のらねこ

    のらねこ
 
 
 
 辿り着いた見知らぬ街は、明るさのある昼間こそは、私を浮つかせたが、夜になり地下街への階段がシャッターで封鎖される時のポーンポーンという音を聞くと、これからの不安に押しつぶされそうになった。所持金は外食二、三回ほど。めぼしい宿の当てもなく、どのように夜を明かそうか、それでも一番怖い事は考えずに通りすがりの小さな公園のブランコに乗ってみた。近所の子供がたまたまここに居るだけだと思われますように。少し不自然なのか、終電帰りのスーツを着た大人によく見られているような気がする。仕方なく駅の方へと引き返す格好になった。

 主要都市の大きな駅はまだ煌々としている。昼間は大きな流れとなっていた土産物屋が並ぶ改札口前の幅広の長い通路は、今は一番向こう端までを見ることが出来る。大きなガラスを背にしたベンチを見つけてそこに座る。私は闇夜に隠れる術を持っていなかった。ほどなくして二人組の警官に声をかけられた。私はこれが補導なのかと、思考がぼんやりとしていくのが感じられた。それほどひどいことをされていた訳でもない元の住所、そして私以外の誰のものでもない、名前と年齢を正直に聞かれるままに答えた。
 そこへフラフラと、にこやかな野宿者風情の老年男性の二人組が野次馬にやって来た。警官らとは顔なじみようだ。人を待っていると告げた私を警官らはどうするか決めあぐねていた
 老年らは呑気に私を野次馬しながら、「おめ、地味ぃなんだら、よぉぐ見たらかわいいじゃねぇか」などとからかってくる。見た目の印象と違って二人は無臭だった。警察官よりも何の決定権もない彼らに私は安堵していた。この二人に付いて行きたい。
 警官らは私の待ち合わせを信じることにしたようで離れていった。その際に老年らも引き連れて行き、私は再び一人になった。

 さてどうしようか。ここは明るくて安心できたけれどまた警察官がやってくるのは目に見えている。仕方ない、歩いていれば何かに捕まることはないのかもしれない、と移動を決心したところに一人の青年が話しかけてきた。いつの間にか近くに居て驚かされる。
「どうしたん、さっき警官に声かけられてたでしょ」
長めのクセのある前髪を斜めに流している。青年の問いに「うん」とかなんとか肯定の返事をする。
「ここに居るとまた警察くるよ。散歩でもしない?」
彼も私が行こうとしていたのは見ていたはずだ。否定的な様子を見せない私の、パンとした小ぶりのボストンバッグを当然のごとく「荷物持つよ」と言いながら、既に肩に引っ掛けていた。
「どっから来たの」という問いに、あえて答えないでいると、青年は追求することなく、自らの他愛のない話をし続けた。気付けば先程居た小さな公園に着いていた。自動販売機でお茶を買ってもらい、二人並んでベンチに腰掛けた。
青年の年齢を聞くと十九だと言う。そんなに年上の人とあまり話したことのない私は、「へぇ」と十九ってこのくらいなんだと改めて青年の容姿や体格を眺めた。背は私よりもだいぶ高い。二重の目は大きめだ。今日は忙しかったと言う青年に、「何してたの」と聞くと、
「んー、まぁ色々。産業スパイとか…」
とこちらを見ずに言った。初めて会う産業スパイに私は心から感心して
「そうなんだ」
と言った。青年はふっと薄く笑いながら
「あんまり言えないんだけどね」と言いながら、今日は××産業に言ったとか、××が裏切ってなどと話し続けていた。私は適当に相槌を打ちながら、この公園にまた来るなんて、さっきはそんな縁は感じなかったな、などと考えていた。
 話すことの途切れた頃に、青年が私の肩に腕を回してきた。少し引き寄せられる。顔をあげると青年がキスをしてきた。私は「ええと」とキスの仕方を思い出しながら、青年と舌を絡ませた。長いキスで、目を瞑っていると疲れた身体は眠気を感じる。青年が顔を離し「キスが上手いね」と言った。私はぼんやりと目を開けてうっかりバランスを失ってしまい、背もたれのないベンチの後ろへ倒れそうになった。青年は私をきちんと支えてくれた。
「行こうか」と青年は立ち上がる。手を引かれながら、少しづつ雰囲気の変わる街の景色を眺めた。一人ではないので私はすっかり安堵して景色を堪能する。青年は近くに住んでいるのか、ここは昼間はこうでとか、友達とよく来る場所を指差したりと案内してくれる。

 幅の狭い小道をいくつか曲がり、青年は迷うことなく和風な風情もある、古そうなラブホテルへ入った。とは言ってもここいらのラブホテルの古さは、どれも同じくらい区別がつかないほどであった。
 受付の老女と顔なじみのようだ。挨拶のような会話をしている。青年がお金を支払うとまた別の老女がやって来て、擦れた赤い絨毯の階段を先導し、部屋へと案内してくれた。

 特筆すべきことのないごく普通のセックスをした。それでも青年は、気持ちいいだろうとか自分本位のことは言わなかったし、あそこに舌を入れたりしてくれた。青年が私の方の枕の下側に腕を投げ出して「おいで」と言う。恒例の腕枕だ。
 私は日頃から、腕枕はお互いにいいことがないと思っている。腕を差し出す方は後で痺れたと言ってくるし、頭を乗せる方もそれほど良い心地ではないのだ。それでも腕枕に誘ってこなかった相手を思い出すと、失礼な嫌な奴ばかりだったので、腕枕があると安心してくっつくことにしていた。
 青年はまた他愛のない話をしている。私はそれをほとんど聞かずに眠ってしまい、気付いたら朝になっていた。起きた私に青年は、
「眠ってる時に指入れたんだけど、わからなかった?」
と言ってきた。全く覚えのない私は「うん」と言いながら、すぐ眠ってしまったことや、気づかなかったことを申し訳なく思った。
 洗面台に二人並んで歯みがきをした。私は裸にバスタオルを巻いていたのだが、タオルがずり落ちて乳首が見えているのを鏡越しに気が付いて、恥ずかしくなって青年に微笑みかけながらタオルで胸を隠した。青年は私と目が合ったのに難しげな顔をして歯を磨き続けた。

 ホテルを出ると、午前中の陽光特有の清々しさに街が満たされていた。ラブホテル街の外壁の薄汚さすらも、許されているように堂々としていた。
 青年は一度父親の住む所へ行くと言う。私はまた昨夜とは違った景色が見られると、機嫌良く付いて行った。それは全く期待通りで、車のクラクションや、人々の忙しそうな往来はとても愉快であった。川沿いの整備された歩道を歩き、この美しい場所で寝泊まりしても素敵だろうと考えていた。

 青年の父親の住まいは、驚くべき狭さであった。こんなに物の詰まった狭い空間に寝泊まりできるなんて、こういうところも悪くないと思った。少し物をどかせば、窓もあったかもしれない。ここにあるものは何故か色に統一感があった。ベージュ色の物が積み上げられ、床も天井も、住人のおじいさん、父親と言っていたけれどおじいちゃんぽい、もベージュであるし、着ているランニングシャツやステテコも同じ色であった。私を見ておじいさんは慌てていたので、私だけ外で待つことになった。
 結局、彼がここに何をしに来たのかわからなかった。あまり話し声もしなかったし、何か物を持ち出している様子もなかった。あのおじいさんからお金を取るのは、たとえ息子でも酷いことだ。
 またぶらりと散歩の続きになった。青年は私に「いくら持ってる?」と聞いてきた。お財布の中に一万円札が一枚あったので、それを渡した。受け取った青年は言った。
「パチンコやったことある?」

 午前中が昼間になるのは残念なことで、朝の人々よりも昼間の人々は少し疲れはじめていて、見ていてつまらない。そこにきて新しい所へ行けるのだというので嬉しくなってきた。
 様々な場所で、パチンコ屋前の歩道に停めてある自転車が押し迫り、狭くなっている所を何度も歩いたことがある。自動ドアが開閉する度に冷やされた空気が頬を撫で不思議な匂いがする。シャカシャカと建物全体で音を出し、みっちりと鈴でも付けているかのようだ。子供は入れるのかなと心配になったのだが、青年が付いているのならばきっと平気なのだ。
 青年のおかげで私はパチンコ台の前に座っていた。座った場所で玉を買えるようになっている。こんな下世話な雰囲気なのにすごく近代的だ。最初青年がやり方を教えてくれた。彼から受け取った千円札を飲み込ませるとすぐに銀の玉がじゃらりと吐き出されてくる。勢いよく玉が出てくるのに、受け皿はコンパクトながら、こぼれ落ちないようになっていた。これほど考え抜かれたデザインは見たことがないような気がする。ここに居る冴えない大人たちは、これを当たり前だと思っているのだろうか。こんな人達には勿体ない叡智なのではなかろうかと思ったのだが、当然のように次々とお札を飲み込ませている様子を見ると、冴えない振りをした凄い人達のように見えてきたので、反省して自分のパチンコに集中することにした。
 やっていることははっきり言ってつまらなかった。べたつくような、ダイヤルだかスロットルだかに手を添え続けているだけなのだ。そのうちに目の前の台がピカピカと光り、妙なリズムで歌い出したので困っていると、いつの間にか亡霊のような男の老人らに取り囲まれていた。こんなに見てくるなんてとても失礼だと思う。青年は私の斜め後ろだ。何が起きているのか聞きたいのに、この異常事態に中々気付いてくれなかった。やっとやって来た青年に辞めたいと告げて私は解放された。私のいた場所に、亡霊の一人がすかさず座っていた。私は青年にここを出たいと言った。

 活気のある大きな商店街を二人で歩いていた。青年が一万円札を数枚見せてきて、「いる?」と聞くので、持ってて欲しいと言った。
 青年が何か食べたいと言った。昨晩から何も食べていないのに、不思議とお腹が空かない。新しい土地ではよくある事だ。景色でお腹が膨れるのかもしれない。とにかく初めてのことが多くて楽しい。
 定食屋に入りカツ丼を食べた。食べると美味しいから、お腹は空いていたのかもしれない。青年は店の公衆電話からどこかに電話をかけていた。今日は青年の友人宅に泊めてもらうと言う。その友人はすぐに仕事に出かけるそうで、その前に部屋へと行くことになった。

 その部屋は、 二、三駅移動した住宅街の中に建つ、小綺麗な白いタイルのマンションの七階であった。銀色の扉のエレベーターも付いている。その人は色白の、私と同じ背丈ほどの男の子だった。青年より二つ年下だという。彼は割烹料理屋で修行中の身の上だった。怖い人ではなさそうで私はほっとした。
 挨拶もそこそこに男の子は出かけて行った。シンプルなワンルームマンションだった。ベランダに出て外を眺めると、高さはあるのに似たようなマンションや、灰色の屋根瓦ばかりが見える。下の道路は狭く人通りもないので、私はがっかりした。
 からりとガラス戸を開けて中に入り、フローリングの上の丸いクッションの上に座った。長めのスカートの中に膝を入れて気分を落ち着かせる。
 青年が四つ足で床を移動し、わたしに身体を寄せてくる。Tシャツの中に手を滑り込ませ、ブラジャーの背中の留め具を片手で器用に外した。私の胸を撫でたりもんだりする。二回目だし私はあまり面白くなくて、「やだ」と拒否をした。一度言っても青年は聞かなかった振りをするのだが、言う前よりも胸を揉む手に力がこもり、もう片方は急ぐようにスカートの中の足の付け根を目指しているので、きちんと聞こえていたのがわかる。「いやだ」と言って身をよじらせると、青年は私を触るのを止めた。「どうしたの」と言ってくる青年に疲れたから眠ると言い、クッションの上に横になった。青年はテレビを見始めて、私はそのまま眠ってしまった。
 
 「ずっと寝てるんだよ」「病気かな」「どっから来たんだって?」「さぁ」「金持ちのお嬢だったりしてな」
二人が小声で笑っている。二人が背後で話す声をいつの間にか聞いている自分に気付く。ぼんやりとしながら、標準語を話せる人がその気になったら、関西人を騙せるのではないかななどと考えていた。関西に来てから、普通に話しているだけで何故だか相手は、こちらのことをお金持ちの一人娘と思い込むのだ。そういう人たちからは大抵「お嬢、お嬢」と呼ばれ、可愛がられることが多かったので、こちらは得しかしていないのだが、短絡さには呆れる。
 「やった?」「ああ、でもまだ一回だけな。さっきやだって言われてさ。お前やったことあんの」
そこで男の子が照れ笑いをする声が聞こえた。
「触ってみ」
青年が言う。二人が近付く衣擦れの音と、フローリングを擦る音がする。私は困ったなと思っていた。ここで起きたら、男の子が恥ずかしく思ってしまうだろうし、こちらも同じだ。
「ほらここら辺」
と青年は私のTシャツの後ろ側の裾を持ち上げて、テントを作った。
「こんな感じでさ」
と青年が手本を見せるように手を入れてくる。外されてそのままだったブラの上から胸をさわるので、モゾモゾとした感触だ。ますますどうしたものかと目を瞑ったまま横になっていると、再び背中側から手が侵入してきた。急に乳首を触られたので身体が少し動いてしまう。
「わお」
と男の子が言ってすぐさま手を引いた。くすくすと笑っている。私はやはりまだどうしたら良いか分からず、寝たふりをしなければと、「んー」となるべく寝ぼけているような声を出して背中を丸めた。どちらかが上から顔を覗き込むような気配がし、それは青年の方だったようで、「止めよう」と言った。
 その後も寝ているとした体裁上、横になっているしかやることもなく、そのまま二人の他愛のない会話を聞いたり、テレビの音を聞いたりしていた。またしてもそのまま寝てしまった。
 その部屋にはユニットバスが付いていた。男の子は綺麗好きなのか、ここにやって来た時は髪の毛一本落ちていなかったのに、私が過ごすようになってから、長い髪の毛が落ちてしまっている。クリーム色の床に黒い髪の毛が散らばり嫌な感じだ。ティッシュで集めようとするけれど、いくらやっても何故か全てを拾いきれない。私は諦めて匙を投げてしまう。それでもこんなに掃除をしたことがなかったので、少し働いた感じがしてまた眠ってしまった。
 ここに来てから、どこへも行かず食べずに寝てばかりいる。青年は昼間、何処かに出かけていることが多い。男の子はお昼頃に仕事に出かけていく。大抵、夜遅くに二人で帰ってくるのだ。私はやはり床で寝ており、二人の話し声で目が覚めたりする。昨晩、ユニットバスの髪の毛のことについて男の子が不満げに話していた。「掃除の仕方知らないのかな」「お嬢だからな」とか言いながら笑っていた。今日こそは髪の毛一本残さずに拾わなければ。

 一人で帰ってきた男の子が、ご飯を買ってきてくれた。私はお礼を言ってクッションの上に座り込んで、パックに入ったお好み焼きを食べる。焼きそばが生地に包まれており、上に目玉焼きが乗っていた。男の子は私のクッションに座ろうと、体をくっつけてくる。男の子は私のことが好きみたいだ。会ったばかりなのにどうして好きになれるんだろうと私は思う。セックスをしたいだけかもしれないけれど、させろとかしようとか言ってこないから、そういうわけでもないのかもしれない。体を寄せてこちらの顔を見つめてくる男の子に知らんぷりをしながら、私は食べ続けていた。
 後から帰ってきた青年が、
「明日、人に会うからな。仕事見つけてきてやったよ」
と言ってきたので、出かけられるとわかった私は嬉しくなった。
 
 お昼前に青年と部屋を出た。この前散歩をした大きな商店街のファーストフード店で、面接の人と待ち合わせだと言う。人もまばらな店内でコーヒーを飲みながら待っていると、くたびれた顔と服の大人がやって来た。学校で若い先生と認識されている人よりももうすこし年取った感じだ。二十五歳?三十歳?、おじさんになりたてな感じだ。でももっとおじさんの人も知ってるから、おじさんと言ったらこの人は傷付くかもしれない。
 おじさんが来ると青年は「終わったら来るからな」と言って店を出ていった。
 おじさんは「十八だよな?」と聞いてきた。私は違うけれど「はい」と答えた。もともと年より下に見られることが多いのですぐに嘘が見破られると緊張していたのだが、おじさんは気にしていないようだった。
 おじさんは仕事がいくつかあり、説明すると言う。
「リップサービスって知ってる?」
咄嗟に私は褒める事、と想像してしまったけれど、そっちじゃないやつだ。「はい」と答えるとおじさんは、「まずお客さんが入ってきたら…」「あなたは跪いて…」とお仕事の流れのようなものを説明している。こちらの様子をうかがうように話してくるから少し落ち着かない。リップサービスのお仕事を話した後に、
「例えばあなた、僕のも舐められる?」
と聞いてきた。私は別にいいけどと思いながら、脈絡の無さに気持ち悪さを感じていた。なので何も言わずにおじさんの顔を見つめていると、ニヤついているような下卑た顔つきだったのが、ぎこちないような照れ笑いのようになった後で目を逸らし、他の仕事は、と手を使うお仕事の話を始めた。
 「これはだいぶ年上の女の人がいるからびっくりしないで欲しいんだけどね」などと前置きをしている。私がびっくりしようとしまいと、なにか問題でもあるのだろうか。聞けばお客さんが壁の穴にペニスを出して、壁向こうで奉仕をすると言うシステムのようだったから、お客さんならびっくりした場合には、上手く気分が乗らない事もあるかもしれない。わざわざびっくりするぞと言ってきたようなものだから、老女ばかりが働いているということなのだろうか。
 さっきの照れ笑いといい、下手くそな説明といい、このおじさんはいつまでも下っぱのいい人なのだろう。最初のくたびれた印象よりはだいぶいい。
 次におじさんは「覗き小屋って知ってる?」と言う。「ガラスのある部屋でね、音楽に合わせながらこう…」とくたびれたジャケットを脱ぐ仕草をしながら、少し体をくねらせている。私は「パリ、テキサス」を思い出していた。かつて一時期滞在していた牧師さんの家でこっそり観た。ナスターシャ・キンスキーが付いていた職業だ。
 おじさんにどれがいいかと聞かれた時に、迷わず覗き小屋と答えた。働くのは初めてだと言うと、「じゃあ今晩とりあえず見物しようか」と言ってくれた。
 おじさんは携帯電話で誰かと話し、そのうちに青年が帰ってきた。おじさんとの別れ際に青年はありがとうございましたと頭を下げている。私が子供だから仕事を見つけるのは大変だったのだろう。私には「じゃあまたね」と言って、手を上げて背中を向け、去って行った。
 店を出て屋根付きの商店街を二人で歩きながら、私は青年に覗き小屋の事と「パリ、テキサス」について熱く語っていた。青年はどこか上の空で、顎の剃り残しの髭をいじりながら、いかにも適当に相槌を打ってくるので、わたしはつまらなくなって、商店街の古くさいショーウィンドウを興味深く眺めていたりした。
 もはや曇りガラスとなっているガラス越しに、アンティークな時計が、僕は生まれたばかりの時に此処にやって来て、ずっと住んでいるのだと言ってくるのを聞いていると、
「一人で帰れる?」
と背後から青年が言ってきた。用事があると言う。二千円寄越したあと、人出が増え賑々しくなった商店街の雑踏へと消えていった。

 帰ってもいいし、帰らなくてもいい。自由な感じが嬉しくなって、私は足取り軽くそのまま商店街を通り抜け、街をぶらついていた。大きなビルの一階に不動産屋があった。店頭のガラス一面に物件のチラシが貼ってある。そのうちにあの部屋も出ていかなくてはと思っていた。仕事を続けたら部屋を借りたりできるだろうか。チラシを見るとワンルームでもびっくりするくらい高い。私が手にしたことも無い金額だ。不動産屋のこういうチラシは本当は無いやつなんだと言っていた人がいたっけ。ボロくてもいいから安いのってないのかな、と眺めていると、店の引き戸が開き、眼鏡をかけた背の高いグレーのスーツの青年が顔を出しこちらを見た。
「部屋を探してるの? 中に入ったら?」
お金が無くて絶対に借りられないしと戸惑っていると、「ほら、おいで」と中に入るよう促してくる。私は気乗りしないままに中に入った。
 中に入るとカウンター代わりのように長細いテーブルがあり、向かい合わせに折りたたみのパイプ椅子が一脚づつ置いてあった。椅子の向こうは家の玄関のような段差のある上がりになっている。靴を脱いで上がるのだろう、スリッパが上がりの上に二足並べられている。上がりの先はそのまま廊下となっており、右手に階段があり、踊り場でくるりとさせて、その先も階段だ。左手には扉が幾つか並んでいる。飾り気がなく殺風景だ。ビルの大きさの割には狭い空間に戸惑い、気を取られていると、眼鏡は引き戸側の椅子を私に勧めた。どうしても落ち着かない私は座りながら、テーブルの上のパソコンやプリンターを見て安心しようとした。何かあったら、パソコンが私の危機を世界中に知らしめ、プリンターがSOSの文字を吐き出すと期待する。
 向かいに座った眼鏡は「仕事はしてるの」と言う。つい先程決まったばかりなので自信と共に「はい」と答えた。「どの辺がいいの? 駅の近くとか?」全く考えていなかったことなので、自信はすぐさまいなくなってしまった。眼鏡が差し出してきた、チラシを綴じ集めてあるバインダーをめくりながら、いつどうやってここを出ていこうかと考えていた。眼鏡は、
「困ってるんでしょ」
と言った。出ようと思ってバインダーから顔を上げると、眼鏡はいつの間にか靴を脱いで上がりに立っている。意外な場所にいる眼鏡を私はぽかんと見つめていた。
「おいでよ、いいものがあるよ」
一見真面目そうなのに、その表情には神経質そうな揺らぎがある。いいものがあると言っておきながら、そのいいものの説明をしないなんて、いかにも怪しいではないか。薬でも打たれるか、服でもひん剥かれるのではなかろうか。
「早く上がって」
眼鏡は体を斜めに構え、こちらに来いと仕草でも誘ってくる。絶対に行く気にははなれないものの、被食者の硬直で動けずにいると、引き戸が開き、外からでっぷりとしたおじさんが入ってきた。私たちの様子を見比べて眼鏡に聞く。
「どうした」
「こちらの方が部屋を借りたいと仰って」目上の人なのだろう、眼鏡の態度が慌てている。
「お嬢ちゃん、ちょっと待ってな」
私に声をかけてサンダルを脱いで上がりにあがった。おじさんは濃紺のダブルのチョークストライプのスーツを着ており、いかにも不動産屋のおじさんという感じだ。上がりのすぐ脇にある、扉のある部屋に眼鏡と入っていった。
 出ていくのなら今なのだが、おじさんの態度が親切な感じだったので、そのまま姿を消すのは失礼なように感じて、そのまま椅子に座って待った。
 それほど待たなかった気もするが、それでも五分くらいは経っていたかもしれない。部屋から出てきたおじさんが、向かいにどっかりと座った。眼鏡はまた上がりから、こちらを見下ろしている。眼鏡が言った。
「こっちにおいで。いいものがあるから」
私はまだ言うかとびっくりして、眼鏡と目の前のおじさんを交互に見て、どういうことなのか二人の表情から答えを探していた。おじさんは分厚い瞼から見返してくるばかりで、何を思っているのかよく分からなかった。
 私が困って何も言わないでいると、おじさんがこちらを見据えて、大声で言った。
「お嬢ちゃん、帰りなさい」
眼鏡を見ると少しがっかりした顔をしている。二人で賭けでもしていたのだろうか。
すっかり再び硬直していた体をどうにか動かして、立ち上がった。
「ありがとうございました」
と言うと、おじさんは、
「はい、お嬢ちゃん、気をつけてね」
と相変わらず座ったまま私を見送った。
 おじさんと眼鏡のせいで私はすっかりくたびれてしまったので、帰ることにした。
 
 部屋に着くと青年が帰っていた。そういえば部屋の鍵を持っていないし、誰もいなかったらどうしようかと考えていたのでほっとした。青年に今日は何時に行くのと聞くと、「あれは今日はなしになったんだ」と言ってきた。それなりに楽しみだった私はがっかりした。
「あいつ明日休みなんだよ。デートしてやってくれる?」
直接言えばいいのにと、内気で真面目そうな男の子を思い浮かべる。一度寝た仲である青年を通すのが筋、みたいなことなのか。ともあれ明日も外に出かける用事が出来て私は嬉しくなった。
 その夜帰宅した男の子にどこか行きたいところはあるかと聞かれた。わからないと答えると、「じゃあ任せて」と嬉しそうに街の情報誌のような雑誌をめくっていた。
 私はデートは初めてだった。男の子の方は分からないけれど、嬉しそうだったし、あまりしたことがなかったのかもしれない。何度か電車を乗り換えて、有名観光地であるお城を見に行った。私はそういう所よりも、街とか人が沢山歩いているところを見るのが好きだったけれど、男の子は楽しんでいるようだった。占いのガチャポンがあり二人で一回づつ回した。二人で小さな紙に書いてあることを読み、笑い合った。私は男の子が長いまつ毛を持ち、女の子のような綺麗な顔をしているのに気が付いた。ガチャポンの後、男の子は私の手をつかまえて、引くように先導して歩いた。お城は敷地が広く、全てを回ろうとしていると、平日で空いているとはいえ、がらんとしたアスファルトと高い壁には飽き飽きしてきてしまった。
 お城を出てどこかでランチを食べようということになった。歩きながら私は男の子に、青年は普段何をしているのか聞いた。「あいつなんて言ったの」と言うので、「産業スパイ」と答えると、ケラケラと笑っていた。男の子の笑い方からして、スパイじゃないのか、なんて思った。二人は中学生の時の先輩と後輩だったらしい。男の子が色んな馴れ初めを披露しているのを聞きながら、私はナスターシャ・キンスキーの色っぽい肢体を思い浮かべていた。
 お城を歩きすぎたおかげで、遅いランチとなった。以前、遠い親戚だという知らない夫婦と、ファミレスでドリアを食べたことがあったのだが、それをまた食べることができて感動した。その時よりも断然美味しかった。その感動のまま、どこか街を散歩したりしてみたかったが、男の子は帰るようだ。夕方に染められ、街灯が点きはじめたりしてきっと綺麗なのにと、わたしは残念に思う。
 部屋に帰りクッションに座っていると、また男の子が隣にやって来て体をくっつけて来る。私は困って下を向いていた。何かをしてくれば反応のしがいもあるのに、知ってか知らずか、自分の息遣いを私に聞かせているだけなのだ。帰宅時に薄暗かった部屋は、段々と夜の部屋となり、男の子は諦めてすぐそこのベッドに身を投げ出した。そのまま布団を頭まですっぽりと被って横になったので、私も床に身を横たえた。少し涼しく、鼻をすすると、その音を聞きつけた男の子が、がばと上半身を起こし、
「どうして泣いているんですか」
と強く言ってくる。「泣いていないけど」と答えると、また布団を被って横になってしまった。わたしもそのまま目を瞑った。

 青年は朝部屋にやって来た。顔に怪我をしていた。今日から他のところに泊まるから、荷物をまとめておくように言われる。男の子は気まずいのかもしれないけれど、いつもたいして喋らないので、あまり変化は感じない。荷物をまとめて出発を待った。青年が男の子にお礼を言っている。私はユニットバスに髪の毛が落ちていないか気になっていた。見に行っていると、男の子が青年に二人きりにしてくれと言っているのが聞こえた。
 青年は「すぐ来るからね」と部屋から出ていった。男の子と対峙する。男の子は言った。
「キスしていいですか」
そう言って私の返事を待っている。
 
 この男の子とキスしたりセックスしたりするのは嫌じゃない。しかし、私は脈絡が無いことが苦手だった。
 
 連れられて行くホテルで、アダルトビデオを見たがる男性は多い。彼らは私もそれを見ることを望む。どちらかと言うと、アダルトビデオを見ている私を見てくるので落ち着かない。それを見て私に淫らになって欲しいらしいのだ。しかしアダルトビデオの展開はたいてい脈絡がなかった。取ってつけた展開に棒読みの俳優。見ていてもつまらないものだから、早送りもされる。そのせいでますます脈絡は蹴散らされ、絡みのシーンとなる。お約束の展開なのだからと男性達は気にしない。対してこちらは、男女の絡まりを見ていても、脈絡が無い所為でなんの気も乗らないのに、私は求められているものを感じて気疲れしてしまう。
 脈絡さえちゃんとしていれば、私は誰とでも肌を合わせられると思う。だって行為そのものは誰としようと、唾を飲んだり皮膚を擦り合わせたり、たいして感触は変わらない。その人の個性が出るのは、どうやって脈絡を作るかなのだ。
 その脈絡の中にはホテルであるというのも含まれるのかもしれないなと、私は今更ながらに気付く。道理でここでは何もやる気が起きない訳だ。どうせなら昨日のデートの時、ホテルに連れて行ってくれたら良かったのに。
 私は質問に困って下を向いていた。そうしているうちに青年が戻ってきた。男の子の顔を見ると、どうしてとか何故とか聞きたそうな目でこちらを見ていた。青年が私のバッグをまた当然のように持ち、肩に引っ掛けた。「またな」と青年が男の子に言う。男の子は「じゃ」と手を上げた。靴を履き、青年の後を付いて部屋を出ていこうとした時に、去り際の腕をつかまれた。
「握手しましょう!」
と思い切って言ったような様子で右手を差し出してくる。私は男の子の手を握った。男の子がぎゅうと握り返してくるので、なんだか可笑しくなって照れたように笑ってしまった。男の子は「また来てくださいね!」と言った。
 
 青年としばらく電車で移動して、大きな街から離れているのが感じられる。
「知り合いの店で働くことになったから」と言われた。覗き小屋はどうなったのか。もし行かないのなら、残念な事だ。
 そのお店に行くまでには時間があると青年は言った。二人で散歩をして過ごす。住宅しかなくてつまらない景色だと思いながら歩いていた。自販機の飲み物を飲んだり、公園のベンチに座ったりして時間が過ぎるのを待った。
 
 そのお店は住宅街の片隅の、上がアパートになっているビルの地下にあった。カウンター席が数席のちいさなスペースだった。カウンターの向こうの棚に、色んなお酒が所狭しと並んでいるのを見て、ここのお仕事はホステス業なのだと気付く。ここのママはふくよかで肝の座った感じの人だった。着物を着ていて、帯の辺りがこちらにせり出して来ていた。青年はママと親しげに話している。その後、そのママに私を預けるように青年は店を出ていってしまった。
 ママがお酒は飲めるのとか、煙草は吸うのと聞いてくる。私はあんまりお酒は飲めない、煙草はたまに吸うと答えた。するとウーロン茶をご馳走してくれた。ウーロン茶を飲みながら、ママが「カラオケは好き?」「演歌とか歌える?」と聞いてくるのを、「ううん」と首を横に振るしかないのを申し訳なく思っていた。
 カランとドアベルを鳴らして、「おはようございます」と言いながら一人の女の人が入ってきた。ふくよかだけれど、お化粧の綺麗なお姉さんといった感じの人だった。ふわふわとしたラメ入りピンクの薄手のセーターに、栗色のふわりとカールした髪が鎖骨の辺りに乗っている。ピッタリとした革か合皮の黒のタイトスカートが窮屈そうだ。ママが「この子、新しい子なのよ」と言うと、お姉さんはチラリとこちらを見た。お姉さんが「お化粧してる?」と聞いてくる。私はまたしても「ううん」と首を横に振る。「口紅持ってる?」と聞くので色つきのリップクリームをカバンから取り出して見せた。塗ってごらんと言うので、なるべく濃く色が着くように唇に強く押し付けて塗った。私の顔をしばらく見つめたお姉さんは、何も言わなかった。私は少し恥ずかしくなった。
 またカランとドアベルが鳴った。日焼けをした岩みたいなおばさんが入って来た。さっきのお姉さんと違って、あまり考えられていない服装で、お化粧も黄ばんだ肌に赤い唇がちぐはぐな感じだ。傷んでいそうな金髪は、パサパサと頭上に散らばっている。「おはようございます」と言って、ママやお姉さんと会話をしている様子からして、このおばさんも、ここのお店のホステスなのだと気付いて驚いた。このおばさんにお客さんなんて付くんだろうか。それか見た目が凄いから、面白くて見に来るのかもしれない。ママが先程と同じように紹介をして「今日は見学なのよ」と言った。それを聞いて、そうか今日は見れてば良いのかと、少し気楽な気持ちになった。岩のおばさんは「そう」と、いかにもシワ模様のある、硬い岩肌を持つ人が出しそうなダミ声で、煙草の煙をくゆらせながらこちらを見てくる。煙草の煙を纏っていると、岩おばさんは意外なことにホステス然としているような気がする。とは言ってもホステスをこんなに近くで見たのは初めてだったけれど。
 この日、このお店にお客さんは二人しか来なかった。二人ともお姉さん目当てのようだった。二人のおじさんはどちらも、私を興味深そうにじろじろと見てきた。ママが「見物なのよ」と言うと、また最初からじろじろをやり直してくるので、緊張してしまった。見物というのは、されるのも含まれるのだと悟った。おじさん達は私が子供過ぎて驚いたのか、何も言ってこなかった。二人とも似たような雰囲気で灰色っぽかった。
 お姉さんはカラオケで演歌を歌った。これがものすごく上手くて、このお姉さんはこの仕事が天職なのだなと思った。あんまりびっくりしてどうしても褒めたくて、緊張しながら「お姉さん、歌い手さんみたい。すごいですね」などと声をかけてみた。歌手と言えば良いのに、何故か慌てて、うたいて、なんて変なことを言ってしまった。お姉さんは「そんなことないのよ」と、とても控えめで上品に笑う。私も演歌を覚えなくちゃならないのかなと憂鬱になる。演歌なんて聴かないし嫌いだ。
 岩おばさんはカウンターの片隅で、お酒を飲んだり煙草を吸ったりしていた。
 おじさん達はそれぞれ入れてあるボトルのお酒を少し飲んで、一曲歌って後は静かに飲んでいた。ここの三人は、積極的に話したり、ニコニコと笑ったりしていなかった。こういう夜のお店はもっとうるさくて、ホステスはしなを作るものだと思っていたから、意外だった。私はちょっと拍子抜けしたものの、居心地は悪くなく、カウンターのスツールで足をブラつかせながら、ウーロン茶の氷が溶けて水になったのを、ストローで音が出ないように気を使って飲んだりしていた。
 おじさん達は、ここへ来た順番通りに、のんびりと帰って行った。「早めだけど閉めようか」とママが言い、私を見て
「あんたこの後どうすんの」
と聞いてきた。私はてっきり、青年が迎えに来るものだと思っていたのでそう伝えると、「じゃあ時間まで待とうかね」と言ってコップを洗っている。なにか手伝おうかと、カウンターの中のママに近付くと、ママは「いいんだよ。座ってなさい」と言う。お姉さんと岩おばさんも帰り支度をせずに、カウンターでお酒を飲んだり煙草を吸ったり、今までと変わらず過ごしている。
 四時になっても青年は店に来なかった。三人はタクシーのことなど話しはじめた。お姉さんは「どこに住んでるの」と聞いてくる。私は困っているのを悟られないように、とりあえず男の子のマンションの、うろ覚えの地名を伝えてみた。タクシーにはお姉さんと二人で乗って、お姉さんは先に降りるらしかった。ママと岩おばさんはここから近くに住んでいるのだろう。ママは私に一万円札をくれた。交通費として五千円札をお姉さんに渡す。シンプルなブラウンのカバンからブラウンの市松模様の長財布を取り出してお札をしまっていた。私はカバンを抱えて帰る二人に付いて行った。「また明日ね」とママは言った。私は「はい」と頷いて、カランと店を後にした。
 
 「ここではつかまらないから、あっちまで行くわね」とお姉さんは言って、ここの小道からほんの少し切り取ったように見える、明るくて幅の広そうな道路に向かって歩きはじめた。
「あんた、ちょっと!」
背中から岩おばさんが声を掛けてきた。振り向くと腰下まで長いTシャツの半袖から、骨ばった両腕をぶらつかせて煙草を片手に煙を纏っている。私は昼間にこの人を見たらもっとすごいんだろうな、なんて思ってしまう。私がそちらに近寄ると、岩おばさんも、先の尖った踵の低い黒のパンプスで、ザリッとアスファルトを鳴らしながら、二、三歩こちらに近付いた。岩おばさんはギラリと力強い視線で、私の目を捉えて離さないようにしてから言った。
「明日も来るね?」
そんなに刺すように言われては、今まで岩おばさんのせいで来なくなった人が沢山いるんじゃなかろうかなんて考えながら、私は「はい」と答えた。
 
 お姉さんは待つことなくスタスタと明るい道路の方へと歩いていた。私は小走りでかけて行き、お姉さんに追いついてから、振り向くと岩おばさんは棒のような足を肩幅に開き、まだこちらを見ていた。私はぺこりと頭を下げて見せたけれど岩おばさんの様子は変わらなかった。見送るというよりも、私が本当に明日も来るのかどうか見張っているみたいだ。岩おばさんのことは考えないようにして、お姉さんに付いて行くことに集中することにした。お姉さんが鳴らす靴音はあまり響かなかった。もう夜じゃなくなっているからかもしれない。新聞配達のバイクが通り過ぎるのにつられて、後ろを見てしまった。岩おばさんはいなかった。
 片道三車線の街道は、思ったよりも車が走っている。トラックとタクシーばかりのように見えた。お姉さんはすぐにタクシーを停めた。お姉さんが私の行き先と途中で降りる場所も告げるとタクシーはするすると街道の流れに乗った。私は車の窓ガラスに映り込む、滲んだオレンジ色の街灯が動いたり止まったりするのを眺めていた。
 タクシーはお姉さんの指示で大きな街道を曲がり、しばらく走った後、信号手前の横断歩道で停車した。お姉さんは膝の上のカバンから、長財布を取り出して五千円札を私に寄越した。
「お釣りが出ると思うから、口紅も買いなさいね」
私は、ちゃんとした口紅は何色がいいのか、どこで怪しまれずに買うことができるのか知りたかったが、そんなことを聞いては変だろうかと迷ってしまい、そうしているうちにお姉さんは車から降りてしまった。タクシーはパタンとドアを閉めて走り出す。
 
 走り出してから、タクシーに一人で乗っているなんて初めてだと気付いた。大人みたいなんて思っていると、運転手のおじさんが話しかけてきた。
「お嬢ちゃん、友達の家に遊びに行って遅くなっちゃっただけなんだよね? 普段はこんなことしないんだよね?」
などと言う。急に色々と決めつけられてびっくりしてしまった。せっかく大人みたいにタクシーに乗っていたのに、がっかりさせられてしまったけれど、おじさんの言い方がなんだか切実に訴えているように感じられ、「はい」と言っておいた。このおじさんには不良娘でもいて、夜遊びをよくするから悲しんでいるのかもしれない。

 適当なコンビニのある角でタクシーを降りた。運転手のおじさんは、あれから何も言わなかった。もっと人が歩く朝になったら、あの大きな駅を目指すのだ。水を買い、店の前でどちらに歩いていこうか決め手を探す。コンビニの背面の川に掛かる小さな橋が見えた。
 橋から下を覗き込むと両脇に草が鬱蒼と生えていた。草間から細い小川が水面を覗かせている。草だらけで水がどちらに流れているのかもわからなかった。橋を渡りきった先の川沿いに、丸太を切ったような椅子が幾つか配置してある小さなスペースがあった。丸太に座ってバッグを地面に置き、水を飲んだ。
 コンビニの方を見ると、ちらほらと仕事に向かうような大人が歩いている。両足を投げ出して踵を地面の砂利に押し付け、つま先を左右に動かすと砂利が音を立てた。それに交じって聞き馴染みのないか弱い高い音がする。砂利に目を凝らして見るけれど、ごく普通の小石に見える。またか弱い音が聞こえ、地面のカバンを見ると、背中側の草の茂みからはい出てきたのか、オレンジ色の子猫がバッグの近くに身を寄せてうずくまっていた。こちらを見上げてミィと声を出した。よく見ようとバッグをずらすと、子猫も頼りなげな足取りでそちらに移動して、バッグの影が落ち着くのかそこでうずくまる。毛並みの悪い背中を触ると身を硬くして震えているのがわかった。こんなに小さな子猫は、見たことがあったっけ。昔飼っていた子猫はもう少し大きくて、しゃんとしていた気がする。バッグを開けて財布とTシャツを取り出した。「待っててね」と声をかけてバッグと子猫にTシャツを被せた。立ち上がりコンビニへ向かおうとすると、ミィミィと鳴きながら子猫がTシャツから這い出してくる。砂利のスペースと川の土手の間に障壁がないのを見て、私は子猫をTシャツでくるみ、バッグを大きく開け、中の衣類をファスナーの留め具側にギュッと寄せた。子猫に窮屈そうだったので、シャツとスカートをカバンから取り出し、くるまれた猫をそっと入れた。ファスナーを半分まで引き、子猫が見えるようにした。
 コンビニに入る時はシャツとかスカートとか、かけて隠せば良いだろう。ツナ缶でも買って一緒に食べよう。そのあとで、覗き小屋を探すのだ。
 私はこの猫と暮らすことに決めた。

 
   

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