Lee Konitzインタビュー(1976)
今回はLee Konitzのインタビューを訳しました。
翻訳元の記事↓
それではいきましょう。
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イ: この町であなたに会えてうれしいよ、Lee。最近何をやってるのか、これからの活動を教えて欲しい。
LK: 11月10日からずっとここにいるよ。Ronnie's clubで三週間演奏してるんだ。それが終わったらLondonからツアーさ。この町には3か月滞在してる。ここから5週間は休みなしだぜ。4月が終わるまで行ったり来たり。Warne Marshは今までで最高の仕上がりだ。Martial Solalと揃って3月におれのバンドに戻ってくる。Peter IndとAl Levitt(現在Parisに住んでいる) はフランスでの3公演に行っている。Martial以外のカルテットはツアーでもっと回るよ。Milanの近くのBergamoでコンサートがひとつと、オランダでも何公演かやるよ。今はここでやってるってわけ。3月15日にCamden Festival。
イ: 3月15日が楽しみだよ。最近僕はあなたのレコードを聴いてるんだ。去年Wilbur LittleとDick Katzと一緒にやったやつでSonetから出た「Oleo」。
LK: ありがとう。パブのグルーヴだ。おれらは半年ぐらいNew Yorkの小さなクラブで一緒にプレイしてた。週に二日ね。
その日程をプロデュースしていたSam Chartersっていう男がいるんだけど、彼がおれらの演奏を聴いて、レコードの話を持ち掛けてきたんだ。Samはおれらにドラムを入れたいかどうかを尋ねてきた。少しの間ドラムをいれたいと思ってたし、おれらはトリオでずっとやってきた自負があったんだ。なぜスペシャルなものを持ちこまない?海外の要素を加えることは馬鹿げてるだろ。そしてそれは普段のクラブよりもいい結果が出るんだ。なぜならおれらの耳は優れていたからコントロールすることが出来たんだ。
おれらが演奏してた場所はかなり小さなクラブだったからドラム無しなんて普通だった。それと同時におれらはドラマーが嫌いだったんだ!って言うのは冗談。おれはただドラムサウンドのウエイトが嫌いだった。おれにのしかかってくるようでさ。
イ: ドラマーが時々やりすぎに感じてたんだ?
LK: 時々どころじゃない!いいドラマーは偉大なドラマーよりも数が少ない。全てをコントロールする偉大なドラマーはElvin Jonesぐらいじゃないかな。だってどんなシチュエーションだろうと彼は求められてることをなんでもできるドラマーだからだ。ストロングにプレイするようにやるしさ。大多数のドラマーはプレイがヘビーすぎるし、ハードにドラムを叩きすぎる。他の音をかき消しちゃうし、考えてやってることをキャンセルさせるんだ。Chet Bakerもドラム抜きでずっとやってただろ。
イ: Chetは現行ジャズシーンにある彼の栄光を気にしていた思う?
LK: ええと、彼はおれが仕事してたクラブ周辺にいたんだ。そのクラブでChetは2つの曜日に出演してた。今彼はおれのすぐ後にヨーロッパに来ておれがやった後のクラブでやっている。Chetはとても音楽的な男だ。彼はシンガーだし、シンガーのように楽器をプレイする。彼のサウンドは美しいよ。
ある夜、彼がHalf Noteで働いてるとき、おれはそこに行ったんだ。Chetはおれに一緒に演奏してくれないかと頼んだ。おれは自分のホーンを翌日の夜に持って行った。翌週スイスのGeorge Gruntzからの反応があって、Berlin Festivalへの出演依頼がおれらに来たんだ。新旧様々なグループがいた場所へのお誘いがね。
イ: あなたはNew Yorkのクラブで今までになかった大グループの仕事をずっとやってもいるね。
LK: Yes. 9人編成のね。あれはかなりいいね。おれにとって新しい経験だったんだ。一部はおれの作曲だし、その後おれはすぐにアイデアのワークショップを開いた。いつだって作曲をするための何かを待ち望んでる人々はいるだろ?すべて同じだと思うぜ。すべての良いプレイヤーはグッドミュージックを演奏する末路のことを考えている。おれは彼らに即興演奏へのたくさんの気づきを与えるのさ。一晩のドリンク代や諸々に何ドルか払われるからおれらは熟練のプレイヤーたちと間違いないギグをやるんだ。
ものすごくストロングだったよ、おれはNew Yorkを離れたくなかった。だってそこら中にいろんなものがあってここにこうしてコンサートに来れてるんだから。今おれはここにいてたくさんのモノに関わりを持ててる。不思議と今はNew yorkに戻りたくないんだ。
イ: コネクトすることは素晴らしいよね。あなたが置きにいった演奏をするのが好きじゃないのはわかるよ。
LK: そうだね。ここ2年間、最初は特にNew Yorkで働いてる自分を思い描いてた。ただ自分のやり方でホーンをプレイしてる自分をね。あなたがSonetで聴いたように確実な演奏レベルがあるわけだけど、あれは即興であっておれがWarne Marshとやったのと同じじゃない。
イ; だれとの共演が特別に感じた?
LK: 全部だよ。おれがいる場所すべて。演奏するチャンスがあることが幸せなんだ。ずっと演奏の機会を与えてくれた小さなパブの後に、それを継続するかとかコンサートをやるとかいう後先は考えてない。おれはただ自分の曲をプレイするだけ。目を開き続けてそこにいる人たちが何を話してるのか、何を飲んでるのかをキャッチするんだ。それはおれにとってリアリティになるんだ。人々はおれのところにきて "この小さくて騒々しい安酒場でどうやって働いてるの?" って聞いてくるんだ。おれは "簡単さ、バッグからホーンを取り出して口につけるだけだ" と答えるんだ。おれは機会に感謝してる。
イ: Cedar Waltonも同じことを言ってた。いろんなクラブで無関心と直面しなくちゃいけないって。
LK: Yeah, 二年もそうやってできていることはおれにとっても驚くべきことさ。9人編成バンドをサポートするためにね。おれがEuropeに行く前、このバンドで週二日プレイしていたらもう一つのクラブからこれまた週二日のオファーがあった。かなり控えめなスケールでやってたんだよ。一連のネイバーフッドのクラブはすべてやった。
そのうちの一つでおれが住んでいる場所から道路を挟んだクラブでWilbur Littleとおれは何か月かデュオとして仕事していた。町の中限定のバンドみたいな感じ。なんかやってるらしいぜって言う言葉が周辺に広がったんだ。だからおれらは続けられたんだ。あまり大掛かりなことはしなかったけど、お客は入ったから経費とか諸々払うことができたんだ。
ビッグな仕事、一流ジャズクラブでの仕事なんて考えなかった。そんなのって一週間とかそこらの期間だろ?あってもも一年に二回だからそこに向かって頑張ってもな。
イ: アルトの前にあなたはクラリネット、その後はテナーもプレイしてるね。アルト以外の楽器に立ち返ったことは?
LK: Oh, 一定の期間でテナーをプレイすることは好きだよ。クラリネットはおれにとっては説明不要の楽器さ。ビバップのフレージングに対応させるのがかなり難しいんだ。他の人がやってるのを聴いたことない。Buddy De Franco? 彼がやってるのはおれのテイストじゃないな。でもソプラノサックスはおれの欲求を満たしてくれるよ。
イ: Chicagoをはじめとして、あなたはジャズバンドよりむしろいろんなダンスバンドと共演してるね。
LK: おれの最初の仕事は小さなグループからだよ。そのうちの一つに4,5人の合唱とおれの演奏という構成のグループがあったんだ。その後おれはいろんな場所での仕事、それもダンスバンドと一緒のオファーを受けたんだ。だけどジャズがおれにとって最初に食らった音楽なんだ。
おれはアメリカ国内のいろんなホテルの一室で夜のラジオのスウィングバンドを聴いていた。それはとてもエキサイティングなことだったんだよ。Benny Goodmanはおれが認識した最初のバンドのひとつだったよ。ユダヤ人と白人のおれがどれくらい憧れたかってこと。だからおれはクラリネットを手に取ったんだ。
イ: Claude Thornhillとの仕事はあなたにとって最初の重要なジャズ仕事と思う?
LK: まさしくそうだよ。おれはその前に2つのバンドでプレイしていたけど、どちらもすぐに終わってしまった。ThornhillとGil Evansの音楽を演奏することはとんでもないスリルだったよ。おれに言わせればあれは本質的な素晴らしいバラードバンドだった。おれは最近のGilの仕事をフォローしてないんだけどさ。Miles Davisの初期レコードの後いろんなことがストップしちまった。Gilの作曲仕事が少ないとき、かなり現代ロックの類のアプローチに接近していた。興味が失せたよ。
イ: 1948年、あなたはMilesのバンドに加入したよね。当時からMilesは今思われてるような、すぐ怒るキャラクターだったの?
LK: Milesとあんまり一緒にいることなかったからよく知らないけど、おれは決して彼が怒りっぽい男だという印象は無いよ。彼に抱いた印象は完全に間違いない耳だ。Milesの周りには音楽の頭脳や才能ある人たちが集まっていて、彼はその集まった人たちのすべてのエナジーを一つの音楽作品に集約させることを手助けするんだ。Milesはその才能に長けていた。彼は絶対ユダヤの血を引いてるよ!当時のNew Yorkのクラブシーンを引っ張っていたMayer Davisっていうクラブがあるんだ。Milesは冗談っぽく混乱してたよ!
イ: Milesもロックをベースとしたグループに突入していったね。それはミスディレクションだったと思う?
LK: おれは他の人間のことをミスデイレクションだなんて判断できない。おれが知ってるのはMilesはかなりの成功を納めたってことだけ。それと彼はずっと長い間病んでいるってこともね。他のタイプの音楽をプレイするのは難しかったんじゃない?彼は流行に乗っかっただけだと思う。おれが知ってることなんてそんなにない。Milesは自分が作ったコンテクストでやらない。グループが主で、彼の比重は少しだけだよ。ちょっとしたらステージを去ってバンドメンバーに残りを任せるって具合。Milesにとって彼の今の音楽は演奏するのが難しいんじゃないかな。
イ: あなたのキャリアにおける次なる重要なフェーズは学ぶこととLennie Tristanoとプレイすることだったよね。Lennieから学んだことはある?
LK: 早くからおれはLennieから学んだと思うよ。15歳のころChicagoでね。ジャズと呼ばれる音楽のレッスンはいくらするんだよ。重要な人をピックすれば彼らが持ってるものを吸収することは可能だ。他のアートフォームでも同じこと。人はこのやり方でやろうとしてると思うよ。Van Goghのような絵を描くことやCharlie Parkerみたいな演奏をすることが今にわかるぜ。それが可能なら誰だってエナジーや情報を使ってやるだろ。自分が持つ何かをやったりな。そうでないなら少なくとも経験はあるはずだ。
イ: あなたが触れたLennieの哲学は完全にあなたの演奏のアプローチに影響を与えた?
LK: 間違いなくね。おれはただのガキだったから全く分かってなかった。ただフィーリングで演奏してただけ。一方でLennieは音楽に対してシリアスだった。議論ともなれば彼があいまいな言葉で人に話すことは無い。彼は何年もそう。だから俺は真実として彼の言うことを捉えるんだ。
イ: Lennieと制作したレコードの饒舌なラインを僕は完全に言えるよ。彼のグループのミュージシャン間の絶対的な共感覚は今聴いてもすごいよね。
LK: おれもそう思う。他の人がそれを聴いてそういう思わせることもすごいよね。最近そのことを考えていたんだよ。Warne Marshと一緒にね。偶然12月のここで...おれらが最初にここで演奏したときこれらのテクニックはまだ目新しくて、人々はそれを今まで聞いたことが無いものとして議論していた。おれらのテクニックはその方法が知りたいミュージシャン達に大いなる技術的なチャレンジを突きつけた。ある意味まだ続いてるよ、だってこのコンセプトはビバップみたいなスタンダード化されることは絶対にないからね。特別な演奏法なのさ。いわゆるTristano schoolだ。
一方で、人々はより早く、より音数を多くして演奏していた。今トライされてるのは一風変わったノート。おれらはもはやアバンギャルドじゃないし、みんなもおれらをそう呼ばないだろう。でもエッセンスだったものはまだあるんだよ。以前のように演奏ってのはプレイヤーのスキルによるんだ。おれらの周りの世界は25年で進歩した。おれは今でもトライしてるし、Warneだってそう。「All The Thing You Are」のいろいろなバリエーションをプレイするためにね、簡単なことじゃない。テクニックをどう変えるかなんてのは問題じゃない。そしてColtrane, Ornette Coleman, Albert Ayler, Chick Coreaなどのようにジャズシーンの新しいムーブメントのすべてと共にね。この音楽が正しくスウィングしていたときはきちんと受け取られていたんだ。何が言いたいのかというと、価値ある何かしらの小さなピースはあるぜってこと。
以上です。
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