影
私は影に近い。輪郭は光で薄まり闇ではぼやける。そんな風でも人として登録をしてしまったものだから、しっかりと税金は取られている。潔く最初から影であれば、好きな場所に行き勝手に食べたり飲んだり出来たはずだ。
たまにこちらを認識し、落ち着かなげに気にする人が居る。私も珍しいその人を気にしてしまう。その人の前ではなんだか居心地が悪い。目端で観察するとずっとこちらを見てくるのだが、近づいては来ない。
幽霊と人が出会う怪談話はこんな風に始まるのかしらと思ったりする。私は幽霊なんだろうか。しかし何も覚えがない。記憶喪失の幽霊ならば、気の毒な人に取り付いて、何か頼みがあるのかと聞かれ、私は誰でしょうかなんて言い、そんなこと聞かれましてもと返され、一度取り付いてしまったものは事が明らかになるまでは成仏が叶いません、なんて言ったりして二人で困り果てるのである。そんな幽霊はきっと、何か焦燥感に駆られているはずだから、何も感じない私はやはり影なのだ。
ある日、おはようございますと聞こえた。斜め後ろにその人が居る。他に人は居ないし、その人が言ってきたと思うのだけれど、当人はこちらを見ずに手元の書類をペラペラと数えている。その人の声を聞いたことがなく、こちらを見ない様子をついじっと見つめていたら、挨拶などされたのか不安が募り、自信がなくなってしまった。なので影らしくふいとそのままその場を離れてしまった。その人はほんの一瞬、息を止めたような雰囲気を出し、ああやはりその人だったんだと、立ち去り終わる時に思ったものだから、何も言えなかった。
後々とても失礼な事をしてしまったような気がし、こちらを見てくる人と気にはしていたけれど、そこに後ろめたい思いも加わってしまった。
挨拶の件もあって、もうこちらのことは、見切りを付けだだろうと思っていたけれど、相変わらず近くに居る時には見られている。しばらくは負い目と共に過ごしていたものの、段々と面倒臭くなってきてあまり考えないようにしていた。
また別のある日、その靴可愛いですねと言われた。見れば例の人である。苦手意識の付いてしまったその人にしどろもどろに礼を言う。何か会話をしなければと魔が差して、これずっと前のプーマのやつなんですよ、と言うとその人は、へぇと言って仕事に没頭し始めてしまった。
しばらくその人を見つめていたけれど、何も起こらなかったので、立ち去りかけると背中に声がかかる。
「カッター貸して貰えませんか」
カッターを貸したところで、その人は他の人に呼ばれてどこかへ行ってしまった。
そのうちに私達は、お互いにずらし合って観察し合うようになっていった。目を逸らす時に相手を引っ張るという具合に。
私には影の知り合いがいた。ずっと影として生きている影である。その影はたまにやって来て、少し会話をしたりする。例のその人とそんな日常を繰り返している時に影はやって来て、引っ張られてるなと言ってきた。
あまり奴を信用するな
あいつは影ハンターだよ
私は人として影としてぼやけているようなものなので、世事には疎い。影ハンターなんてものがあるとは知らなかった。
影が言うには影ハンターとは言うものの、標的は影ではなく、そもそも影を捕まえるのは不可能なんだと鼻を鳴らした、いかにも影になってしまいそうな人間を狙うということらしかった。私のような。
君はレベル十か九だぜ
レベルはいくつまであるのと聞けば、
あんま確立してないんだ
奴らが好き勝手に点数付けてんだろ
話の途中みたいなところでいつも影はどこかへ行ってしまう。結局はよく分からずじまいだった。
その人がハンターだったとして捕まったらどうなるのだろう。標本にでもされるのだろうか。
私が影を信用しているのかというと、それはよく分からない。言葉を交わす相手があまり居ないので気晴らしにはなる。
一度、影になってみるかとスカウトされたことがあった。
影になるとずげえ特典があるんだぜ
丑の刻参りあんだろ
あれが二十四時間何時でもできるんだぜ
お天道様の下でも藁人形カーンってな
ああ? 呪い? やんねーよそんなこと
使えない特典てやつかぁと言うと、影は笑いのような溜息のような息を漏らしつつ、消えてしまった。
影は気まぐれで同じ話はしない。それなのに珍しく、影ハンターのことについては繰り返し話しかけてくる。
ハンターは標的の持ち物を手に入れて貯め込んで、外堀を埋めていくらしい。あ、そう言えばカッター貸したっけ、と思い出して少しひやりとする。それでも影ハンターについて検索をしていた私は、動揺を見せることはない。現実には影ハンターなんて居そうもなかった。
あいつになんかやったろう
とからかうように聞いてくるので、飴あげたかなと言っておいた。
ああだめだ
だめだだめだー
だめの余韻を残しつつ、いつものように消えて行った。
その人とはいい雰囲気の交流があった。その人の近くで一緒に仕事をする機会があった。
「飴いりますか」
と聞くと、
「あ、ああいります!」
と珍しく相応な反応を見せる。少し離れたところから、個包装の飴をその人に向けてポーンと放る。その人は両手で上手くキャッチをし、二人で一緒に少し軽く笑い合った。
ある日、グループを作って仕事をする機会があった。私はその人の希望で、その人がリーダーを務めるグループの一員として加えられていた。人に必要とされるのは、とても嬉しいものだと初めて感じた。
結局はその人の差配が芳しくなく、半日でグループは解散となった。普段は仕事をミスもなく素早くこなすその人は、人が集まった途端に道化となり、仕事の流れが止まってしまうのであった。
その人の知らない一面を見られたものの、人物像はより得体の知れないものとなった。
その後その人からは頻繁に居場所を提供され、私は落ち着きを覚えた。私は段々と影らしさが薄まるのを感じていた。その証拠に、ベランダで育てているミニトマトが実を付けたのだ。以前、家庭菜園の水やりをしている時に影がやってきて、無駄な事をと言われたことがある。
お前は黒い指持ちだからそういうの無理なんだよ
私は身に覚えがありすぎて否定出来なかった。私が関わる植物は、早々と枯れてしまうのだ。なので感動して可愛らしいトマトをうっとりと眺めていると、現れた影にあっさりと食べられてしまった。
影はよく私の食べ物をネコババする。
以前お昼下がりにのんびりと、食べ放題ビュッフェで食事をしていた時にやって来て、私のお皿からパクパクと食べるものだから、私も負けじとパクパクと食べざるを得ない事があった。傍から見たら早食いの大食らいであっただろう。さすがは影と言うべきか、底なしの食欲を見せる。すぐにお皿が空になるので、また食べ物を取りに行かなくてはならない。文句を言うと、
お前と同じものを食べないと死んでしまうんだよ
などと言う。食べ物を取りに行っている間に、影が他の人のお皿から、つまみ食いをしているのを知っている私は、呆れて見返すだけだ。
ある日、お昼のお弁当に海苔巻きを作ってきていたので、公園の日陰のベンチで食べていると影が現れた。どうせ現れるだろうと思っていたので、海苔巻きは多めに作ってあった。
おっ海苔巻き
と予想通りパクッと食べた。影は食べても、美味しいとか不味いとかの感想を言わない。
「お、海苔巻きですね」
見上げると、その人がそばに立っていた。相変わらず、その人の前では緊張を隠せないのに、今は影も居るので慌ててしまう。影は黒いものとよく同化して隠れていたりする。影が海苔巻きの海苔に素早く身を隠すのが見えた。
「もうお昼は食べられたんですか?」
「ええうどんを、そんなに食うんですか?」
その人は目を丸くして海苔巻きを見つめている。今日の海苔巻きは優に三人前はあると思う。恥ずかしさのあまり言葉を噛みながら、今日は作りすぎちゃってと言いつつ勧めると、その人は一つ摘んで食べた。
その人が摘んだ海苔巻きに影を見たような気がして、私はもぐもぐと動く口をぽかんと見つめ続けてしまった。
「ちょっと早めに戻らなきゃいけないんです。ご馳走でした」
と言ってその人は、持っているペットボトルのコーヒーを飲みつつ行ってしまった。
手元の海苔巻きに向かって小声で影を呼んでみる。何も起こらないので軽く揺すったりしながら、影、影、と呼んでみたがやはり影は現れなかった。
その人の食べた海苔巻きの味は、大丈夫だったんだろうかと不安になった。
翌日その人が、昨日ご馳走様でした、美味かったです、あれ全部食べたんですかと言ってきたので安心した。
数日後、影って食べられるんだ、としばらく影と会っていないことに気がついて、食べられた影の行き先などを考えていると、影が現れた。
てめぇ人に食わすんじゃねぇよ
言うほどに影は怒っているわけではなさそうだった。むしろ機嫌が良さそうだった。
あいつアホだぜ
影も微塵もねぇからちっとも同化できねぇ
あいつお前の裸想像してたぜ
そう言ってげらげらと笑っている。こんなに楽しそうな影は初めて見た。
「ねぇ、じゃあ私が食べたらどうなるの」
影はげらげらをピタリとやめてこちらを見た。
さぁな
そう言って立ち去ろうとする。何度も影と会っていると、去り時がわかるようになっていた。影の方に手を伸ばして掴もうとすると、驚いたことに影を捕まえていた。影はぐいんぐいんと身体をくねらせて逃れようとしている。
やめろ離せよっ
手を離すと影は居なくなっていた。
その後、影は現れなくなった。