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Chico Freemanインタビュー(2017)2/3

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イ: 当時のVonはあなたがサックスをプレイしてるのを知ってたの?

CF: 知らなかったよ。お父さんにそのことを話したかどうか覚えていない。
おれがBetty Louのバンドと共演したときお父さんはわかっていたんだか。当時の彼女を連れて行ったのを覚えてるよ。
Clifford JordanはJessie Taylorと一緒にそこにいた。おれはホーンを持っていって一緒にやりたいと話しかけた。少なくともおれはいくつかの曲を習得していたからね。やっぱりおれがVonの息子だからみんなおれのことを見ていた。おれが最終的にバンドスタンドに上がったとき、おれのサウンドはマジで最悪だったよ!おれはクラシックのマウスピースで演奏してた。そのマウスピースは大学のサックスカルテットではよかったんだけどね。今そこで演奏をしてるし、Cliffordがおれの次に控えている。CliffordはこのビックChicagoサウンドを持っているのに対しておれは誰かが紙を破くようなサウンドを鳴らしていた(笑)お父さんは恥ずかしくて "Oh, my god." と言ったと思うよ。

セッションの後おれはNorthwesternに引き上げるつもりだったところにお父さんから "待て、おれにちょっと付き合え。" と言われた。お父さんとおれを階段を上って、彼の部屋に行った。引き出しを開くと一杯のマウスピースがあった。お父さんはその中から一つを取り出して "ここでこれ試してみろ。" と言った。おれはそれをサックスに取り付けて試してみたらwow!って感じだった。夜通しやったよ。
お父さんは "それやるよ。お前のもんだ。自分のために買ったんだけど、お前の方が必要としてるから" と言ってマウスピースをプレゼントしてくれた(笑)次の日から新しいマウスピースを持っておれは自分のサックスでカルテットのリハーサルに行ったよ。最高にエキサイトしてたんだけどMr. Hemkeがおれらのやってる音楽をカウントすると、おれはboo, boo, ba, dee boo! とやるのさ。彼は "神よ!" って言って頭に手をやって "何が起こってるんだ?" って感じだった(笑)"新しいマウスピースをゲットしたんだ、特別なことじゃないぜ" と言ってやったよ。彼は"それは違うぜ!これはクラシカルなんだ!他のマウスピース持ってるか?" と言ってきた。最終的にまた切り替えざるを得なかったよ。おれが週末に練習に行くときはお父さんのマウスピースを使っていた。サックスカルテットでやってるときは別のマウスピースを使ってさ。次に家に帰るとお父さんがおれのことをすごく誇りに思っていた。

おれはNorthwesternの音楽専攻、副専攻数学を卒業したんだ。おれは数学の知識を駆使して自分の作曲に応用したよ。Muhal Richard Abramに会って作曲が開花したんだ。おれの最初のプロとしての仕事はバンドにいたDuck、Hamid Drakeという男との仕事だった。それが報酬を伴った最初の仕事だ。その仕事はR&Bバンドの仕事。
卒業した後、FredはおれとAdegokeにMuhalについて話してくれた。だからおれはAACMに行ったんだよ。AACM School of Musicに通って作曲と音楽をMuhalと共に学んだ。Muhalのビッグバンドの一員になり、George Lewis, Anthony Braxton, Amina Claudine Meyers, Gerald Donovan, Donald Myrick, Louis Satterfield, Michael Harrisに出会ったんだ。彼らはEarth, Wind&Fireのホーンセクションになっていく人たちだ。おれはKestutis Stanciauskasとブルースやフュージョンをプレイする仕事に関わっていた。KestutisはStreet Dancerというバンドを率いていた。おれは自分ができるすべてのことをやった。Buddy Guyと会ったりJesus Wayneとも共演したよ。おれらはEarth, Wind & Fireとも明るかったよ。とてもいい時間だった。Northwesternの音楽の授業を修了してもいたし、人に教える場を選ばなきゃいけなかった。おれはWillieや Jodie Christian, John Youngなどの仲間たちとプレイするお父さんを見たんだ。

イ: 自分のグループをやろうと決めたのはいつ?

CF: Muhalが背中を押してくれたんだ。おれはMuhalと作曲を学んでいた。Northwesternで作曲のクラスもとっていたし。そのクラスにいたCarlin Neil TesserとMusic Theoryの授業も取ってたな。
おれは常に自分の曲を書くことへの関心を持っていた。ピアノをやってた時からそう。当時片思いしてた娘に作った曲もあるぐらいだからね。おれめっちゃロマンティックだったんだよ(笑)Muhalはおれに大きな影響をもたらした。おれは彼とAACMで学んでたし、地下室にピアノがある彼の家に行ったりもしていた。その時にJames P. Johnsonとかのレジェンドたちの音楽を教えてくれた。それらの人のことを全然知らなかったんだ。Muhalは彼らから影響を受けていた。彼らの音楽を聴いてたまげたね。FredがおれにCharlie Parkerを教えてくれたようなことをMuhalもやったのさ。
ただMuhalの違うところは音楽を聴かせるだけでなくて解説や彼らの作曲方法をも教えてくれたんだ。彼は自分の作曲法があったからおれもそれを取り入れたのさ。おれは自分がやりたい音楽をやってたから自分のバンドをスタートさせたんだよ。自分の音楽をプレイするベストのやり方は自分のグループや環境を作ることだった。New Yorkに行ったときでさえそれは変わらないね。

イ: 最終的にNew Yorkに行くことになった経緯は?

CF: 少しだけ準備したよ。卒業した後Charles MingusがプレイしていたIllinoisのEvanstonにあるクラブやコンサートに足を運んでいたんだ。Charlesを見てたのを覚えている。バンドにはDon Pullenがいた。Danny Richmondがドラムで、Jack Walrathがトランペット、George Adamがサックスというバンド編成。Mingusはおれの友達が最初におれに紹介してくれたミュージシャンのひとりさ。だから彼らを観に行ったんだよ。ただMingusとプレイしたかったんだ。
おれはCharlesの下に駆け寄って "Mr. Mingus おれと一緒に演奏してくれませんか?" と言ったんだ。Mingusはこれを受けて "いいぜ。でもGeorgeにも聞いてみてくれ。" と言った。なんていい人なんだと思ったよ、めっちゃ感動した。その後George Adamsのところに行って "Mr. Adams 一緒に演奏してもらっていいですか?Mr. Mingusはあなたがいいならやると言ってくれました。" と言った。"Yeah, もちろんだ、やろうぜ" とGeorgeは言ってくれた。

Mingusはブルースとかそんなのをやるんだと思っていたんだ。彼は自身の曲を引っ張り出してきた。それらは5つのミュージックスタンドに及んでいたようだったよ(笑)演奏の後、おれはハッピーだった、Georgeに感謝を伝えてMingusに声を掛けに行った。椅子に座っている彼に、"Thank you, Mr. Mingus. 本当に感謝してるよ。" と言った。すると彼は "Hey, おまえさんはNew Yorkに来るべきだ。おれらは毎週土曜にBoomersやってるから、New Yorkに来たら観に来いよ。" と言ってくれた。それがおれに少しだけ未来への自信を与えてくれたんだ。

イ: それは何年の出来事?

CF: 70年代の中盤か後半だね。おれは博士号をとるためにがんばってたし、Governors State Universityに行く予定だった。おれの教授はWarrick Carterだった。彼は後にChicagoのColumbia Collegeの学部長になった。彼がBostonのBerklee Collegeに行ってミュージックプログラムの出向く前ね。おれがGovernors State Universityに行って博士号のために勉強していたとき、Warrckはおれのインストラクターで素晴らしいバンドを有していた。そのバンドにはトロンボーンにBilly Howellもいたんだよ。素晴らしいミュージシャン達が集っていたのさ。 
Notre DameでIntercollegiate Jazz Institute competitionっていうコンペティションがあった、今でいうMonk周辺がやってることみたいなやつ。North Texas StateからCaliforniaジャズプログラムをやっていたすべての大学がNotre Dameに来て競い合ったんだ。バンドと自分のためにコンペティションするんだ、すべての楽器でね。Governors Stateのバンドは賞を5,6個獲っていたね。その内2つはおれだよ。ベストサクスフォニストとベストソロイスト。Vandy Harrisがヤバかった、彼はベストコンポーザー賞を獲ってたね。おれらのボーカリストたちはベストボーカル賞を獲ってたし、おれらはベストバンド賞だった。おれらは勝者として特別交換授業の一部をやったり、ブラジルのSan Pauloへ行く機会をゲットした。
おれらはまず最初にNew Yorkへ行かなくてはならず、Henry ThreadgillとFred Andersonは早い段階からNew Yorkへ行く自覚的な努力をしていたんだ。おれはSan Pauloに3週間滞在したよ。New Yorkに戻った後、Fredに何日か泊まらせてくれと頼んだんだ。おれは彼に "せっかくNew Yorkに行けるチャンスがあるから、少し見物したいんだ" ってね。おれは自分のチケットを変更してFredの家に居候した。彼はLower East Side, Third AvenueにあるTin Palaceという場所の上にあるロフトに住んでいた。David MurrayとPhillip Wilson, Stanley Crouchもそこに住んでいた。おれは3日間そこに滞在してChicagoに戻ったんだ。

HenryはJeanne Leeと地下のクラブで働いて、夜になればそこで演奏していた。The Tin Palaceはそれが大好きで、みんな彼らが次の週に戻ってくることを求めていた。だけどHenryはプロ仕事のためにChicagoへ行かなくてはいけなかったんだ。彼はおれにChicagoに行っている間の留守番を頼んだ。おれはそのためにNew Yorkへの滞在を延長しなくちゃいけなかった。だからHenryが不在の間おれはJeanne Leeと週末に演奏したんだ。そこのクラブはJeanneを本当に好み、来週末も彼女が来るようオファーしていた。だから彼女はおれにできることなら一緒に来て欲しいと頼んできた。おれの3日間は1週間に延び、その1週間もまた延長することになったのさ。その期間にOlu Daraに出会うことになった。彼がDr. GenerosityのクラブでMickey Bassとプレイしていた。彼はそこにおれも誘ってくれたのさ。次第にそこで彼らとつるむようになっていった。
Michael CarvinがドラムでKlane Zawadiがユーフォニアム。Michey Bassとの演奏はただただ楽しかったな。Micheyもそれを楽しんでいたよ。だから彼はおれをNew Yorkに留まらせるために雇ったんだ。そのバンドは1ヶ月間毎週働いていた。おれの3日間は1か月になっちまった。これ以上Fredの家に居候してられないなと感じたから、彼に自分の部屋が欲しいということを話したんだ。何日か公園のベンチで寝泊まりしたりね(笑)
John StubblefieldはCecil McBeeと演奏していたし、Nat Adderleyとも演奏していた。だから彼はおれにもそこに来てCecilと演奏するように頼んだんだ。これが最終的にNew Yorkに残ることになった理由さ。おれはChicagoに帰らなかった。

イ: 曲でも言ってるよね。"One thing leads to another.(次から次へと)" って。

CF: おれはNew Yorkで大きな成功を手にしたと言わせてくれ。Sun Raともプレイして、その後にElvin Jonesバンドに加わってレコーディングもやったよ。Jack Dejohnette's Special Editionで5年間やったりもしたよ。McCoy Tynerとも5年間やったな。Elvinはおれに最初のレコーディングの機会を与えてくれた。それからIndia NavigationとのBob Cummingに会ったよ。Don Pullenと再び一緒になる機会があってDon Pullenのバンド、Warriorsに加わったりね。おれは遅れつつもThe Leadersというバンドを始めたんだ。そのバンドの最初のピアニストがDon Pullenだった。トランペットにDon Cherry, アルトサックスがArthur Blythe, ベースがCecil McBee, ドラムがFamadou Don Moya。Raggie Workmanを含むJohn Coltrane Quartetの自分のヒーローたちと働くチャンスをゲットしたのさ。おれが一緒に働くことができなかった唯一の人間はJimmy Garrisonさ。彼はすでに他界してたからね。

以上です。続きは来週アップします。

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