ある日のフレンチコース
海沿いのビーチに建つホテルに泊まった。午後三時頃から六時頃までビーチで過ごす。そこは夕日や朝日が見える景勝地ではないが、移りゆく空模様、海面の反射するきらめきの変化があり、初秋の太陽の優しさも加わって、美しく過ごしやすかった。
あまり遅くまで開いていないというホテルのレストランで、早めのフレンチコースの夕飯となった。伊勢海老を使ったコースだと聞いていた。「おひとりさま二つ使ったコースとなります」と、給仕が言った。
ソフトドリンクがサービスで一つ付くと言う。ウーロン茶やオレンジジュース等の定番のものと、ノンアルコールビール、後はジンジャーエールで割ったノンアルコールカクテルが数種類ある。ここのホテルは何度も来ており、手作りのジンジャーシロップがあるのを知っている。夫がジンジャーエールはできないかと聞いてみた。慣れてなさそうな若年の給仕は、「こちらに載っていないので…」と申し訳なさそうに言うが、融通をきかせる気配はない。
ここのホテルの経営元は私たちが繰り返し利用している間に、三度変わった。来たばかりの頃は、生姜を使った美味しいフレンチコースを提供していたのだが、その後料理の質自体は下がりっぱなしである。サービスもそれっぽく腰を低くはこなすもののそれ以上にはならない。なので美味しさやサービスはそれほど期待していない。なぜここで食べるのかというと、周りに程よい飲食店がないからである。どちらかといえばコンビニ飯で過ごしたりしていることが多い。そういう気分ではない時に、夕飯付きで予約をする。そして私はエビが好きなので、今回の夕飯は少し期待してしまったのだ。ジンジャーエールをやんわりと拒否されて、私は期待してはいけないと覚悟した。
テーブルにコースの流れを記した紙が置いてある。デザートの前の〆と書かれている伊勢海老の味噌汁が気になった。〆とはアルコールを飲んだ上での〆のイメージが強い。ましてや味噌汁とは、寿司屋で日本酒で酔っ払ってそろそろお椀頼もうかなというのなら合うだろうけれど、フレンチコースで味噌汁は初体験だ。二人で「かなりアバンギャルドだね」などと言い合ってはいたものの、やはり期待してはいけないと重ねて思った。
アミューズはチーズと生ハムのカナッペである。薄く切った小さめのバゲットに生ハムに包まれたチーズが乗っていた。あまり美味しくないもの三点のマリアージュであった。ここのレストランはパンが美味しくない。パン好きな私はちょっと残念に思う。
オードブルは伊勢海老のお造りである。盛り付けが苦手であった。器として伊勢海老の頭と殻を使った活き造り風で生臭い。お刺身は新鮮なのだが、わさびと醤油で食べるのだ。完全に和風だ。平皿に野菜も添えて、オリーブオイルと塩コショウでガスパチョ風に食べたい。早く片付けたいあまりに、鼻で息をしないようにパクパクと食べ始める。
隣テーブルは三世代の客であった。子供の母親らしき女性が、「エビって火を通してあると食べられるんですけど」と給仕に言っているのが聞こえてきた。それを聞いて私達は「その手があったか」を目を合わす。
私達も火を通したエビの方に軍配をあげるタチであった。美味しいお寿司屋さんで職人にボタンエビを勧められても、頑として茹でたエビの握りを注文する。
ジンジャーエールでつまづいた私達は、もはや挑戦者としての出鼻をくじかれていたのだ。受け身になりすぎていただろうか。しかし、コース料理とは物語のようなもので、流れの趣向を楽しみシェフの手腕を味わうためのものだと思う。最初も途中も最後もシェフの意向であり肝心なのだ。少なくとも私はそうだし、連れの夫も多分そうだとまぁまぁの確信を持っている。なのでやはり私達は途中で作り手の趣向を拒否することは出来ないのであった。もちろん食べ終わってから文句は言い合ったりする。
途中まで食べてしまっていたお造りは、やはり急いで食べ、お皿を丸テーブルの遠くに置いた。コース料理では自分であまりお皿は触らないけれど、仕方がない。近くにあるの嫌なんだもん。
歳を重ねるに従って、海鮮の匂いが苦手になりつつある。もともと子供の時から刺身など苦手であった。それでもそのうちに新鮮ならば美味しく食べられるようになり、これが大人になるってことなのかと思っていたのに、また苦手になるなんて意外な事だ。
逆に得意になったこともある。カップ麺や炭酸飲料、ファーストフードのハンバーガーだ。若い時はむしろ軽蔑していた食品が美味しく感じるようになった。死ぬ前に食べたいものは、搾りたてのにんじんりんごジュース以外ありえないと思っていたのに、その段になってみたら、マックが食べたいとか言うのかもしれない。ただ単に流行りなのかもしれないけれど。
スープはかぼちゃのスープだ。小さめのエスプレッソで使うようなコーヒーカップに半分量入っている。添えてあるスプーンは一般的なティースプーンよりも小さく貝殻を模したお洒落なものだ。マドラーのような役割として置かれていたのかもしれない。ごく普通の味である。
それよりも丸テーブルに置かれたままの伊勢海老のお造りの皿を下げて貰えないのが気になる。やはり少し生臭いのだ。スープはカップの持ち手を持ってチビチビと飲んだ。スープを下げてもらう時に伊勢海老のお皿も下げてもらった。
スープの時におかわりができるという小さめの丸いパンが供された。もちろんそれほど美味しくないのだが、私はパン好きなので一つは平らげる。夫はなかったものとして手を付けない。おかわりをするのかどうか最後まで聞かれなかった。コロナ禍では各テーブル回るのは良くないとされているのかもしれない。
魚料理は伊勢海老のローストと鯛のポアレである。縦半分にカットされたものが二つと、伊勢海老の影に鯛がある。派手な盛りつけで華やかだ。ローストしてあるので少しほっとしながら臨む。味は見た目ほどは特筆すべきこともなく普通だ。思った通りのギャップなので驚かない。むしろはじめて落ち着いて食べられたひと皿だ。伊勢海老の頭も付いていなかったし。
肉料理は牛フィレ肉のグリエである。ジューシーさはなくやはり味は普通。ちょっと食事っぽいプロテインと言った感じである。ソースがおろし醤油ステーキソースだったのだが、いかにもという味であった。それほど美味しくはない。ただ筋っぽくなく食べやすかった。付け合せに俵型の小さなテーターパフ、ハッシュドポテトが二つ付いていた。美味しいとは思うけれどチープなのがここっぽい。
私はさほど口を開かず、夫はおしゃべりな方だ。食事中夫がしゃべり続け、私は聞きながら食べ続けることが多く先に平らげてしまう事が多い。早食いのようでそうなってしまうとこちらとしては恥ずかしい。なので夫に合わせようと、食べることにブレーキをかけたりする。この時も気付けば私は九割方食べてしまっているのに、夫の方は三割ほどであった。なので一旦フォークとナイフを置いて、夫が追いつくのを待つことにした。
しばらくしてから、私の様子と皿の空白を離れたところから見ていたのであろう、給仕が疑いもなく皿を下げに来た。慣れていないものだから、「お食事お済みですか」までこちらの様子を見ずに言ってしまう。夫の進捗具合は五割ほどである。夫の話が中断し、しばしの間の後私が「いいえ」と一言いうと給仕は謝りつつテーブルから離れていった。そのような調子で私達は周りの客よりも、コースの進み具合が遅くなることが多い。
以前コース料理ではないのだが、とても人気があり予約が取りずらい寿司屋に行ったことがあった。もちろん美味しかったのであるが、その店の、大将と他の客から呼ばれている男性の個性で成り立っているような所も見受けられ、客はどちらかと言うと大将をおだてつつ、舌づつみを打つスタイルのようであった。私達はそういうのはそれほど好きではなく、マイペースで相変わらずのんびりと食べていた。それでも居心地が悪いという程でもなく美味しいので、また来てもいいなと思い、大将に直接次回の予約をしたいと申し出て、予約を入れて帰ることになった。その店は地下にあり、店を出るとスタッフの女性がエレベーターのボタンを押し待っていてくれていた。エレベーターを待つ間に、彼女が次回の予約を入れたことに礼を言い、「お客様、お寿司は大将から出されたら、すぐ食べた方が美味しいですよ」と言った。私達は自分たちがマイペースなのは自覚があり、二人して照れ笑いをして、「そうですね」とかなんとか肯定をし、彼女のお辞儀に見送られエレベーターに乗り込んだ。
数日後に私達は次回の予約を取り消した。そのスタッフの意見なのか、大将にそう言われるように指示されているのは知らない。思い返すと水の合わなさがいくつか思い出されて何となく行きたくなくなってしまった。
もちろん正論なのはわかる。
問題の〆の一品は伊勢海老の味噌汁である。もはや警戒しすぎて、期待の一品と心変わりしていたとも言える。陶器の汁椀に伊勢海老の殻がはみ出しているものが運ばれてきた。料理に使い余る殻などから出汁を取った風である。どちらかと言えば贅沢な賄いメニューだ。美味しいのかどうか確かに出汁は濃かった。とにかく濃かった。スプーンはなく、味噌汁を飲むように直接椀に口を付けて飲むスタイルだ。そのように飲むと、豪快にはみ出ている伊勢海老の殻が鼻に当たった。お造りの時に使用した割り箸で、殻を押さえつつ飲む。これもお造りと同様、完全なる和であった。フリーズドライのものであろう、形の揃った薄く小さな油揚げも多く入っていた。味噌汁と知った時は、ミルクなどを入れて少し洋風にしているのかもなどと思っていた。私はたまに余った味噌汁に牛乳を入れて飲んだりする。途端に少し洋風スープとなって美味しいのだ。その時の具がかぼちゃやじゃがいもだったりするとなお良い。豆腐とワカメの時は少しちぐはぐ感が出る。
ひょっとするとお酒で酩酊していたらやはり〆として良かったのかも知れない。しかしこのコロナ禍でアルコールの提供を断念させられているのに、やはりこれは異端のメニューであった。
後になって夫が裏メニューとして、店側がコソッと耳打ちして出すならありだと言っていた。
デザートはケーキとフルーツの盛り合わせである。フレンチコースでデザートが凝っていると天にも昇る気持ちになるのは、私だけではないと思う。そもそも華やかなデザートはフレンチ料理の専売特許である。
しかし私達はここで期待をしないことが出来るのであった。リピーターなので。
思った通りの、冷凍であったろうケーキを定番のフランボワーズソースで点々と控えめな水玉にて飾り、フルーツはオレンジとキウイ一切れづつである。フルーツの味は少し薄かったので、これらも冷凍だったのかも知れない。
味噌汁に面白がっていた私達は、いっその事、和の流れで抹茶でも立てて、豆大福などを出してもいいんじゃないかなどと、好き勝手なことを話していた。
私達のテーブルの近くに、二人組の歳若いやんちゃそうな青年の客が居た。片方が食事中に電話に出てテーブルで話し始めた。そう言えば最近はコロナ向けの、食事中以外のマスク着用や、大声で話さないようになどの注意喚起は見かけるものの、席で電話をするなというのを記してあるのを見かけなくなったなと気が付く。私が出不精で世間知らずなだけかもしれないけれど、少なくともここのレストランにはなかった。
話し相手は仕事の上司のようであった。気楽に話しているので砕けた会社なのかもしれない。
「ええ今××と一緒にホテル来てて。まわりの店が閉まっててホテルで男二人でフレンチ食べてます。ええ、この辺コンビニくらいしかなくて」
などと話している。青年らはこの辺りに来たのは初めてなのであろう。この辺りはコンビニがあるだけましであった。
そのありがたいコンビニは思えば長く経営を続けているのだと思う。携帯がガラケーの頃などは、暇つぶしのための雑誌や往年のコミックなどを購入した。
実はこの辺りには評判の良い個人経営の飲食店はいくつかある。私達は目当ての店にいざ行こうとすると、休業日か、営業時間を過ぎているか、閉店してしまっていることがしょっちゅうだ。そのような星の元に生まれたのかもしれないし、この地域の店舗に商売っけがなさすぎるだけかもしれない。なので開拓をすっかり諦めているために、コンビニはなくてはならない存在だ。
私達は料理の質を下げつつも、体裁を保とうとする姿勢を微笑ましく見守ってきたつもりだ。どうせ必ずまた泊まりに来る。私達はこのホテルのロケーションを愛している。美しいビーチに道路一本挟むことなく建っており、とにかく眺めが素晴らしい。清潔感もある。一階に降りるとすぐに砂浜に出られる。オーシャンビューのリゾートホテルで、ビーチに出るのに案外時間がかかって面倒臭いなと思った経験は少なくない。
美しさが変わりようのない海と、変わるかもしれない料理。これ程魅力的な宿は他には無いのであった。
最近全然詩が書けません。口の悪い本の虫の夫にこれを読んでもらったら、ただの日記と言われました😂 その通りでございます、前に読んだ物語系のやつのレベルがいい、二つ書いてるけど終わらなくなってしまって💧等。
私はある詩人のWikipediaを読んで詩を書いてみたくなったのですが、その人が誰だか忘れてしまいました。なんて間抜けなんでしょう。詩人、変人とか、詩人、短い詩とか検索しても全然探し出せません。その方は、なんというかままならなそうな詩を書いている方で、今で言うとただの呟きみたいな短い詩を書いたりしている方です。え、これ詩なの?みたいなものでした。多分、明治生まれか大正生まれの男性で、飲んだくれたりしてそうな孤独そうな詩でした。これをここら辺までも読んで下さっている貴方は、きっと活字と仲良しさんなはず。そしてひょっとしたらこの詩人のことかな?という心当たりがありましたらコメントください。
ここまで読んで下さって本当にありがとうございました✨