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Leonard P. Howell~最初のラスタ(2014)

ラスタファリズムの成り立ち、コミュニティの話がまとめられていた記事があったので翻訳しました



Silgoville. St Catherine、1930年11月2日。アフリカはエチオピアではRas Tafari MakonnenはEmperor Haille Selassie Iの座に就いた。彼のサポーターはHaille SelassieこそがGodやJahの啓示だと信じている。彼の誕生はBibleで予言されていており彼の系統はchiristが生まれる何世紀も前に遡るとされている。Selassieは1892年に生まれている。

6年後の1898年6月16日、Leonard P HowellはClarendonの教区で生まれた。幼いころに彼はアメリカへ移住する。そこでHowellはMarcus GarveyのUniversal Negro Improvement Association(UNIA)に合流することとなる。

しばらくしてHowellはGarveyの幹部メンバーとなったがGarveyとUNIAは常に国家の監視下にあった。このことによって最終的にGarveyは様々な罪に問われ逮捕されてしまう。1928年、Garveyは国外追放されてしまい、HowellはGarveyを追ってアメリカを去った。1932年の出来事である。

Howellの活動はGarveyismからSelassie Iに集中していくこととなった。HowellはSelassieを偉大なBlack Messiah(ブラックの救世主)と考え、SelassieへのリスペクトからKing of Kings Missionを設立する。そして自身をジャマイカのSelassie支部と位置づけた。ラスタファリズムに関する最初の著書「The Promised Key」を執筆してもいる。

1933年、ジャマイカに戻りしばらくたったころ、HowellはSelassieの布教に取り掛かった。それは彼の信仰を確認するだけでなく、多くの支持を得ることにもなった、彼の著書「Overstanding Rastafari - Jamaica's Gift to the World」で、1930年代の初めにYasus Afariはこう語っている。"ジャマイカのストリート(Kingston、St Catherineの一部)はLeonard Howellの説教や布教によって活気が満ち溢れていた。彼はラスタファリアンのパイオニアのひとりだ。"

Howellはアンチキリスト教、反権力と考えられていた教義を布教していた。

彼は国家転覆の罪を着せられ刑務所に送られることとなる。しかしそのことでHowellの信条が揺らぐことは無かった。1940年に釈放されると、彼はジャマイカのSt Catherine, Sligovilleに400エーカー(約480坪)のラスタファリアン村を作った。これが最初のラスタキャンプである。

その村は「The Pinnacle (頂)」と呼ばれた。山の頂上に位置していたからである。そこの住人は自給自足をする農民となった。Howellの影響力はThe Pinnecleの外まで広がっていき、ラスタファリアンコミュニティーはジャマイカ中に作られていった。The Pinnecleは常に押しかけてきた警察が掻きまわしていた。"体制側の人間やジャマイカ社会の保守層が特別理解できないラスタファリアンによって国が脅かされてる"

1941年、政府はPinnacleを一掃し、Howellのフォロワーを多数逮捕した。Howell自身は逃亡するも最終的には捕まってしまう、8月のことである。再び国家転覆の罪に問われ、2年間の服役を言い渡された。1943年に釈放され、再びPinnacleに戻った。

彼が帰った後の約10年、Pinnacleはラスタファリアン達にとって生活ができる最後の楽園として繁栄した。

取引と農業が彼らの主な収入源だった。それによって彼らは多くのモノを得た。Pinnacleを自分たちで切り盛りしている光景を見た外の人間たちの間でラスタファリアンの人気は上がった。しかしその良い暮らしも永遠には続かない。

1954年、軍隊がPinnacleに進攻し、制圧した。Pinnacleは壊滅したのであった。住人は逃げたが次第に戻ってきた。Pinnacleは全盛期には決して戻らなかったが、その一方でラスタファリズムはジャマイカや世界各地で勢いを増し続けた。しかし迫害自体は消えなかった。

ジャマイカではラスタファリズムへの敵意は社会全体にいきわたり、1983年、ラスタファリアンへの流血を伴う迫害はピークを迎えた。St JamesのCoral Gardenで数名のラスタファリアンと他の市民が揉めた際、Jamaica Defence Forceが出動し、結果的に多数のラスタファリアンが殺されたり、暴行、度を過ぎた脅迫、断髪、誹謗中傷、逮捕などの迫害を受けた。Afariはこう語る "これはジャマイカのラスタファリアンの最もひどい経験を現したエピソードだ。"

彼らが受けた恐ろしい経験のように、惨劇はどうやっても拡大し続けるコミュニティーの息の根を止めなかった。Howellは1981年に亡くなった、享年82年であった。人種や階級を超越したムーブメントは彼によって作られ、それは世界中に電撃を与える触手となった。そしてラスタファリズムは多くの研究、大学の題材となった。HowellはこのKingstonとSt Catherineでスタートしたムーブメントが20世紀21世紀におけるもっとも影響力のあるムーブメントになるとは思っていなかっただろう。しかしそれが事実なのだ。

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