Arnett Cobbインタビュー(1988) 後編
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CS: あなたはツアー後のバンドメンバーにオフ期間を与えた?
AC: 可能だったらオフ期間を設けてた。今のおれは疲れ切ってるけど、彼らはおれを揺り起こすんだ。みんな自分の体に鞭を打つことができるんだ。そんなことだから、リーダーであろうとなかろうと、サイドマンであろうとなかろうとこれらの変化に後れを取らないようにするのさ。
LJM: エージェントとの契約の取り決めはどれくらいちゃんとしていたの?
AC: おれのはそんなにフォーマルじゃなかったよ。実際一枚の契約書のも契約してなかった。おれのブッキングエージェントはNew YorkのUniversal Attractionsだった。
彼らはDinah WashingtonやThe Ravenとか抱えていたから当時多少の注目を集めていた。Ben Barneはすべてを取り仕切ってた。彼らがツアーのすべてをセッティングしてたんだ。
LJM: 結構危ない契約じゃない?
AC: そんなことないよ。その契約は互いに自由だったんだ。誠実さの問題だからね。彼は "約束が良くなかったりあなた自身にとって良くないことがあれば、人を介在させるよ。" と言ってたな。
LJM: キャリアの間ずっとあなたが決めた契約のようなものなの?
AC: 違う。 Universal AttractionsとBen Barnesだけで決めてた。Benは本当に良くしてくれた。おれらは親しい仲だったけどおれのコンサートはGayle Agencyとの仕事だった。
LJM: 決定されたエージェント料はいくらぐらいだった?
AC: おれは一晩で400ドル稼いでいた。800ドルから差し引いて400ドルがおれの取り分として保証されるってわけ。つまり400ドルはゲットできてたっていう意味さ。彼の取り分も同じくらいだろうな。おれらの折り合いがついた後は5:5もしくは6:4で分けるんだ。もちろんバンドメンバーはいつも報酬に満足してたよ。彼らはいつもそこにいるし、金銭面への目配せはかなりのものがあったよ。
CS: あなたがHamptonバンドに在籍していた際、2週間の休暇を使ってPjiladelphiaで演奏していたときのバンドの費用はどれくらいだった?
AC: 1,750ドルくらいだぅたと思う。
CS: どれくらいのミュージシャンに対して?
AC: おれは7人編成のグループを抱えてた。スリーリズムズ、フォーホーンズ。自分も含めてね。
CS: 彼らが受け取った額は同じ?
AC: 違う。何人かのミュージシャンは他より重要なポジションだったし、おれは助けを必要としていた。彼らが多く貰うことは自然だよ。すべてが同じ給料じゃないんだ。
CS: ミュージシャンがバンドを辞めたりする問題は無かった?
AC: 数ドルの違いで揉めても仕方ないだろ。もちろんそんなに潤沢な金も無いしさ。でも満たされていたら居続けるんだ。
CS: バンドメンバーは同じアレンジを何度も何度も演奏することに疲れていなかったの?
AC: そんなケースがあったとは思わない。すべては金だったんだ。もしバンドと長い時間いるんだったら新しい音楽を気にせずに演奏できるていることに感謝するぜ。おれはHamptonとやったすべての曲を覚えている。おれらは劇場で演奏した。オーディエンスも居たし、女の子も遊びに来てたよ。でもおれが聴き取っていたのはショーミュージックだけなんだ。
LJM: 基本給があったのか、個々の能力給どっちだったの?
AC: いつも基本給だったよ。おれはいつもそれに上乗せしていた。でもグループには他のメンバーよりも多くの額を貰うミュージャンもいたよ。おれにはもし自分がステージを降りたときの後継者になるであろう人間がいた。彼は多く報酬を貰っていて「straw boss(代理)」と呼ばれていた。おれがLionel Hamptonバンドでプレイしてるときに彼はバンドを去ったからおれが引き継いだんだ。おれはあの男のためにいろいろやったけどおれがそのユニフォームを受け継いだのさ。次の劇場のためにミュージシャンが選択してアイロン掛けしたユニフォームを見てみろよ。おれらは劇場のユニフォームとナイトユニフォームを持っていた。仕事だったからね。
LJM: 宣伝とか新作リリースってどうなの?そういうのを捌いてたのは誰?
AC: おれが自分のグループを持ってたとき、宣伝係の人を一人雇ってたんだ。宣伝のために週150ドルを払っていた。彼はおれらのプラカードを持って街から街へ車を走らせていた。
LJM: その宣伝は満足いくものだった?
AC: Oh, yes. もちろん。彼は週に150ドルと交通費を貰っていたから自腹を切る必要は無かった。彼は自分の車を持っていたからおれも乗っけてもらう特権があった。おれが交通手段として彼の車を気にしていたから彼はいろんな場所に行きたがってた。ちなみに彼は片腕しかなかったんだけどきちんとしていてパワフルな男だったよ。いつも多くの人に溶け込む誠実なやつだった。彼は人をいい気分にさせるんだ。そういうのを代表してた。
彼の名はJoe Turner。Joeはおれと6, 7か月一緒に仕事していた。おれがバンドを解散させて、その道から離れたから長くは一緒に入れなかったんだけどね。おれがバンドを持っていた時期の最後の方、最初のころから彼を雇っとけばよかったと思った。おれは彼を必要としていたが、彼を雇うのが遅すぎた。彼はおれと仕事する前は手が空いてなかったからね。でも彼はHamptonと仕事していたから、おれがHamptonバンドにいたとき彼と会ったんだ。
CS: なんであなたはバンドを解散したの?なにか問題があったの?
AC: おれは10歳のころに交通事故に遭った。そのことをお母さんに話せなかった。おれは映画を観に行くときに家から滑り落ちたんだ。映画の合間に大急ぎでサンドウィッチを買いにストリートへ行ったら、おれは小さかったし運転手はおれを見てなかったから走ってるおれは轢かれたんだ。誰かが救急車を呼んでくれたときにおれは起き上がって映画館に走ってたんだ。おれは自分が怪我したことを誰にも知ってほしくなかった。特にお母さんにはね。でもおれは後遺症に苦しんだ。おれはそれによってベッドから起きることや真っ直ぐ立つことがどれだけキツイかを誰にも話さなかった。最初は一日の何時間も真っ直ぐ立てたんだけど最終的には2回手術することになった。1948年と翌年の1949年に脊椎の手術して、1951年にお尻の手術をした。
LJM: 他のアクシデントに巻き込まれたりは?
AC: Connenticutであるよ。おれはおかしな証明システムから逃げてたんだ。Merritt Parkwayに行ってる間に気絶してしまって気づいたらガソリンスタンドだった。ナンバープレートの真ん中から木にぶつかったんだ。徐々に意識を取り戻し始めたとき、両足に違和感があった。おれは周りの人間に何かおかしいことは無いのかと尋ねた。おれの奥さんと生後3か月20日の娘がそばにいて、娘は泣いてたな。鳴き声で頭がガンガンしたよ。おれと奥さんは最悪な気分だったよ。彼らは要観察の48時間もの間奥さんを治療してくれた。彼女の腕は折れて、おれは病院にいたけど関節症の病院に転送された。おれは身を守るために足首から胸にかけてガチガチに固められていた。彼らはおれを包んだんだろうな。背中がこすれて脂ぎるんだ。そんな感じだったよ。
LJM: その事故はいつ?
AC: 脊椎の手術が1948年で、その事故が1956年6月26日。
LJM: その事故があなたのキャリアに大きな痛手となったの?
AC: ええとね、、多分最初から支障はあったはず。歯を失ったことがね。顎をきちんと引っ張るためにプラスチックの器具をつけていた。でも驚くことにそれはダメージを受けてなかったんだ。この歯で楽器を吹くことに慣れるのに3か月かかったよ。
LJM: 見てる人は絶対にそんなこと思いもしなかっただろうね。Houstonに持ち帰ったものはある?
AC: 事故のあと、おれはNew Yorkでキャリアを再開させようとした。冬までは大丈夫だった。雪が降ると両足が動かせなくなったんだ。靴に雪が入り込んじゃってさ。時には雪が深くて長靴にまで入ってくるんだ。だから俺はこう言った "おれのコンディションじゃここで暮らすのはちょっとキツすぎるぞ。どこか雪の降らない土地へ行こう。" ってね。そしてHoustonに帰ったんだ。
LJM: そこでもプロとして活動したの?
AC: そんなにバリバリはやってない。おれはHoustonでバンドを結成してハウスバンドとしてEbonyで仕事をしたよ。最終的におれがそのクラブをマネージメントすることになったんだけどね。Ebonyのハウスバンドを始めた後、ダウンタウンやストリップ劇場でも仕事をしたよ。充実していたんだけど病気にかかってしまったんだ。
ある晩、Paul Fenwoodがやってきて、そういう場所で仕事をしてることについていろいろ話した。彼は "おれが経営してるカフェで仕事をするべきだ" と言ったんだ。冗談だと思ったよ。彼はMain StreetでSidewalk Cafeを開いていた。その後Holcombe Boulevardに移転して名前も変わった。おれは彼の店へ行ってBobby Doyleトリオと仕事したよ。Kenny Rodgersがベースで、Russellがドラム。Kenny Rodgersがピアノを演奏していた。
LJM: あなたがHouston に戻ってきたとき、New Yorkのバンドは解散してきたの?
AC: うん。2月にバンドを解散して、6月に帰省したんだ。
LJM: あなたがHoustonに戻ったときLarkinにアテはあったの?
AC: 彼はしばらくNew Yorkにいたよ。
CS: 音楽のためにNew Yorkに戻るの?
AC: VillageにあるThe Locustという新しいクラブで演奏するために戻るよ。
LJM: 西海岸ではよくステージに立ってるの?
AC: 西海岸からのオファーはそんなに多くない。そこに行ったとき、全部がよその場所だよ。Los Angelesに近い場所で多くの人が演奏する機会がある場所はSan Diegoになるんだろうな。90マイル離れてる。すべてが遠いんだ。Oaklandと'Frisco とかね。すべてが離れすぎてるんだ。おれはずっと西海岸に対してそんなにピリピリしてないよ。
LJM: 海外に行き始めたのはいつ?
AC: 1973年。
LJM: 海外に行くようになった経緯は?
AC: 自分だけで海外に行くのが恐ろしかったから何年もの間ヨーロッパの公演を断ってたんだ。奥さんのお母さんも病床に臥してたから奥さんもお義母さんのもとを離れたくなかったみたいでさ。だから断ってた。
ある日、おれのお母さんがおれに "Baby もし私がお前なら、どこへだってに行くだろうね。だってあんたみたいに断り続けてる人間を向こうの人はいつまでも誘い続けるわけないだろ。行きたいと思ったときに行けなくなるよ。だった彼らは誘うのをやめちゃうんだから。" と言われた。だからおれはオファーに耳を傾けた。1973年、おれは仕事を引き受けて海外に行くようになったんだ。
CS: ヨーロッパでの最初のパフォーマンスはどこだったの?
AC: Paris。Parisの会社「Black and Blue」と仕事をしたんだ。
CS: 他にどこで演奏した?
AC: イタリア、ベルギー、オランダ、スイス、スペイン、スウェーデン、ノルウェーのOslo。これらはずっと行ってるよ。Osloに関しては一回行ったっきりだけだけど、とても良かったよ。またOsloに行く機会が無いんだよね。
CS: ドイツはどう?
AC: ドイツにはたくさん行ったよ。一番最近のトリップもドイツだった。おれはHamburgでたくさん仕事したよ。Hamburgにはいつもおれを呼んでくれるクラブがあるんだ。最後のトリップでおれはそこを三度訪れて2か月半滞在したよ。
CS: 東アジアで演奏したことはある?
AC: Yes. おれは日本にずっと行ってるよ。日本は美しい国だ。
LJM: 海外に行くときはひとりなの?それとも誰かを連れていくの?
AC: ほとんどがひとりだよ。一度だけ自分のグループを連れて行ったことがある。でもそのとき連れて行ったミュージシャンたちはFathead Newmanと2つの仕事をやっていた。それがおれがグループを海外に行ったときさ。グループと一緒に行くと費用がかさむんだよ!まず金は稼げない。彼らに報酬を払わなければいけないからね。一人で行くと全部自分の金になるからいいんだよ。
CS: あなたがその土地のハウスバンドを使うの?
AC: その通り。いいグループが世界中にいるんだ。夜を演出するためにね。おれはだれとでもプレイできるだろうぜ。問題ない。
LJM: あなたは普通どれくらいの期間ツアーを回ってるの?
AC: 2か月~3か月だね。直近の2つのツアーではあまり長く滞在しすぎないことにチャレンジしたよ。だってかなりのホームシックになってしまうからね。家に帰りたくなっちゃうんだ。最後のツアーは6週間。6週間がベターだよ。
LJM: 一般的にヨーロッパツアーはアメリカで演奏するよりもお金になるの?
AC: ここで演奏するよりヨーロッパで2, 3か月やったほうが稼げるよ。町の外れにあるからね。田舎ってわけじゃないし金が動くんだ。わかる?
LJM: あなたが海外を回ったとき、ジャズはどう受け入れられていた?
AC: ヨーロッパと日本はここよりもいい状態だよ。
LJM: リバイバルなの?それとも新鮮なモノとして受け取られているの?
AC: Louis Armstrongの時代からずっとジャズは受け入れられてるよ。彼らはアメリカのジャズを愛してるだけなんだ。アメリカ人みたいに演奏する素晴らしいミュージシャンが何人もいる。彼らはスタイルをコピーするんだ。
LJM: あなたが特にジャズの理解を感じたヨーロッパの国はある?
AC: フランスかな。フランスの人たちはジャズを愛してる。スイスの人もジャズを愛してるし、ジャズをプレイできる。だけどフランス程じゃない。スペインはとても良いコンサートだったよ。イタリアも間違いないね。ヨーロッパの人たちは食らわせるためにジャズをヘビーにひっくり返してない。ドイツは多くの国よりも熱気がある。でもフランスのジャズに対する熱気は他にはない。
LJM: 最初の海外ツアーであなたはどう受け取られたの?
AC: ほんとに良くしてくれたよ。ヨーロッパでもレコードやLionel Hamptonバンドの影響でそこそこ知名度があった。おれはそんなこと知らなかったよ。
LJM: 海外で自分のレコードが売れているのを知らなかぅたの?
AC: 当時からしたら結構珍しいことだったんだ。皆大金に騙されるんだ。おれは当時Apollo Companyに籍を置いていて、ブレイクしてることや海外の評判を知らなかった。Apollo Companyはおれを隔離してたんだよ!最終的に何が起こってるのかキャッチできたんだけどね。実際、おれのエージェントがそのことを話してくれた人だったんだ。彼はある日のミーティングでその話題を持ち出してきたんだ。
LJM: ヨーロッパでのあなたのレコードのの売り上げはしばらくのあったよね。
AC: そうだね。おれが知らなかっただけで彼らはおれのことを知ってた。そして彼らも儲けたんだ!
LJM: 彼らは相当稼いだらしいね。
AC: みたいだね。たんまりさ。
LJM: 最初のレコーディングを覚えてる?
AC: Jerry Jerome。Benny Goodmanと一緒に活動してた男でApollo Companyとも関係があったんだ。彼はおれがいたグループを聞いたときにレコーディングしなきゃと思った曲があったんだ。おれはかなり長い「When I Grow Too Old to Dream」って曲をアレンジしたんだ。彼はそれを調理した。彼はその曲をパート1とパート2に分けるのが良いと思ったんだ。そうやってこの曲がレコードのビッグチューンになったんだ。Jerryは活発な男だった。多くのことでおれを励ましてくれたのも彼さ。彼は経験豊富な男だったからね。早い時期のBenny GoodmanとLionel Hamptonと一緒に活動してたんだ。彼はその道を離れてレコードビジネスの先端に身を投じたんだ。サックス奏者でもあるからね。おれらは座ってセッションのこと、演奏のこと、レコードのことを話したよ。
LJM: よくレコードが百万枚売り上げたとかそんな話を聞くけど、あなたがレコードをカットしてるとき成功とされる利益はどれくらいだった?どれくらいレコードを売らなくちゃいけなかったの?
AC: もし4万枚から5万枚売ったならすごいって具合だったよ。レコード会社のサポートが重要だけど、根深い口コミも大事なんだ。
LJM: 全部で何枚レコードをカットした?
AC: かなり長いから正確には覚えてない。Houstonに帰る前に数えたときは一つの会社で22000枚。Barkeleyで8枚のレコードをカットして16000枚だと思う。複数の会社があって、今は会社の名前を思い出せないな。
LJM: じゃあヨーロッパで売れたレコードの枚数もわからないんだ?
AC: そうだね。もし真実を知っていたら、おれはもっと金をゲットするだろうな!
LJM: 遡って過去の売り上げを受け取れた?
AC: Yes.
LJM: どうやってそれをやったの?
AC: おれは自分が受け取るべきだった金のことと誰がそれを持っていたのかを聞いた。それはおれはその人と面識があったからすぐに分かった。金がそこにあったんだけどどれくらい正しくおれの金なのかわからない。誰も絶対にわからないんだ。金は悪。多くの人をそそのかすからね。
CS: あなたのレコードがラジオでプレイされてロイヤリティは入ってきた?
AC: ラジオでプレイされるごとに5パーセントのロイヤリティってやつをゲットするんだけど、ちゃんとした額は貰ってない。最初に関わったBMI【Broadcast Music Incorporated】はこれらの金の流れを管理していた。後になって彼らからロイヤリティが入ってくる。おれはBMIと共にある。彼らはどうやっているかわからない。ASCAPとBMIみたいな会社がバンドのロイヤリティを管理する唯一の団体なんだ。この二つの会社は同じタイプの会社だよ。
LJM: あなたが最後にレコードをカットしたのはいつ?
AC: Wortham Theaterのライブだよ。「Show Time」はおれがやった最後のレコーディングさ。あのレコーディングはTexas Jazz Archiveのためにやった。「Show Time」の前にやったレコーディングはBeehive recordsから出た「Keep On Pushin'」だよ。
CS: まだ流通してるの?
AC: アメリカではもう流通していない。他の国にならまだ売ってるかもしれない。おれと交渉をしていた男はビジネス度外視だった。彼の奥さんは彼を残してAtlantaに行っちゃった。だから彼は店じまいして彼女を追っかけたんだ。
LJM: あなたが共にやったバンドで思い出に残ってることは何?
AC: Lionel HamptonバンドはMilton LarkinとやったHoustonのローカルバンド以外ではおれが所属した唯一のバンドだ。Larkinのバンドではたくさん楽しませてもらった。めちゃめちゃいい16ピースバンドだったよ。
LJM: それはあなたがプライベートクラブで演奏してたとき?
AC: そう、一晩きりでね。もちろんEldorado Clubはおれらが拠点としてた場所さ。
LJM: リサーチを通してLarkinバンドがここにいたとき、多くのHoustonのバンド出身のミュージシャンが「rough time of it」をやっていたことを発見したよ。例えばSy Oliverが昔LarkinバンドがHoustonにきたときにやった「rough times」を思い出したりね。
AC: Yes. おれらのバンドは彼らと同じくらいいいサウンドだった。Larkinバンドは入念にリハーサルをしていい演奏をやってたグループさ。おれらも面白いことをやってると自分たちで思える良いバンドだった。これが良かった。それがどれくらい良かったのが今わかるよ。当時はそんなことわからなかった。そこにいた若者の多くのための楽しみだったんだ。
LJM: あなたはもその道へ行ったの?
AC: Yes. おれらはVirginiaに行った。1年の内3か月ぐらい演奏した。おれらは他の誰かと一緒に回らなければいけなかった。なぜならバンドはまだ知名度が無かったからね。だからおれらは「In the Dark」をレコーディングしたシンガーのLil Greenと回った。
LJM: グループのボーカリストが人気に何かを加えたと思った?
AC: ボーカルはサウンドを聞きやすくするんだ。軽くなるんだよな。良いことだよ。人々はシンガーの歌を聴くのが好きなんだよ。特に女性ボーカリストね。男はいつも女声を愛してた。
LJM: よくJewel Brownと仕事した?
AC: Jewelバンドとおれは2年半くらい断続的に活動してる。前にも彼女とおれは仕事してるんだ。おれは1960年に彼女をPaulのSidewalk Cafeに連れて行った。彼女がLouis Armstrongと活動する前にね。
LJM: Louis Armstrongとやる前の彼女はあなたのもとで歌っていたんだ?
AC: Yes. Louisはおれのバンドから彼女を引き抜いたんだ。
LJM: やっぱ彼の方が多く稼げるのかな?
AC: そうだとも!
LJM: あなたがArmstrongと演奏したことは?
AC: 彼のバンドでは無いけどNew YorkのFamous Doorで一緒に演奏したよ。おれはLionel Hamptonバンドで彼らはオープニングだった。ショーの始まりに大勢のセレブリティーが出演していた。Frank Sinatra, Benny Goodman, Jerry Jerome, Billy Eckstine。それからLionel Hamptonバンド, John Kirbyね。 Louis Armstrongのパフォーマンス時にHampとLouis Arm Strongが同じステージに立ったんだ。彼らは歌っていた。2人以外は歌えなかったよ。Louisは良いショーマンさ。楽しい夜だったよ。
LJM: Louis Armstrongはどんな特徴があった?一緒に仕事することに置いて彼は良い人間だった?
AC: おれは彼と仕事したことがない。誰もが仕事に関して彼のことを評価している。彼は人のビジネスに首を突っ込まない。実際、Armstrongは自分のバンドを仕切ってない。仕切っていたのは彼のマネージャーで彼はそれに乗っかってただけ。誰も彼と議論するチャンスはないんだ。だってArmstrongはすべてをマネージャーにゆだねていたからね。
CS: 彼はいつもハッピーだったのかな?
AC: ハッピー、、、、バンドから距離を取るには良い選択だよね。だっていつも気難しいミュージシャンに囲まれて頭痛に苦しむんだぜ?ほんとに気難しいよ。ただのリーダーでいてはいけない。ミュージシャンのひとりでいるんだ。
LJM: ほとんどの争いが給料とかの考えの相違だったの?
AC: いや、そんなに多くは無かったよ。ダンスのことやスポットライトのことじゃないかな?誰かがうろたえているときにそのことを知ることは絶対に無かった。ステージ上のことはわからない。もしバックステージに来たら知るだろうけど。
LJM: 最近、あなたの同僚のひとりがNew YorkやHoustonにアプローチする特異性があることを言及していたよ。
AC: New Yorkのミュージシャンは他の土地に対して演奏してたし、バンドリーダーも周りを意識してたんだ。彼らは誠実じゃなかった。金の問題だったのさ。彼らは良いバンドを作り上げるためにやろうという意識が無かった。数は少ないもののNew York周辺にこの特質を持っているミュージシャンがいた。彼らが団結したんだ!50,000人のメンバーがいると思うし、皆働いてないからニューヨークの良いミュージシャンは簡単に雇えるぜ。でもHoustonではそうはいかない。Houstonの良いミュージシャンのほとんどが働いていたからね。
LJM: ここHoustonでジャズのリバイバルやジャズ人気は続いてたりするの?
AC: 大学を通してジャズへの高い関心は続いてるよ。Lanny SteeleはTexas Southern Universityでそのことに尽力してるんだ。彼はそこで10年間教鞭を執っていて、質の良いジャズバンドも作った。Music Departmentで起こってることの中でも際立った功績を作ったんだ。
CS: 高等教育機関がジャズを無視してると思う?
AC: ある程度の範囲はそうだけど、彼らがジャズを貶めることはできないよ。彼らが言うことに意味は無いからね。人々がとやかく言う前に一人ひとりがやることがジャズなんだ。多くの人はできることで他人を判断する。お勉強したミュージシャンより良いプレイをする自己鍛錬したミュージシャンは大勢いる。もし音楽に「feel」を持ち合わせてないなら、それは機械だと思う。逆に言えばフィーリングを持っていたらジャズはできるってこと。おれは事実と経験を基に話している。お前がどれだけお勉強して知識を詰め込んだかなんておれには関係ない。もしおまえが心から音楽をやらないなら、演奏はできない。魂、フィーリングがないんだ。それはただ音符だけさ!
以上です。
契約書は無かったと言っていましたがよく騙されなかったな!と驚いてしまいました。ミュージシャンと契約の問題はよくある話ですからね。
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