的な収益を生む可能性のある事業にも資金を振り分けることができます。
加えて、ドジャースの現オーナーであるマーク・ウォルター氏が、アメリカの資産運用会社のCEOを務めるプロフェッショナルである点も重要です。このような資産運用に精通したオーナーがいることは、後払い契約を戦略的に活用する上で非常に有利に働きます。ウォルター氏の存在を踏まえれば、大谷選手が後払い契約を選択した背景には、彼が球団の財務戦略に信頼を寄せていた可能性も伺えます。ウォルター氏を「キーマン条項」に含めた理由も、こうした背景を考えると理解しやすいのではないでしょうか。
◼️名目金額の増加による経済効果
後払い契約のもう一つの重要な恩恵として挙げられるのが、「名目金額の増加による経済効果」です。大谷翔平選手の10年総額700Mドルという数字は、大きなマーケティング価値を持っています。これは、当時のMLB史上最大規模の契約であることのみならず、プロスポーツ選手として世界一の契約総額として広く報道され、大谷選手そしてドジャースに対する注目度を一気に高めました。この数字がもたらすブランド力は計り知れず、それ自体がチームの知名度や商業的価値を飛躍的に押し上げる要因となることが考えられます。
◼️戦力均衡を崩すシステムなのか
これまで、大谷選手の後払い契約がドジャースにもたらす多くの恩恵について触れてきましたが、この契約が果たしてMLB全体の戦力均衡を崩す仕組みなのかどうかについては、現時点で判断する材料が十分とは言えません。ただ、こうした疑問を深く考える中で、少なくとも問題の本質がどこにあるのかを探る一歩を踏み出したように感じます。
時折、「他のチームが同じことをできるかどうか」を戦力均衡の判断基準として掲げる人を見かけますが、後払い契約に関して言えば、理論上どのチームも、特にビッグマーケットの球団はこの方法を問題なく採用できます。ただし、スモールマーケットの球団が同様の契約を結ぶことはほぼ不可能だというのが現実です。これは後払い契約特有の問題ではなく、MLBに根付く収益構造の違いが背景にあります。例えば、フアン・ソト選手がこのオフにメッツと結んだ契約総額が大谷選手を超えたと報じられましたが、後払いの有無にかかわらず、スモールマーケットの球団がソト選手のような超一流選手を獲得する可能性は限りなくゼロに近かったと言えるでしょう。
こうした事実を考えると、後払い契約そのものが戦力均衡を損なう直接的な要因であるとは断言できません。むしろ、問題の核心は収益格差にあると考えられます。ニューヨークやロサンゼルスのような巨大な市場を持つ球団は、テレビ放映権料やスポンサー収入をはじめとする豊富な収益源を活用できますが、小規模市場の球団では同じ収益機会が得られません。この収益格差こそが、戦力不均衡の根幹にある問題なのです。後払い契約のような財務戦略は、資金力に余裕のある球団にとっては柔軟なキャッシュフロー管理手段となりますが、スモールマーケットの球団にとってはそのリスクを引き受けることが難しく、結局のところ不均衡が助長される点は否めません。しかし、後払いはあくまで一部の手段に過ぎず、戦力均衡を揺るがす直接的なものとは言えないのです。
サラリーキャップの導入、収益格差や市場規模の違いを是正する収益分配制度や贅沢税の強化など、MLB全体の競争バランスを保つための仕組みはいくつも考えられますが、完全な戦力均衡はあまり現実的ではないでしょう。そもそも州によって所得税率が異なるのも戦力均衡に影響しないわけはないでしょうし。
大谷選手の契約は、リーグの財政ルールの柔軟性と、それを活用する選手・球団の戦略的思考を浮き彫りにした一例に過ぎません。とはいえ、大谷選手の契約が次回のCBA交渉に新たな視点を与えたことは間違いないはずですし、戦力均衡の観点のみならず、球団の財政面でのリスクなどについても話し合いが行われるはずです。
今後のCBA交渉では、このような後払い契約がどの程度許容されるべきか、そしてそれがリーグ全体に与える影響について、より深い議論が行われることが予想されます。その中では、収益格差の是正や財務的公平性の確保が引き続き大きなテーマとなるでしょう。
一方で、大谷選手自身がこの契約を通じていかにドジャースに貢献し、フィールドで結果を出していくのかもまた、我々ファンが楽しみにすべき点の一つです。MLBは進化を続けていますが、この契約はその過程における重要な一章として語り継がれることになるのではないでしょうか。
ヘッダー画像:雨宿り本人撮影