Eric Dolphyインタビュー(2016)
今回はサックス奏者であるEric Dolphyのインタビューを訳しました。彼はサックスの他にフルート、クラリネットなども演奏します。
インタビュアーはジャズピアニストであり、プロデュースや音楽評論もこなすLeonard Featherです。
文中に音楽理論(?)のような話がよく出てきますが、私はそういうものが全く分からないので、正しく訳せているかどうかわかりません。その辺はご了承ください。
それでは行きましょう。
翻訳元の記事↓
Leonard Feather: F
Eric Dolphy: D
F: まず最初に、ミュージシャンとしてあなたがやってることが理解できないからそこをはっきりさせたい。自分の中で納得したいんだ。なにをやっているのか、あなたみたいなミュージシャンがハーモニー面でやってることっていうか、、、、説明するのがめっちゃムズイわ。わかってくれる?
D: ええと、いつだって即興でやってることのテーマに依るんだ。もし自由な形式でハーモニカルに演奏してたって、即興はそれをよりもっと自由なんだ。即興てのは自分の実力以上のモノが出せる。ノーコード、ノーハーモニーの場合はまた違う話なんだけれども。
F: いや違うんだ。おれが理解してないことっていうのは、数ある制限の違いは何?
制限は必ずあるわけじゃん。故意に好きなノートを演奏できるの?
D: 好きなノートをすべて演奏するためのアイデアなんだ。もちろん聴ける音しか自然に演奏できないからね。おれに言わせれば少なくとも聴いた音は人に聴かせるものじゃないと思う。おれがずっと言ってること同じだよ。
F: ええと、もしあなたの基礎がコードシーケンスじゃないなら伝統的なジャズのベーシックはなにが基礎なの?
D: 演奏する何かはコードに基づいてない。これらはサウンドの自由に依拠してる。1つのラインから切り出して、思うがままに即興し続けるんだ。
F: Yeah.
D: フレーズを発するまでにクリエイトし続けるのさ。なんて言うのかな、直感?
F: Yeah.
D: 取り巻く環境や一緒に演奏する人とかも当然あるけどね。モードっていうもう一つの概念があるだろ?みんなモードの外側をプレイする。ハーモニカリーに演奏するものを行ったり来たりするんだ。7コードやってる古いやり方は踏襲しない。自然にだぜ。そういうコードや、そのコード内の他のノートを曲に違う感覚を与えるために使うんだ。さもないと他のみんながやってることを演奏することになるぞ。もしF7をやるなら、F-sharpを演奏するのが最も好ましいよ。F-sharpに対してならおれはフラット9を演奏するだろうね。
F: Yeah.
D: それとおれはF-sharpを演奏するためだけにF-sharpを演奏しない。F-sharpはF7と一緒に演奏するからいいサウンドになるんだ。
F: Yeah.
D: わかるかい?それから、、、うーんと、、この場で説明するのは難しいな。だって即興ってのはやってる瞬間瞬間にしか生まれないものだろ?
F: Yeah!
D: ごく自然に変わっていくんだ。うん。
F: これは初期の形式よりも格段に自由な形式だと言ったよね。Charlie ParkerやDizzyなどが活躍した時代のことをどう思ってる?サウンドが発展した結果、それは自由の欠如になった。だとかオールドファッションなサウンドだ。とか
D: 笑わせてくれるね、なぁ。その質問をしてくれてうれしいよ。いいかい、おれはそれらを超えていく。Washingtonのフェスで演奏する機会があって、そこでEureka Jazz Bandの演奏を聴いたんだ。彼らの演奏を聴いてみなよ。リードトランぺッターが演奏するメロディや小さい音、全てをだ。しかもEureka Jazz Bandと一緒にプレイするチャンスがあったんだよ。
F: 彼らはNew Orleansのオールドメンなの?
D: Yeah. 彼らの演奏を聴いて分かったんだ、おれがやってることと彼らのやってることには大きな違いは無いってね。むしろ彼らの音色は際立っていた。彼らは自身の演奏に自由に対峙していた。
おれは演奏を聴いたからわかるんだ。彼らはG-chordやC-chordなどといった強いコードを使わない。彼らはF-sharpsやC-sharpsを使うんだ。彼らは最初の自由なプレイヤーだと思うよ。
音楽は前進してるし、それが進むごとにもっと知識が必要になることを理解してると思う。それはただのミュージシャン向けの違う方法の提示なんだけど。それによってもっと演奏できるよ。
現代のミュージシャンはたくさんのトレーニングを積んでいる。でもおれは一概にそういうやつが良いとは言えない。現代のミュージシャンはより良い環境でトレーニングをしているからテクニックはある。でもそのテクニックでなにをすればいいのかがわかっていない。
内面の問題なんだ。おれはやらなきゃいけないことを自分で見つけなければいけなかった。ただ自分のテクニックを誇示すればいいってもんじゃない。音楽面を高める何かを見つけるためには、音楽センスを磨くことなんだ。
おれは自分が演奏できるノートのプレイに注目した。最初からじゃないよ。だって最初はノートなんてわからなかったからね。でもコモンコードが発展するごとにどんどん演奏して、いろんなノートを聴いていくんだ。多くの人は今のミュージシャンが間違ってると言うけど、おれはどっちでもないと思う。おれが聴く限り、彼らは正確無比な演奏をする。
F: Yeah. つまりそれに慣れたリスナーの問題と考えてるだね。
D: そうだね。それがすべてなんだ。おれにとって計り知れないほどだだっ広いものを与えてくれるんだ。プレイに関することだったり、違った感覚を開くんだ。今おれが知ってることやずっと前のおれが知ってることは数多くあれど、聴けないからできなかったんだ。わかるかい?単純な話じゃない。
"おれはただいろんな演奏がしたいだけなんだ" と言うやつがいても、おれはそれからは音楽のセンスは形作れない。おれが聴いてることに対する言葉ね。
わかるかい?音楽はリズムやピッチ、タイム、間、などすべての要素が含まれてるんだ。それが即興のためにあるって感じね。それらを考えに盛り込まなければいけないんだ。これは単なるノートの疑問じゃないんだ。
多くの人は若い人たちは演奏をよく聞いてると言う。"彼はただノートを羅列してるだけだ" とか "ただランダムにノートを演奏してるだけ。" とかいうんだけどそれは違うぜ。だってプレイヤーの頭の中にはなにかあるんだ。ノートを捻じ曲げたりね。演奏のタイプに全部集約されるんだ。
F: Coltraneに対してずっと形作られてるハーモニーのポイントは何?彼はたったの2コードで25分ぐらい演奏する。ジャズのハーモニー面の発展の時代にそれは退化なのだと思う?
D: うーんと、Coltraneが考えてることはおれには言えないんだけど、おれが考えてる限りのことは話せるよ。彼と働いたり、彼の演奏を聴いてわかったことは、彼は吹きまくるんだけど、トリックの塊なんかじゃない。アイデアの宝庫なんだ。瞬間的にそれをやるからね。
もしおれがわかっても、彼は絶対におれにそんなことを話さない。でもおれは聴いてるから彼が言わないこともわかってるんだ。彼はときどき長く演奏するんだ。彼はどうにかしてやれることを長くプレイできるんだ。ときどき彼は瞬間的にインスパイアされて自分自身の身を委ねるんだ。これが他のプレイヤーの真実だよ。
F: 彼にはハーモニーのバリエーションの欠如を埋めるため限られたコードの数で十分だったと思う?
D: どういう意味?Coltraneは短い時間で同じことをやってたって意味?
F: そういう意味じゃない。彼はとても限られたコード上で同じことを同じことをやってるんじゃないのってこと。彼は2, 3回のチェンジだけでたくさん演奏するじゃん。それってEllingtonのような考え抜かれたハーモニーの複雑性と比べたら単調だよね。別の言葉を使うなら、Coltraneはチェンジに頼ってないってこと。
D: Yeah. それは1, 2回のチェンジ自体がもう一つの複雑性なんだよ。おれはそう思う。
F: 一つのチャレンジなの?
D: そうとも。一人のクリエイティブなミュージシャンの現在地なんだ。もし彼が十分に創造的なら、クリエイトするために制限のなかにいるだろう。なんていうべきなんだろう、、、
F: 基礎?
D: Coltraneは数多くのものから作り出すんだ。それは自動的に彼に考える機会を与え、彼は演奏できる。おれは彼が考える男だってことを知っている。その機会こそが彼に多くのことを紐解くチャンスを与えてるんだ。
Coltraneのことは話せないけど、普通の音楽のことなら話せるよ。インド音楽とかすべての音楽さ。インドの音楽を聴けば彼らは普通に1つのコードだけでやってるんだ。おれらのような西洋の音楽からしてみれば1つのマイナーコードだと認識できる。でも彼らはそれをラガやスケールと呼び、20分くらいプレイするんだ。
F: Yeah. そうだね。
D: Ravi Shankarみたいな人たちは一緒に仕事するために十分な研究を行ってくれている。ただ単にインドのミュージシャンと演奏してるわけじゃないんだよ。でもちょっとした繋がりはあると思う。なぜならクラシカルなインド音楽は人々のものなんだ。ジャズもアメリカ人の音楽、特にアメリカンNの音楽だろ? インド音楽もごく自然なんだ。コネクションがあるんだよ。
人々は自分たちの音楽を同じ土地の方法で表現するんだ。インド音楽やジャズだけじゃない。他の民族音楽もそうだ。BartokやKodalyがいろんな民族のテーマを集めていたことを聞いておれは気づいた。おれは彼らの音楽を忘れるんだ。彼らの出身は、、、、
F: ハンガリー
D: ハンガリー!ハンガリーで彼らの音楽を聴いたことがある。この特別なことはずっと続いてるんだ。ノートを気にしないリスナーに向けて典型的なサウンドは単調になる。
でも実際ノートやプレイヤーたちによる構築、クリエイションを聴き取る人に向けて、すべては土地を超えたアーティストのコネクションになるんだと思う。これは彼らが同じような発展をしているという単なる事実なんだ。このことから何か新しいものの到来を確信してるよ。進まなければいけないんだ。
以上です。音楽理論の話は正しく訳せているのかがわかりませんが、Eric Dolphyの音楽観がなんとなく垣間見えたような気がしますね。
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