写真
私の写真を撮りまくる男と付き合ったことがあった。なぜそんなに撮る必要があるのか。彼はデジタルの時代となってこれほど幸せなことは無いと語る。写真を撮りながら。
フィルムの時はフィルム代も現像代も大変でねと。それもそうだなと撮られながら思う。
グラビアのカメラマンになりたかったんだよ。
撮っていない時は撮った私の写真を寄越したり、眺めていたりする。彼はどんな顔のものでも寄越した。食べている最中の、変に鼻の下が伸びたやつや、白目むいて上を向きながら笑っていて、鼻の穴が主役のやつとか。
そんな写真やめてよと言っても、まるで言うことを聞く気がない駄犬のように、これっぱかりの聞く耳も持たない。だっていい人そうじゃない、と二重アゴで顔を赤くした私の大爆笑中の写真を眺めて言う。
それに写真の中のあなたはいつも笑っているじゃない、と。
それはあなたが撮りまくるから仕方なくと言うのだけれど、絶対に聞いていない。また撮っているのだもの。
撮りまくるものだからごく稀に誰だかわからない人が写る。ここでしか存在しない、知らない顔すぎてiphoneのSiriだって他人扱いして、この人はただひとりと他の私を集めない。
私はよっしゃ、これを遺影にするか!と新規アルバム「遺言」に保存する。五年付き合って「遺言」に保存されたのは三枚であった。
それがパスポートや運転免許証に使える雰囲気なら良かったのに。ペーパーゴールドの私の免許写真はいつまでも冴えないままだ。とてつもなく冴えない顔が、更新時期になると割とマシに見えてくるから悲しい。とてつもなく。
人は外見は歳をとるけれど、中身は歳をとらない。世のおじいさんおばあさんは、外見がそうであるために、老人扱いされ、場合によっては本人も勘違いするのだ。中身は気付けば逆行しており、子供のようになる。
外見も一緒に逆行すれば面白かったのにね。
折り返し子供は理に聡く、片道子供の手をひねり揚げ、ビジネスで成功したり、自己啓発グループを立ち上げて、講演で荒稼ぎしたりする、
かもしれないし、ただの子供になって紙風船で無心に遊ぶだけかもしれない。
山高帽を使いこなす子供、ツイッギーを愛する子供、小さなハーレーダビッドソン。なんだかイエローブリックロードが見えてきちゃったぞ。 そこは可愛い魔法の国。西だろうが東だろうが、魔女にはもう騙されないぞー、エイエイオー。ところが魔女も折り返し、数も増やし、南の魔女北の魔女、東北東、南南西、北北西、北北東、ホクホクとした石焼き芋売りに扮した、オズの子供(折)に騙されて、皆で小さな太鼓橋に腰掛けて、足をブラブラさせながら、ホクホクハフハフバブバブ食べてるような、食べ散らかしてるだけのような、バブバブ(折)は栗きんとんとか芋ようかんとか、魔法の透明なネバネバをお口から出して、美味しいのを作るんだ。
医療の進歩は素晴らしく、そのうち直ぐに(折折)BABYも誕生する予定。
華麗なる一族の集合写真は子供やBABYのプレイランドさながらに、皆が酒を酌み交わしヨッパライの大宴会、言うこと聞くのは片道だけだ。
写真裏には誰が書いたか、書き人知らずのメッセージ
中身は歳を取らない証拠として、この写真をあなたに献上する。