Roy Haynesインタビュー(2019)後半
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CM: Birdの後ろで演奏して、ボムをドロップして、スネアドラムで素晴らしい曲を叩きだしてたよね。
そこにはMaxやあなたがいた。あなたたちは演奏はボクサーみたいだよね。Milesもそういうことを言ってたと認識してるよ。あなたはジャブやスティック&ムーブをやってたよね。あなたはいつもそんな風に演奏していたと想像できるよ。あなたがElla FitzgeraldとのgigをBirdと共に演奏していた時間らへんもそうだったよね。
私が思ってることはあなたがSarah Vaughanのバンドに加入する前だった?それとも後?
RH: まず最初に、これまで素晴らしいシンガーと演奏していたと言わせてくれ。おれらはProvidence, Rhode Islandで演奏していたよ。1952年だったと思う。Hank Jonesがピアニスト、Nelson BoydはMilesの "Half Nelson" で演奏していた。この曲はNelson Boydに捧げられている。
おれらはProvidenceのクラブでEllaとセッションをした。当時はオルガントリオはとても人気だったよ。おれらはEllaとレパートリーをやった。その後、週末に彼らはオルガントリオを持ってきて大ウケさ。本当にすごかった。
ドラマーが誰だったか覚えてないけど、EllaはおれとHank Jones, Nelsonに怒っていた。彼女は "おまえはマザファッカーか?全然スウィングしてない。どうした?" と言ってきた。おれはひとりのドラマーとして、アティチュードを持っていた。Hank Jones, Nelson Boydと演奏していて、おれがスウィングしていないだと?シンガーたちと仕事しているときにたくさんのものを得るぜ。Ellaはスウィングできていた。彼女はスウィングできていたんだ。
CM: あなたがオルガントリオをそんな感じで聴いたとき、観衆が飛び跳ねて、叫んでいたのを見たと思うんだけど、あなたはSarah Vaughanのグループに加入してたのはいつ?
RH: 1953年。おれはいつもSarahのことが好きだった。SarahはDizzyとレコードを制作してた。Birdも参加してたかどうかはわからない。おれが最初にSarahを聞いたときはEarl Hinesと一緒にやってたな。
おれがPrezと活動してたとき、おれらはChicagoのBlue Noteと呼ばれる場所で演奏していた。おれが彼女と同伴しないといけなかったから、彼らはSarahとLester Youngを雇った。
CM: 彼女があなたに電報を送ったのか、彼女が来てBirdのgigからあなたを連れてったのかどっち?
RH: ええと、当時おれらは互いのことを良く知っていた。彼女の旦那さんであり、マネージャーだったのがGeorge Treadwell。おれはいろんなとこでgigをやっていた。Joe Benjaminがベースを弾いていて、彼女はおれとBenjaminを引き抜いたんだ。それが1953年。おれがElla Fitzgeraldと演奏してたのが1952年の夏だった。
CM: EllaとSarahとは立て続けだね。Srah Vaughanについてもっと話してよ。
RH: Sarah Vaughan..... 彼女は本当に良く遊んでいた。
おれはPhiladelphiaで彼女のバンドに加わった。オープニングナイトでピアニストが日にちを間違ったからおれらはダウンタウンのスピークイージーの一つの場、Rendezvousっていう場所でピアノ抜きでショーをやったよ。その夜のSarahはものすごかったよ。彼女はすごくいいピアニストさ。
その夜が終わると彼女は遊びに行きたがっていた。だからおれらはSouth Philadelphiaに向かった。Piesという遅くまでやってる店があったと思う。あの夜は自分の車を走らせていた。その車は初めて自分で買ったコンバーチブルの車。その車でおれらは遊びに行った。彼女はGordonのジンを飲んでた。これはコマーシャルじゃないよ。いつも彼女はそれをオーダーしてた。 "彼にも同じのひとつ頂戴。" と言ってたね。おれが運転だってのに。
まず最初に、店側はおれらに入店してほしくなかった。なぜなら彼らはおれらのことを知らなかったからね。おれとおれの連れとSarah。Sarahはおれをなじり続けた。"私が誰なのかを言ってきてよ。" って言ってさ。だからおれは言ったんだ "彼女はSarah Vaughanだよ、" ってね。すると彼らはおれらに "Uh, まじかよ。" って言った。彼らは彼らがSarah Vaughanを知ってると思う人間を呼んでこないといけないことになってしまった。おれらは入店してGordonのジンを飲んだ。次の日の10時まで店にいたよ。これがおれがSarahと初めて演奏したときさ。1953年の出来事ね。おれが初めて二日酔いになった日でもある。
おれらはBirdlandで演奏したり、一晩で4, 5セットのショーをやったり、夜10時から朝の4時まで演奏したりもした。土曜の夜とかね。おれらは遊んでAtlantic Cityまでドライブして夜通し遊ぶんだ。彼らは朝食のようなものをClub Harlemのショーに持ってきてた。その後おれらは車に乗り込んで、日曜のショーをやるために帰るのさ。とても素晴らしい日々だった。
CM: あなたは'53年から'58年にかけてSarahと活動してたよね。これからその2年後の話がしたいと思ってる。
1960年に投票によってあなたは年間ベストドレスメンのひとりに選出されたよね。今の人はあなたがヒップじゃないと受け取ってるけど、ドラムも含めてヒップだったよね。彼は輝かしい人、最も需要があるスタイルのカウンセラーとして知られ続けている。
今日のMr. Haynesへの私の献身は自己ベストだったよ。カウボーイブーツは持ってなかったけど、あなたからこれらを引き出したよ。[クリスチャンはファンシーブーツを見せびらかす(笑)]
RH: さあ先に進めよう。質問してもいいか?これらのシューズを履いてベースを演奏できるか?
CM: Yeah, でも少ししたら傷むよね。僕が最初にRoy Haynesを見たとき、あなたはハットと尖ったブーツを身に着けてヒップに演奏してた。僕はそこにいたんだよ。あなたみたいになりたい。
RH: おれはまだあの雑誌を持ってるよ。音楽を聴いている2人の若い男がいた。おれとMiles Davisさ。その他はWalter Pidgeon, Fred Astaire。「The Art of Wearing Clothes」という記事で、George Frazierによって書かれていたな。彼はMilesのライナーノーツも手掛けている。おれがそこにいた唯一の理由は、おれとMilesが同じテーラーに頼んでいたから。当時、おれがスーツを着込んでしっかりドレスアップしていた。いまは少しカジュアルな感じだけどね。
スーツを着ていた期間、おれはドラムを演奏するよりも服装で遊んでいた。おれがPhiladelphiaに行ったとき、若いヒップな奴らがおれがどんな服装をしているのか見に来ていた。昔の話さ、彼らは楽器を演奏していない人々をHarlemに連れてった。その後、ロックが始まったんだ。今の奴らはスニーカーでgigをやりにくるよ。昔じゃありえないだろ。
CM: あなたがJohn Coltraneと一緒に演奏したときのことを教えて。
RH: とてもシリアスだったよ。Coltraneはバラードを演奏していて、激しさについて話していたよ。彼はキッズだったよ。Sarah Vaughanとスローに良い演奏をやった後さ。Wow. あれは終わったんだ。[彼の胸の鼓動を表現しながら]
CM: Mingusについて聞かせて。
RH: MingusはRed NorvoとTal Farlowと演奏してた。Ray Brownはおれにこう言った "イーストサイドのEmbersへ行こうぜ。"ってね。おれらはウェストサイドのBroadwayのBirdlandを去った。RayはおれをMingusに紹介して、RayがCalifolniaで初めてMingusと会ったことを話してくれた。そこでは誰かがけんかしていて、Mingusもそのクソなけんかに加わっていたんだってさ。Rayはそのけんかに飛び込んだらしい。Ray Brown面白いよね。おれらはgigをやりにヨーロッパに行ったんだけど、そこでおれのバッグが紛失したんだ。Rayは "Roy Haynes, 初めておまえがfunkyに映ったぜ。" と言っていた。
CM: Monkとの演奏にどう漕ぎつけたの?
RH: おれにとってMonkはとてもヒップだ。彼がBud Powellとやってるずっと昔からね。彼がColeman HawkinsとBostonに来たときにMonkと会った・だからおれは早くにMonkと会ってるんだよ。
New York時代、そんなに多くのミュージシャンがいたわけではなかった。もし若い一人の青年があの町に来たら、みんながみんなMonkのことを知るんだ。おれらは40年代、50年代、今でも近しい仲だよ。今若いやつは別の町からNew Yorkにやってきてマネージャーをゲットする、今が良い時代だぜ。そこから仕事しなくちゃいけなくなり、身の回りの料金を払わなくちゃな。たくさんの仕事や金は無かった。でもたくさんの愛や親切はあったよ。
Harlemではいろんな人間に会える。ある日おれは126th Streetと8th Avenueに立ってた。Louis Armstrongのバンドが南部のツアーの準備をしていたからそのバスがそこに停まってたんだ。Armstrongから "おーいRoy Haynes!おれらのドラマーが病気になったからドラマーが必要なんだ。" と言われた。おれは149th Streetに住んでいた。おれはそのバスに乗って、自分のバッグを持って行ったんだ。するとLouis Armstrongが "自分のドラムは要らないぞ。" と言った。おれは彼のバンドとバスで南部の6公演に向かった。
おれらはそんなに跳ねなかった。Armstrongのビッグバンドにいたドラマーとリードトランぺッターといつもタイトだった。そんなドラマーの代役なんだぜ。彼らバンドはドラムパートが絶対にあるんだ。彼はおれに全部教えてくれた。忘れるな。Roy HaynesはLouis Armstrongと共演したんだ。ノートに取っとけ。
CM: Jazz at PhilharmonicとBuddy Richについて教えて。
RH: ヘビーなやつだよ。だってここで事が起きてたんだ。Charlie Parkerがたくさんおれにこの話をした。
彼にはレコーディングの予定がたくさんあった。Norman Granzが誰か使える人間を探していて、Parkerがいろんな人に声をかけた。ドラムに関してBirdは言うんだ "おれはRoy Haynesを起用するよ。" ってね。そしたらGranzが "なんだと?Buddy Richを差し置いてRoy Haynesを使うのか?" って言うんだ。おれはずっと後にNorman GranzをLondonで見た。そして彼にそのことを尋ねたんだ。彼曰く、Charlie Parkerは嘘をついていたんだって。おれが信じるかっての。
1950年、Jazz at the Philharmonicが活動してた頃、彼らはいつも一晩に2公演やっていた。午後8時にNewarkのMosque Theatreで開演してその後にNew YorkのCarnegie Hallの深夜だった。次の日の彼らはWashington, D.C.に行くんだ。
日曜の朝、ホテルのおれの部屋がノックされた。Charlie Parkerのローディーが "Buddy Richが演奏しないから、あなたもWashintongへ来なきゃいけないよ。" と言うんだ。おれは自分のドラムを持ってなかったけどBuddyのドラムがそこにあった。おれはCharlie Parkerと最初のショーへ向かった。おれはBirdとBuddy Richの間に何が起こっていたのかは知らない。でもCharlie Parkerはおれに仕事を振ったんだ。おれはgigに臨んで、ドラムと対峙した。それらの日々の中でいろいろなことを学んだな。他人の楽器を演奏したり、調整したりすることなんて絶対ないだろ。
Buddyはそこに立ってた。Buddyは "Royは連中のようだ!" と言った。的を得た言葉だよね。何も変えるな、何も動かすな、あの曲をやるな、彼らのように演奏しろということを意味していた。彼は少しピリついていた。おれらはあの日について言いたいことが少しある。Buddyとおれは後に仲良くなるんだ。自分のトップダウンのコンバーチブルでWest Side Highwayをドライブしていた時を思い出す。誰かがおれに急接近してきて "Roy Haynes!!" と叫んだんだ。その誰かったのがBuddy Richだった。
CM: あなたとMilesはPhiladelphiaでドラッグレースをやらなかったの?
RH: Yeah, でもそれはNew YorkのCentral Parkで深夜やってた。おれらはそれをColeman HawkinsとBilly Eckstineから知った。おれとMilesは彼らの背中を見ていた。HawkinsとEckstineはドライビングと車に入れ込んでいた。彼らはCentral Parkを時速90マイルでかっ飛ばしてたね。カーブで電柱に衝突して、もう一つの電柱まで飛んで行ってしまうんだ。そしたら全部おじゃんさ。その後Tony Williamsが小さい車に乗ってきて、彼も車を走らせていたね。Boom, 高速車線をひとっ飛びさ。あんな日々はもう終わったんだ。man。
CM: 確かに。John Coltraneと活動した数年後、あなたは伝説的なアルバムを作ったね。Chick Coreaとの「Now He Sings, Now He Sobs」は僕たちの多くにとても影響を与えた。Chickとはどう出会ったの?あなたたいはStan Getzと一緒の演奏してるね。
RH: おれはChickのお父さんを知ってた。彼のお父さんはBostonエリアのミュージシャンだった。Stanとプレイしたときに仲良くなった。おれがChickを雇った場所でいくつかのgigをやったよ。
実際おれが1969年の後半か1970年の最初にHip Ensembleを始めたとき、おれらはChickの家でリハーサルをしていたんだ。彼の家はQueensにあった。おれらは46th StreetのSceneっていうアシッドロックでショーをやっていた。
テナーサックスにGeorge Adams、トランペットにCharlies Sullivanがトランペットね。Chickは ”Man, おまえはバンドのまとめ方をよく知ってるな。” って言ってた。おれらは何人かのシンガーが歌うBeatlesの曲と一緒に演奏しないといけなかった。Richie Havensはおれらのショーを観に来た。Jimi Hendrixも最後の夜に来てシャンパンを開けてくれた。最終的にステージに上がってたね。君の履いてるシューズみたいのをおれも履いてたよ。当時はAcid rockだったからすべてそこにあったんだ。限界なんてなかった。
CM: 今、私たちは80年代の話をしてるよ。あなたはJohn Coltraneへのトリビュートで最初のグラミーを獲って、受賞スピーチをやったね。
RH: Yeah, Davis Murrayもそこにいた。けど彼はバルコニーに上がっていた。彼が下りてくるころにはおれはすでに話し終えていた。賞を獲ったことに驚いたよね。
聴衆1: 共演してない人でやりたい人はいますか?
RH: Ornette Coleman。彼が最初にNew Yorkに来た時にFive Spotで一緒にジャムったよ。そこから一度もやってない。面白いことになったと思うんだ。去年、Carnegie Hallでなにか計画があったんだけど実現しなかった。おれらは前に共演したのかと思ってた。
聴衆1: 世界はあなたとOrnetteの共演を望んでいる。神の御慈悲を。
聴衆2: あなたがバリバリやってた頃、お気に入りのベース奏者はいた?
RH: よく聞かれるよその質問。難しいんだよな。Paul Chambersはその一人に挙げられるだろうね。彼は過小評価されてる。ライターや批評家の多くは他の人に言及するけど、それはおれをがっかりさせるんだ。
マスコミは今でもがっかりさせることしかやれない。それこそおれが今日Christianと一緒にいることを誇りに思う理由さ。おれらは一緒に演奏して、ベース奏者のフィーリングを知っている。リアルな奴をね。おれのコンセプトではときどきおれはフワフワしてるんだ。おれは夢想家で考え込んでしまうんだ。
一度、ChicagoでColtraneとMcCoyとバンドスタンドに立った。Traneは曲をカウントしないで、キューを出した。彼はすぐに演奏を始めるんだ。おれはスタートをしくじることに神経質になっていた。でも一回だけ本当のタイミングを見つけ出したんだ。hey, おれを一人にしてくれ。おれはコツを掴むだろうぜ。おれはメトロームじゃない。気楽に行こうぜ。
聴衆2: 私はいつもモダンでいようとする他の人たちから差別化させることを考えてるんだ。いつもモダンであることについて語るジャズアーティストをたくさん知っているけど、それは彼らが彼ら自身にそれをやるように話さなければいけないように思えた。あなたはそれをすぐにやってる。笑って楽しそうにいつもすべてのトップにいるよね。
僕はあなたのやるファンクやヒッピーミュージック、素晴らしいスウィングを聴いていた。どうこれをやるの?
RH: 答えるのが難しいなぁ。ええと、左側にあるものを見てみな。そこは心臓で、ドラムがハートビートなんだ。おれはそこから、フィーリングから出すんだ。
聴衆2: あなたが82歳ということにただただ驚くばかりだよ。ごめんね。その歳でPat Methenyとやれる人間を他に知らない。私たちが82歳になったときあなたがやることをできるようになりたいね。
RH: 人々は ”あなたの秘密は何?” って聞いてくるんだ。ドラムに対するアプローチや所謂ジャズに関することで秘密があるなんて考えたことない。おれはみんなが言うようなフィーリングに基づいて演奏している。おれは特に先鋭的なことはやろうとしてなかった。多くはホーンとドラムロールのストリートサウンドだし、ゲットーのストリートによるマーチングみたいなものなんだ。
聴衆2: ストリートの要素は重要だね。ジャズキャッツの多くはストリートを怖がってる。
RH: それがラッパーたちがとてもヒップで大金を稼いでる理由だろ。
以上です。
82歳でずっと昔からブラックミュージックに関わってきた身ありながらヒップホップを否定しない姿勢はとてもかっこいいですね。
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