彼女の手

 彼女の手は何かを掴むためのものではなかった。ただ美しく曲げ伸ばしをし、私を魅了した。何かを持つ時には大層難儀な様子を見せ、細い手首は悲鳴を上げているように見えた。

 彼女とはよく視線を絡ませている。こちらが先に見つめてしまうのだけれど、それに気づいた彼女はいかにも「ん?」と言う風な屈託のなさそうな目付きで見返してくる。
 彼女は一人でいる事が多い。しかし誰かから声が掛かれば何の気なしに様々なグループに混ざり込んでいた。その内に私の属する主婦グループの明るい性格の朗らかさんが彼女を気に入ったのか、よく共に一つテーブルでお昼ご飯をを食べるようになった。
 彼女は自分から口を開くことは無い。私もさほど喋らずにそのグループで食べ物を口へ運び続ける。
 そのグループはちょっとうるさ型の人が話をリードすることが多く、何か発言をすると地雷を踏みそうで面倒臭いのだ。一度ここの面子からボーリングに誘われて子供を連れて行ったら、うるさ型はあまり話し掛けて来なくなった。

 私はいつもの如く彼女の手に目を奪われる。彼女は食べる時は左手で箸を持つ。書く時は右手だ。トマトチリのカップヌードルをよく食べている。常に食べる前に箸を一本づつ両手で持ち、麺をすくい上げて何度か上下させて麺を冷ましている。それすらも彼女は指を下にしならせ、懸命に持ち上げているように見えた。うるさ型と朗らかさんが横目でいつもそれを咎めるようにチラリと見るのだが、彼女は気づいていないのか気にすることはない。
 そもそもあまり地雷など気にしていないようにそれを踏む。朗らかさんが夫の愚痴を明るい調子で話す。
「うちの旦那が納豆食べる時に最後に味噌汁かけるのよ、あれが嫌でさぁー」
「あ、あれ美味しいよねー、私もやるー」
といった具合に共感能力の低さを見せる。その後味噌汁で納豆のネバネバが取れることを力説していた。

  ある時にどういう流れだったろうか、彼女が朗らかさんに話を引き出されて、朗らかさんは引き出し名人で私の中では危険人物だ、夫と喧嘩をした話をしていた。
「私、口喧嘩じゃ負けちゃうもん」
言う言葉の語尾が弱々しく哀れが悪目立ちをしている。彼女は今言ったことをきっと後で恥じるだろう。そんな彼女を見付けて私は嬉しくなってしまう。
彼女は人が良すぎるのだ。聞かれたことには答え、探られても相手を責めず受け入れてしまう。この間など朗らかさんに操られ、免許証まで見せていた。私は姉のように母のように叱りつけたくなる。

  今の仕事は医療品の検品で、広いフロアーに横長のテーブルがいくつも並べられており、好きな場所で仕事をすることが出来る。彼女はいつも一緒にいるような相手がおらず私はたまに向かいに立ち、彼女の折れそうな指を眺めながら仕事をするのが好きだった。そうして私から話しかけていた。そのうちに彼女も警戒心を解いて話しかけてくれるようになった。
「そのカール、デジパなんですか?、巻かなくてもそのままなの?、お姫様みたい」

ある日、彼女の伏せた目のずらりと綺麗に並ぶ長いまつ毛を見つけて、それマツエク?と私が聞く。彼女は照れ笑いをする。
「そう、昨日やったばっかなの。ねぇ、…さんもマツエクなの?」
「ううん、違うよ。子供の頃はもっと長かったんだけど」
そのせいでひどくからかわれた。切ってしまおうかと悩んだこともあった。からかってきた子は大抵ブサイクだったよねと、嫌な思い出を溜飲とともに押し流していると、
「すごーい。うらやましーい。私も子供の頃はすごく長くて、シャーペンの芯とか沢山乗ったんですよ、やりませんでした?」
彼女がやすやすと、道化をさせられているのが目に浮かぶ。それを想像して私はくすくすと笑ってしまう。
「うん、やったやった」

  彼女は私の仕事着用に降格したカーディガンのビジューを褒める。娘のお下がりのピンクのカバンを褒める。色素の薄い私の瞳に感嘆する。
  私は外見が良く男性にはもて、同性の褒め言葉には警戒心しか無かったのだが、彼女に褒められると素直に受け取ることが出来た。これは母親以外では初めての事だった。
 早朝、夫を車で駅に送り届けその背中を見つめる時や、顔に出来た小傷にベージュのテープを小さく切って貼る時などに、彼女の褒め言葉と手を思い出したりした。彼女があの美しい指でそっとテープを押さえてくれる。彼女の手を思い出すと彼女の顔が構築されて、私に微笑みかけるのであった。

 ある夜、私の指と彼女の指が先んじて仲睦まじくしている夢を見た。中指と薬指をお互いに絡み合わせていた。彼女の手は冷たく指先に行けば行くほど体温を下げていた。私の手は彼女の手がいつもひんやりとしていることを既に知っていた。いつからそんな仲になっていたのと私の手、多分右手を絡ませていた、に聞いても答えがない。私は嫉妬に駆られて左手で右手の手首をギュッと握り、血液の流れを滞らせて脅しをかける。右手は堪らず逃れようと暴れ出し、左手は利き手の右手に適うはずもなく、取っ組み合いに負けてしまう。右手は逃れる際に私の右側のこめかみに衝撃の応酬をした。

 その朝、夫が大丈夫かと優しげに顔を触ってくる。
 仕事は休めよ言ってくるのにうんと返事をしながら、今日の夕飯は休めそうだなと考えていた。こんな日の夫はいつもデパ地下で綺麗なご飯を買って来てくれる。

 ついでに二日ほど仕事は休んだ。それでも子供の送り迎えがなどがあるので、引きこもってはいられない。
 コンシーラーを厚めに叩き込む時に、またしても彼女の細い指が現れる。彼女の指は、コンシーラーを塗るのが下手くそだ。
 彼女は化粧をしない。なのであまり気づかれないが、化粧をしたら打って変わって、美しくなるのが私には分かる。私がもし彼女の双子の姉妹であったりしたら、放っては置かないのに。

 すっかり私は彼女とは顔なじみになっていた。今日も彼女に褒めらる。彼女がバレエ鑑賞を趣味としているのを知って、うち子身体が柔らかくてバレエとか習わせたいのよと言うと、彼女はにこにことしながらいいですねと言ってくる。
「…さんて、チュチュとか似合いそう、いつもピンク似合ってますよね」
段々と彼女の手を抜きで彼女自身を思い出している。私にそういう趣味があったのね、なんて冗談混じりに考えながら、馬鹿馬鹿しくて一人で乾いた笑い声を出す。
 
 とある日に限界を感じて子供を連れて実家に帰った。仕事ももちろん無断欠勤だ。夫には行き先を知られているが、私の実家にはほとんど近寄らない。このところ考えているのは子供の学校の事だ。実家の近くの学校に転校させたい。
 夫から携帯に連絡が来ていた。家のポストに仕事の派遣先の担当から、手書きの手紙が入っていたと言う。手紙の写真が送られて来た。無断欠勤で心配をしている事と、朗らかさんとうるさ型も心配しているとの内容だった。彼女のことを思い出す。彼女にどう思われているだろう。

 両親の協力もあり子供の転校を済ませ、実家に身を寄せながらそれが日常になりつつあった。仕事も探さなくてはならない。ふと朗らかさんの発起したグループチャットを思い出して開いてみる。しばらく使われていないトーク画面の中から、彼女の発言を探して読み返す。彼女の美しい指が、キーボードの上をひらひらと舞う様子を想像する。彼女の手はひらひらと上に舞い、私の頭頂部へふわりと着地する。その手に重さがあれば良いのに。

 新しい仕事を見つけたものの短期契約であった。夫の気配が不安を掻き立てる。夫と対になっていた彼女の手は、現れても以前ほど、私と戯れることはなくなっていた。私はふと彼女が存在する、グループチャットを開いてみた。彼女以外のメンバーは退出しており、そこには私と彼女だけであった。
 お久しぶりです。お元気ですか。私は今
と入力し、我に返って文字を消す。彼女の手を思い出し、ゆっくりと現れたその顔は、輪郭で型どられてはいるものの、今となっては彼女の顔がどんな風だったのか、はっきりと思い出せなかった。私は懸命に彼女からの褒め言葉を羅列する。それらはもう、私のものではない気がしてならなかった。
 私はその日の夜に、グループチャットを退出した。
 
 その夜見た夢に窓際で佇む女がいた。美しい手を持つ女は、引いてあるカーテンに手を添えている。女は私に言う。

「窓を開け放っても窓はどこにも行かないのね」

 私は答える。

「大きさに関わらず」

 私は何故か得意気だった。目が覚めた後も夢の内容をはっきりと記憶していた。私は自分の言った言葉が嫌だった。横になっていても目眩がした。しばらくは、背中の嫌な汗を背負い込んだままであった。

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