Kenny Dorham記事(1962)
今回はトランぺッターのKenny Dorhamの記事を翻訳しました。
翻訳元の記事↓
それではいきましょう。
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これからの記事は1962年に作られたものである。
Kenny Dorhamは20年以上もの間活躍したトランペット奏者である。彼はbopのイノベーションを自身のスタイルに落とし込んだトランペッターの1人だ。
この記事ではGene Feehanがインタビュアーを担当し、Kenny Dorhamはその長く特異なキャリアについて語っている。
キャリアのほとんどでDorhamはDizzy, Miles, Clifford Brownや他のモダンジャズトランぺットの名手と比べて二流だと考えられてきた。
今日、Kennyがプレイした数ある名高いグループでKennyの名前が挙げられるのは稀だ。彼はKenny Dorham名義の作品と他の重要なジャズミュージシャン名義両方で膨大なディスコグラフィーに関わっている。
事実、彼は一聴するとDizやMiles, Brownieと見まがうようなトランペットのサウンドとスタイルを作り上げた。
Down Beatマガジンのコレクションをひっくり返してくまなく探したJazzProfilesの編集スタッフがGeneの手で書かれたKennyについての記事を見つけ出した。
この記事はこのブログに彼を思い出す方法として掲載する記事の理解に役立つと考えた。もしあなたが彼に思いをはせるなら。
"トランペット奏者Kenny DorhamはBarry Ulanovの「History of Jazz」で言及されていない。
またOrrin Keepnews-Bill Grauerの「Pictorial History of Jazz」でも彼の写真は載っていない。Kenny Dorhamの23年のキャリアはMarshall Stearnsの「Story of Jazz」でも触れられていない。"
要するに、もし誰かが現代ジャズトランペットの歴史を初めて紹介されたなら、その人はトランペットのことをほとんどDizzy GillespieとMiles Davisだけが演奏していた楽器だと推測するだろう。少なくとも重要な批評はこう強調されて切り出されている。"Dorhamは完璧なトランぺッターになった。モダンジャズの重要なボイスの一つである。"
38歳のKenny Dorhamは今だ多くのジャズファンと対峙している。それに加え彼は現在の音楽に明確なインパクトを残した。
"おれはいつだって自分の道を行くんだ。" 彼は断固として続ける "人がどうジャズをプレイするとか知らないな。"
Dorhamは自分のことを寡黙な男とは表現しない。他の人と同じように長いこと話す。人は熱心に耳を傾けざるを得なくなる。彼はbopムーブメントに置ける自分の役割を説明するが、それは一般に理解されているとは言えない状況だ。理解しているのは彼と仕事をしたミュージシャンと少しのファン、批評家である。
"You know, " 彼は回想した。
"おれのジャズ愛は幼いころおれの姉から焚きつけられたんだ。彼女はコカ・コーラとDr. Pepperのコマーシャルソングを歌っていた。おれが7、8歳のある日彼女は何枚かのレコードを持って家に帰ってきた。それはLouis Armstrongのレコードだった。(彼はLou-issと発音した)
1939年おれが15歳の頃、おれは姉からトランペットを貰った。お父さんは既にギタリストだったし、お母さんと姉はとても上手にピアノを弾けた。姉はおれにホーンを習うように説得したんだ。おれは7歳のころからずっとピアノで遊んでいたから少なくともコードは知っていたよ。おれがホーンを手に取ったとき、おれは音楽のベーシックを学んだんだ。"
DorhamがTexasのAustinにあるAnderson High Schoolに入学したとき、彼は三人のホーン奏者をアイドル的に敬愛していた。Bix Beiderbecke、Roy Eldridge、Bunny Beriganの三人である。
DorhamはBeiderbeckeのミュージシャンシップのすべてが好きだった、と語った。加えて "Bixはピアニストみたいなサウンドを出した。なぜなら彼はすべての変化を理解していたから。一方でRoyは他の人より活発にプレイする。他にもHarry Edison、Ziggy Elman、Buck Clayton、Basieのブラス、Erskine Hawkinsバンドを聴いていたよ。"
Dorhamは1939年にキャリアを始めた。学校のマーチングバンドで友人の1人であるBo Rhamboもトランペットとサックスの両方を演奏していたという。彼らが共にjamをやっていると、RhamboはCount BasieやGlenn Millerのグループのアレンジに追われていたという。
1943年の10月と12月の間、West Coastへ腕試しに行ったDorhamはブレイクするにはこれが良い方法だと考えた。
翌年DorhamはIllinois Jacquetのビッグバンドと共にHoustonに帰ってきた。このころのDorhamはたくさんgrowlを演奏して、エフェクトのためにブリムスをカットしたハットのミュートを多用していた。
1944年7月に彼はNew Yorkに挑戦することを決意した。彼が最初に入り込んだ場所の一つがMintonのバンドだった。
"最初にソロをやった後...." 彼は思い返す。
"バンドマスターだったLockjaw Davisがおれのところに来て 'おまえはここで'いつでもプレイしていいぜ。' と言われたよ。そっからだな、まるで夢みたいだった。毎晩レコードで聴いていた男たちと演奏するんだ。Bud, Fats Dexter, Serge, Wardell, Lips, 他にもたくさんいるよ。"
1945年春、Gillespieはオーデイションを開催することを公表した、集まった部屋いっぱいの男たちの中にはHenry BoozierやDorhamといったある程度の期間働くことになるプレイヤーもいた。Dorhamに白羽の矢が立った時、彼はこうGillespieに言った。
"Henryが一緒じゃない限りおれはやらない。これはDizが1つの席に二人のトランぺッターを座らせる方法でもある。"
1946年10月、DorhamはBilly Eckstineのビッグバンドで活動した。Dorhamはこう思い返す。
"この国のベストバンドだ。すばらしいリズムセクションを有している。Art Blakey, Tommy Potter。ピアノはRichard Ellington。Gene AmmonsとLeo Parkerみたいな最高なソロイストさ。この半年Eckstineのバンドにいたおれはグルーヴィーだった。BillyはFats Navarroの代わりにおれをトランペットのソロイストとして据えた。NavarroはDizの代わりだったんだよ。おれはまだ22歳だったけど強みを認められていたんだ。Billyは偉大なリーダーだった。彼はいつも人々に向けて素晴らしい夜を作りだしていた。"
DorhamのCharlie Parkerの思い出は人間としてのParker、アーティストとしてのParkerの違いを映し出す。彼らは特別な関係でもなく、理論的な部分の共通項もあまりないように見える。しかし断片的にはそうではない、ひとりのジャズ有識者は証言する。
"Birdは変なことをたくさん知っていた。車のエンジンがどうやって組み立てられるのか、とかエンジンはどう機能するのか、とかね。Birdはリハーサルではそんなにすごくない。実際彼と働いていたからさ。彼が呼ぶのはバンドの新顔2人だけだった。
おれがNew Yorkに来るずっと前にBirdの演奏を聴いた。そこから彼がおれのお気に入りのソロイストになったんだ。彼のプレイのスピードから大いに影響されたよ。今のおれはそれに近づくことさえできない"
"Birdが練習していることなんておれは知らない。だけど彼はいつも火の玉のようにバンドスタンドをブッ飛ばすことができるんだよ。可笑しいけど、他のバンドメンバーがBirdに食らいつけないときも彼は涼しい顔をしていたよ。
Birdは「The Rite of Spring」のテーマを12人編成のコーラス上で演奏していたよ。ミュージシャンたちはそんなBirdの演奏が好きだった。だけどオーでイエンスは何が起こってるか理解していなかったんじゃないかな。"
"いまBirdみたいなスピードでプレイできる奴はいない。Max RoachはBirdとの演奏でスピードを上げたよね。Maxはオープニングコーラスやセカンドにマジで速いビートを叩くことでBirdにチャレンジしてたんじゃないかな。Birdはブッちぎったんだろうけど。
Birdは「バンドの飛距離」ってやつを信じていた。家で練習しないだろうことをバンドに落とし込むためにね。それはちょっとした試練だし、間違いのプロセスさ。彼が意図していたのはオーディエンスへ届け方と能力を最大限に使って演奏できるようにする方法なんだ。"
Dorhamがは熱心に主張する。"今日、Birdはキャリアの中でも絶好調だよ。誰かがBirdみたいな演奏をする前に、サックスのスタイルを変えなくちゃいけないよ。
役者、パフォーマー、ミュージシャンがステージに上がったとき、'第四の壁(演者と観客の間にある見えない壁のこと)' の教訓を知るぜ。音楽を作るため、個人の役割のために孤独な感覚を守らなくちゃいけないんだけどね。
Birdはベストなコンセプトを知りつくしていた。これはけっこうのパフォーマーが理解していない考えのように思える。でもパフォーマンスのピークに必須なんだ。
コンセプトをさらに発展させるためにBirdはオーディエンスと彼自身の和音的、サーカスティック、人間味があるプレイからダイレクトにインスパイアされていた。おれらはそれをリズム養成所と呼んでいた。
1949年の春、Royal Roostで疲れ切った女子がこう叫んだ "「Pay My Wild Irish Rose」" ってね。Birdはその女の子を一瞥して「The Lady Is a Tramp」の不調和フレーズを繰り出した。おれらは全員食らったよ。"
Parkerの記憶はDorhamの食い扶持ではない。Dorhamは今日の音楽の他の側面に蓄積された考えを有している。映画のジャズから若いミュージシャンにアドバイスをする。
"映画はジャズマンに演奏と作曲の機会を与え始めている。もちろんテレビとかも同じ。" 彼はこう言う。"おれはDuke Jordan, Kenny Clarke, Barney Wilenと「Witness in the City」ってフランス映画のスコアでコラボしたよ。「Les Liaisons Dangereuses」ではスクリーンにも映ったぜ。"
数年前、批評家はモダンジャズにおいてKenny Dorhamがサックスのサイドをやっていることに注目していた。Chet BakerとGerry MulliganとMilesとBirdの関係がメジャーな証拠である。Dorhamはそのセオリーを認めることはせず、ミュージシャンにグループ内での比較を与える演奏の可能性に関してトランペットは二番手ということを保ち続けた。
"他にも,,,," 彼はこう続けた。
"トランペットのバルブはたった3つだけ。おれが声をかけるとサックスが少なくとも7回はキーを出してるんだ。人はトランペットのことを時代遅れな楽器だって言うけど。コイツにはもっと探求の余地があるってことは言っとくぜ。"
Dorhamとシンガーのそれはも同じである。Dorhamの歌と彼の演奏は同等ではない。これについてこう語っている。
"歌はおれにとっていつも重要さ。おれは自分のパイプを開かせ続けることを学ぶのさ。
おれのバンドでの経験には1945年の9か月間、Dizとの仕事でのボーカルワークも含まれている。Dexter Armstrongがおれとの引き合いに出るまでね。おれが大きく影響されたミュージシャンはCharles Brownだ。彼は順当にRay Charlesにもインパクトを与えた。それはもう多大なインパクトさ!おれがやったようにSouthwestから来たら人間がいたら、そいつはホーンとボイス両方の証拠としてエコーに力を注ぐぜ。"
作曲の領域ではDorhamは何年にもわたって堅実な働きを見せている。彼はNew York Phillharmonic Orchestraを起用して25分の曲を作曲した。Dorhamは一曲10分のバラード「Fairy Tale」の最初の2パート、「Lotus Blossom」を書いた。彼はずっとトロンボーン奏者のJ. J. Johnsonを最後のセクションのために起用しようとしている。
ジャズメンの労働条件は議論の余地があるトピックだ。しかしDorhamは他のミュージシャンのように暗くならなかった。
"New Yorkに出てきたときから,,," 彼は言う。
"おれは労働環境が改善したと思うよ。バンドリーダーの名前のアピールはとても重要だ。Bird, Maxらとやったぐらい頻繁に働いている理由がこれさ。"
"現在の音楽の世界で、おれがUN Jazz Societyの前に結局自分の仕事について話すのが好きみたいなことなんだよね。どれくらいビジネスが変えちまったのかってことだよ。今どこで稼いでるのかを理解するぜ。彼らはバックで演奏してるだけだ。みんながおれをビジネスとして見ていることにおれは気が付いたんだ。でもおれはまだ楽観的さ。"
"重要なキーポイントとしてクラブオーナーは新しい才能のために時、場所、やり方を知るべきだ。一つのクラブにバンドは平均年三回訪れる。そこで同じレパートリーをやるんだ。そのせいでリスナーは退屈してしまう。
もしバンドや作曲家が新曲を思いつけないんなら、オーディエンスは騙されるだけだと思うよ。いずれクラブオーナーはオーディエンスに打ちのめされるぜ。"
DorhamはJo Jonesがしきりに若いミュージシャンに言っていた「子どもっぽさ」に気づいている。
"人がトロンボーンやティンパニ、チューバを学びたいとかはどうだっていい。おれのアドバイスはピアノを始める人間のためにある。おれがそれに救われたからね。
ピアノはボイスの物差しだ。それはサウンドなどすべてのブレンド。ピアノは他のどの楽器よりも多くを表現するからな。それは人を理論的な基礎まで連れて行くし、一回に一つのノートよりも多くプレイするチャンスをもたらす。そうやって初めてミュージシャンは自分がチョイスした楽器のプレイに磨きをかけることができるんだ。"
"ジャズの未来はLenox, Mass, School of Music, Berklee School in Boston, North Texas State Universityバンドのような場所から生まれるだろう。
生徒は音楽のノウハウを探し回ったり、当たって砕ける必要性よりもフォーマルな音楽教育を手に入れることができる。音楽学校の生徒は自身のエネルギーを連続性のある短いスパンに集中させることができる。そこから最も素晴らしい収穫を得るためにね。"
以上です。
ジャズミュージシャンはみんなピアノを弾けるってことなんですか?
自分は音源を聴いてるだけで楽器を見たこともない人間なので見当もつきませんが面白いですね。
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