Charlie Parkerインタビュー(1954)
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Charlie Parkerが思う「あるべきサウンド」、誰がそのサウンドに向かっているのか、彼はその驚くべきチョップをどう手に入れたのかを語っている。
PD=Paul Desmond
JM=John McLellan
PD: レコードに演奏を吹き込む良いミュージャンはたくさんいるけど、あのアルトのスタイルは他と違うし、前例を見ないよね。当時あなたがやっていたジャズがその先10年のシーン全体を変えてしまうほどの影響を与えたことに気づいた?
CP: 言ってしまえば全然そんなこと自覚してなかった。特別なんて考えてもいなかったよ。
JM: ひとつ質問したいことがある。なんで最終的にこれほどまで大きな変化があったのか、その理由を知りたい。
今の今までアルトサックスの演奏の仕方はJohnny HodgesとBenny Carterのそれだ。そしてこれは全く違うコンセプトのように思える。何か特定のホーンの演奏法に限らず、音楽全体でも。
PD: Yeah, いろんなホーンをどうやってプレイするのかだね。
CP: Yeah, 答えとかはないんじゃないかな....
CP: 最初におれが言ったこと。自分の最初のコンセプトがあれ。おれがそうあるべきと思うやり方だし、おれはそれをやってる。音楽はもっと良くなるってこと。25年、いや50年先ぐらいは若いミュージシャンはそのスタイルをフォローして、マジでそれに関することをやるだろうな。わかるか?
今までおれは聞いてきた音楽のことをなるべくクリーン、正確なものであるべきと思っていた。理解できない人たちもいるけど、美しいものなんだよ。間違いないストーリーがあるのさ、音楽的な言葉で語られるべきストーリーに次ぐストーリーだぜ。しかしそれはベーシックな表現方法以外で表すのは難しい。音楽の基本はメロディー、ハーモニー、リズムだ。人々は音楽に関してそれ以上のことがやれるって意味ね。それはありとあらゆる面ですごく表現的なんだ。わかるか?いかなる立場でも同じことが言える。賛同してくれるかいPaul?
PD: Yeah, 誰しも常に話すべきストーリーを紡いでる。今まで聞いたParkerの話で最も心に響いた話の一つだね。
CP: ちょっとしたことだよ。おれがこうあるべきと考えてる話さ。
PD: 少し視点を変えようか。Parkerのプレイの主な要素は何と言っても凄まじいテクニックだよね。肩を並べる人間はいない。おれもいつも不思議に思っていたんだ。そのテクニックは練習によるものなのか、演奏時に自然に出るものなのか、どんどん進化しているものなのか。
CP: 人に説明するのは難しいんだ。あれの素晴らしさって正確に説明できないでしょ。おれはホーンに勉強したことをふんだんに盛り込んでる、それは間違いない。おれら家族がWestに住んでいた頃、近所の人間が出ていくようにおれの母親を脅したことがあったんだ。お母さんはこう言った "奴らはこのホーンで追っ払ってやったよ" って。おれが一日に少なくとも11~15時間練習してたからかな。
PD: Yes, それが不思議に感じるところなんだよね。
CP: 本当の話さ。それぐらい練習してる時期が3,4年はあった。
PD: Oh yeah, それが答えだと思うよ。
CP: まあ事実だろうな(笑)
PD: 2か月前にParkerのレコードを聴いたんだけど、なんだけっな.... Kloseから引用した2小節を聴いたよ。家のエコーみたいな....
CP: Yeah, yeah. あれは本ですべてやったんだ。自然にね。全部じゃないけど、本からの着想でやったんだ。
PD: あのレコードはすごく安心して聴ける。あれからどうにかおれが掴んだ情報はParkerがあのテクニックでホーンをプレイしてるってことだけだったから。あのレコードを聴いてる人間はParkerの仕事に関して心配する必要は無かっただろうな。
JM: 彼がこのポイントを突いたことをうれしく思う。だってたくさんの若いミュージシャンが陥りがちな考えは...
PD: 若いミュージシャンはそうなるわな...
JM: これをやる必要は無い。
PD: これらのセッションをやってのうのうとするんだけど、彼らは一日11時間理論に基づいて音楽と向き合うことは無い。
CP: 間違いない。すべてのカタチで勉強は絶対に必要だ。他の何者かとして生まれた才能のような感じだ。それはまるでピカピカに磨いた直後の靴みたいなもんさ。まるで教育が世界中で通用する礼儀を生み出すように。Einsteinは教育を受けたけど、彼は天才だった、そうだろ?彼自身がそれを秘めていたんだ。教育はこの世で最もワンダフルなものの一つ。わかるか?
JM: Parkerがそれを言ったのが聞けてうれしいよ。
CP: これは絶対に正しい。
PD: 他のレコードは?
CP: この話に時間をかけていいの?
JM: おれは少し話題を変えたい。「Night and Day」だな。Charlie Parkerのレコードのひとつ。これってバンドとかストリングスとのやつだったよね?
CP: No, これはライブバンドのやつ。19人編成ぐらいの規模だったと思う。
JM: これを聴いて、まつわる話をしない?
PD: Charlie, これはあなたとDizが協力し始める時期を感じるよね。次のレコードに行こうか。Dizzy Gilespieに最初にあった場所はどこ?
CP: ええと、最初にちゃんと彼と会ったのは1939年、New YorkのSavoy Ballroomのバンドスタンドだったっけ。前はNew Yorkにずっといたんだけど、Westに戻ってバンドに再加入してそれからまたNew Yorkに戻ったんだ。ある夜Dizzyが来たんだ。たしかその時DizzyはCab Callowayのバンドとの仕事だったと思う。彼はバンドスタンドに座って、おれはそれに釘付けになっていた。それからおれらはかなり親しい友達になって、今に至るってわけだ。Dizzy Gillespieと会ったのはそれが最初。
PD: あなたと一緒にやる前からDizzyは同じプレイの仕方だった?
CP: 正確には覚えてない。だけど彼の演奏はどこかお国訛りのような感じがしたって印象があるな。ぶかぶかホーンを鳴らすんだ、わかるか?
PD: ぶかぶか?
CP: Yeah.
PD: Ok.
CP: そうさ、急いで一気にホーンを拭ききるみたいな感じ、わかる?
PD: right.
CP: おれらはいろんな場所に出入りしてジャムセッションをやってた。あんときめっちゃ楽しかったな~、少ししてからMc Shannのバンドがまた西海岸に行ったんだ。おれも彼らについて行った。New Yorkに帰ってきてDizzyと再び会った。1
941年のHinesのグループにDizzyとおれは加わった。おれはNew Yorkにいたんだ。おれらは一年ぐらいそのバンドにいた。Earl Hines、Dizzy Gillespie、Sarah Vaughn、Billy Eckstine、Gali Brovkman、Thomas Crumpっていう面々だったな。Shadow Wilsonもいた。世界中で知られている名前がたくさんそこにいたんだ。あのバンドにな。
PD: そうそうたるメンツだな。
CP: '41年にバンドは解散した。'42年にDizzyはThree Deucesで自身のちょっとしたコンビネーションを作った。New Yorkでおれは彼のバンドに加入した。あれは今のミュージシャンがやろうとしているレコードだ。おれらが'42年にNew Yorkにやったんだ。
PD: Parkerが入ったBilly Bergのバンドが、おれが聞いた最初のディググループだったと思う。
CP: Oh, yes. でもあれは'45年でちょっと後だな。
PD: めっちゃ勘違いしてたわ。
CP: Oh, 落ち込むなよ。謙虚さなんて何の役にも立たないぜ。
PD: おれはヒップだ(笑)
JM: 1942年の曲をかけていいか?
PD: Yeah.
JM: OK. これはDizzyとCharlieの「Groovin' High」
JM: 多分これはSlam StewartとRemo Palmieriだと思う。誰がピアノをやってるかはわからないな。
CP: Clyde Hartだと思うよ。
PD: おれもそう思う。
CP: それからBig Sid Catlett、今は亡くなっちゃったけどね。
PD: 誰もが'42年のNew Yorkはヤバかったって言うとね。
CP: Yeah, New Yorkはね。当時は良い時代だったよ。Paulはわかるっしょ?
PD: Oh, Yeah.
CP: みんな若かった。
PD: そのことについて教えて。
CP: ええと、おれは金がない若者だったってことを言おうとしたんだ。
PD: Parkerお爺ちゃんがここでする話をよく聴いとけ。
CP: 演奏以外やることなかった。わかるか?おれらは演奏することにかなりの喜びを感じていたんだ。たくさんのジャムセッションをやったよ。深い時間のやつをね。美味しい食べ物もたんまりあったし、きれいな住居もあった。だけど基本的に貧乏だったんだ。
PD: それが本当に良かったんだ。何の心配もしてなくてさ。
CP: そういういい面もあるのさ。人生においてはね。間違いなく。
PD; ぼんやりと続けるっていうシチュエーションが好きなの?
CP: おれがそう言うのが好もうがそうでなかろが、実際にそうだったんだ。上手く着地できて本当にうれしいよ。
PD: Yes.
CP: Yeah, 実際のところ貧乏な状況をもちょっとは楽しんでたんだけどね。出会った面々と一緒に仕事をするのは楽しかったんだ。他の若い仲間たちとも会ってたよ。楽しく仕事をやってる時期にやっていたのは彼らとの仕事だ。Paul君のことだよ。
PD: Oh, ありがとう。
CP: Paulとの仕事はマジで楽しかったよ。何にも代えがたい喜びだ。David, Dave Brubeck, David Brubeckとか他にもたくさんの仲間がこの時代から一緒にやってきてるんだ。自分がやることが無駄じゃなかったって感じさせるんだ。人が本気で何かを証明しようとしたこととか....
PD: 本当にその通り。Parkerはジャズ史にターニングポイントを遺すために過去10年の誰よりもバッチリやったとおれは思う。
CP: そうだね。でもおれはもっと追求したい。志半ばでやめることは無い。止めることは無いな.... 学びに年齢なんて関係ないと思っている。
PD: 多くの人々が最も興味深いあなたの閃くさまを見ていることはおれもわかっている。おれはその最前列だ。あなたが考えていることは何?
CP: まじめなことを言うと、勉強しにヨーロッパに行こうと考えている。New YorkでEdgar Vareseに会うことができた。彼はヨーロッパのクラシックの作曲者。フランスの人ね。とてもいい男で、彼はおれに教えたがっている。
実際、彼はおれのために作曲したがってる。なぜなら彼はおれにまだ伸びしろがあると思っているから。多少本気だよ。もし彼がおれをプロデュースしたら、おれはParisのAcademy of Musicに行くことになるだろうな。おれの主な関心は演奏を学ぶことだ。
JM: 演奏と作曲どっちを学びたいの?
CP: どっちも。自分のホーンの感覚は絶対に忘れたくない。
PD; そんなことはないっしょ。
CP: そうはなりたくないのさ。
JM: ジャズキャットは次のレコードのことに釘付けだぜ。いまだに魅力を放っている。Miles Davisについて何か言いたいことはある?
CP: Yeah, Milesと出会ったいきさつを話そうか。1944年にBilly Eckstineは自身のグループを組織した。DizzyはそのバンドにいたしLucky Thompsonもそう。Art BlakeyやTommy Potter、他にも多くのミュージシャンがいた。最後にPaul君もね。
PD: 謙遜は何も生み出さないぜ、Charlie.
CP: (笑)St. LouisでMilesと最初に会ったよ。当時彼は若者でまだ学校に通っていた。その後MilesがNew Yorkに来たんだ。Julliardを卒業してね。彼が卒業したとき、おれは自分のバンドを始めたばっかりだったんだ。バンドを作ってThree Deucesに7,8週間出演した。Eckstineのグループが解散してDizzyが自分のバンドを作ろうとしたときだったんだ。たくさんのことが月ごとに代わる代わる起こるんだ。説明するのは難しいんだけど。
おれのバンドが解散した後、おれはDizzyと一緒にCaliforniaに行ったにも関わらずだ。おれが最初のバンドを持った後、1947年にNew Yorkに戻った。おれが持続的な自分のバンドを持とうと決めた時期さ。Milesはおれのオリジナルバンドにいたんだ。Max (Roach), Stan Levy, Curley Russell, George Wallingtonとかがいた。ジャズ好きはおれとMax, Milesがやったレコードを何かしら一枚は持っていた。TommyとDuke Jordanの「Perhaps」だと思う、違うかったっけ'46か'47年に出たやつなんだけど、これらはNew Yorkの1440 BroadwayのWNEWで制作されたんだ。それにこれはおれのバンドリーダーとしてのキャリアの始まりでもあるのさ。
JM: OK, 「Perhaps」を聴こうか。
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