Larry Smithインタビュー(2006)
今回はプロデューサーのLarry Smithのインタビューを訳しました。
翻訳元の記事↓
それではいきましょう。
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このインタビューは2006年1月に2日間にわたって敢行された。2007年11月にLarry Smithが最初の脳卒中を発症する約2年前である。我々がカバーしたトピックスは広範囲に及び、私はこの記事の目的であるカタログに彼の言葉を載せることを試みた。もし必要のないインタビューならばLarry Smithとの会話は実の無きものになっただろう。私たちはたくさんの話をした。
私は自身が執筆した2006年のScratc Magazine内のコラム「Pioneer Producer」から2つの引用をした。しかしこれからの記事のほとんどは初めて公開するものである。
読者にはこの記事を楽しんでほしいのと、ヒップホップ史において最重要プロデューサーのひとり、ラップミュージック初のスーパープロデューサーである彼の人生を覗いてほしい。この素晴らしい男は2014年12月19日に他界した。rest in power and peace.
FacebookのLarry Smithトリビュートページはこちら、コメントは彼の家族が読むことができる(当記事は2015年のもの)
イ: 生い立ちについて話してくれないかな。
LS: おれはQueensのSt. Albansで育った。Hollis borderから3ブロック離れた場所さ、Junior High 192(St. Albansの204th StreetにあるThe Linden School)に通ってた。おれの娘もそこに通ってたよ。Danny SimmonsとRussellの兄ちゃんと学校に行ってたな。
ガキだったころ、おれはいつもPerry Como showに行きたがってた(笑)BeatlesやJimi Hendrix, James Brownが好きでさ。音楽の原体験はお母さんが家を掃除する間にかけてたブルースのレコードだね。
若いころはQueensにあるたくさんのクラブに行ってたよ。その界隈ではおれは顔が通ってたからね。Apollo Theaterにもたくさん行った。Club Ruby, Village Door, Red Carpet,みたいなクラブにはよく通っていたよ。Queensだけでおれが遊んでたスポットがこんだけあるんだ。
おれはBrooklynのThe March Saintsっていうバンドに入ってたんだ。そこがプロとしてパフォーマンスをし始めたときだ。'60年代後半ぐらいかな。
The Brighter Side of Darknessっていうグループとツアーに行ったんだけどChicagoで彼らと合流したんだ。ブルースの人間のJerry Washingtonとも演奏したよ。1970年代は基本的にジャーニーマンだったんだ。いろんなグループと各地でパフォーマンスしたよ。
おれのメンターのVal BurkeはベーシストでありWillie Feaster and the Mighty Magnificentっていうバンドに所属していた。彼らは後にSugar HillになるAll Platinum(レーベル)に所属していて、「Check It Baby」っていうビッグヒットがあるよ。Northern Soulだね。52ndと8th(Manhattan)にあったCheetahにMighty Magnificentsを観に行ったことを覚えているよ。
イ: あなたが初めてスタジオに行ったのはいつ?
LS: 1967年ぐらいにThe Fireboltsっていうグループと一緒に行った時。
ミュージシャンとしてライブとレコーディングの考えは完全に違うってことを学んだね。レコードに吹き込む者は永遠なんだ。スタジオの24トラックにはたくさんのオプションがある。スタジオでは生活の糧となる一曲をたくさんプレイするじゃん。時にファーストテイクがベストだったりもする。
Kurtis Blow「Christmas Rappin」(1979)
この曲と「The Breaks」はNew Yorkでレコーディングしたんだけど、当時おれはTorontoに住んでたんだ。シンガーのSalone Beyと一緒にパフォーマンスしてた頃でもあったよ。おれはRobert 'Rocky' Ford(Kurtis Blowのプロデューサー)と友達だった。1979年におれとRobertとKurtis、J.B.Moore、Russell Simmonsで集まったんだ。Orange Krushはまだ結成されてなかったよ。
おれらがこの曲をレコーディングしたとき「Rapper's Delight」が席巻していた。おれらは「Rapper's Delight」に対抗するためのレコードを求めていたんだ。おれらはコピーではないけどフィールできる曲を作ることに力を注いだ。このレコードでおれらは世に出たんだ。
1977年にTorontoに行ってたもんで、発展途上のヒップホップのことをあまり知らなかった。当時のおれはジャズとブルースをプレイしていた。ヒップホップはドラムと声だけだったから正直理解できなかったよ。「Rapper's Delight」のヒットがすべてだ。最初にあの曲を聴いた時、DJたちが楽器のようにターンテーブルを操ってることを認識することができた。
Kurtis Blowの最初の二曲はおれがプロデュースした曲じゃないけどおれがクレジットされてるんだ。これらの曲でプロデュースについてたくさんのことを学んだ。Kurtisはこの後もおれをセッションによく誘ってくれた。
Orange Krush
おれとAlyson Williamsがボーカル、Kenny KeysとRakimの兄弟であるRobbie Griffinがキーボード、Trevor Galeがドラム、Bobbu GasとDavy Dがギター、Eddie Colonがパーカッション、これがOrange Krush。KurtisといるときにおれはDavyと出会った。
Davyはおれより歳が何個か下だった。基本的にOrange KrushはKurtisのバンドだった。このバンドはKurtis以外のギグはやってなかった。Kurtisが最初にDJを抱えたとき、人々は理解が追い付いてなかったんだ。おれらはスタジアムでプレイしたよ(人気グループの前座と思われる)。1980、81年はほんとにいろんな場所に行った。最終的におれらはバンドを維持するために金を使い果たしたよ。自分が欲するミュージシャンをゲットするには金が必要だろ。彼らへ支払う金が尽きたときバンドが散り散りになったんだ。一方その頃は1983年でRun-DMCがでてきたころ。バンドなんて無かった。おれとRussellぐらいさ。
イ: あなたのレコーディングのスタイル、過程、哲学を教えて欲しい。
LS: おれはもともとパフォーマーからプロデューサーへ移行したんだ、なぜならおれはアンプをせっせと運ぶことに疲れていたからさ(笑)。パフォーマンスするよりスタジオの一室に籠って金を稼ぐことができたんだ。パフォーマンスはおれがやってたことにフィットしなかっただけ。Orange Krushが解散した後、おれがスタジオ仕事への移行したことは資金不足によるものだと思う。
プロデューサーにとって最も重要なことは確かな耳を持ってることだ。おれは仕事相手に合った曲をテーラーみたいに仕立てるんだ。ベースやキーボードでパートをスケッチしてそれを演奏するためにホーンやギターのエキスパートを呼んだくるんだ。
良いエンジニアもかなり重要な要素だ。皆が音楽のコンセプトを理解しなくちゃいけない。Rod HuiはGreene Street Studiosのメインエンジニアだ。そしてElai Tuboは最初のDJ。彼はおれらがやってたことのスタジオサウンドを改善した男だ。おれが各地を回ってたとき彼はおれのローディーとしての仕事もやってくれた。
1980年代後半にサンプリングがスタートして、誰もがLarry Smithの居場所がないと思った。おれはサンプリングに手を出せなかった。完全に反発してたね。一人のミュージシャンとして人様が作ったものを使うことはできなかったんだ。今、人々はおれの作品をサンプルするけど、おれは彼らから使用料をとることは考えてないよ(笑)。だけどおれは人の曲をサンプルしない。サンプルに目もくれないおれを人々はおかしいやつだと思っていた。彼らは今もやっている。サンプリングがダメだってことじゃないよ。The Bomb Squadはアートフルだったぜ。
リスペクトよりも金がより重要になったとき、おれは一線から退いたんだ。おれは小さなレーベルと働きたくなかった、彼らは金を持ってなかったからね。だけどデカいレーベルとも契約したくなかったんだよ。
イ: 現在のプロデューサーとプロダクションのテクニックについて思うことはある?
LS: 今日のプロデューサーはアーティスト以上の存在だ。だけどプロデューサーの実際の意義、蔑んでるわけじゃないよ。プロデューサーとはアーティストからベストを引き出すのが仕事なんだ。自分自身をアーティストにするんじゃなくてアーティストとコラボレーションするのさ。この年になるとアーティストのこととか全然わからないね。
最近のアーティストがアルバムにたくさんの客演を呼ぶ理由が理解できないし、何故彼らはたくさんのリミックスをやりたがるんだ?それらはただアーティストの仕事を薄めると思うぜ。時々誰のレコードかわからなくなる。
Run-DMC「Sucker MC's」(1983)
おれのネイバーフッドのブロックパーティーでRunのライムを初めて聴いたんだ。DMCはそこにいなかった。おれのバックヤードで当時のRunを打ちのめすローカルラッパーが何人かいたぜ。「Sucker MC's」は正真正銘シンプルなレコードだ。彼らとドラムマシーンだけのレコードさ。当時はとてもラジカルだったんだぜ。
あのドラムマシーンはOberheim DMX。おれがショップで見つけたとき彼らは同じセットでやってた。
1983年にあのマシーンをゲットした。おれらはいつだってドラマーを有してたからその前までスタジオでドラムマシーンを使ったことが無かったんだ。だからそれまでドラムマシーンを必要としてなかったんだ。Run-DMCの最初のシングルはおれとRussellが自分たちの金で作ったんだ。その後出来上がった作品をProfile Recordsに売った。Profileはおれらに少しの予算をRun-DMCのファーストアルバムのために寄こしたんだよ。
正直いうとおれが予算を持ってたらRun-DMCのファーストアルバム全体にミュージシャンを雇っただろうな。だけどRussellとおれは自分たちの金でできる範囲のレコードを作ったんだよ。R&Bアルバムの予算は常に低いよ。
Run-DMCのDJについておれはDavy Dを推してた。だけど彼らはJam Master Jayを欲していたし、おれは最初は発言権が無かったからね。多くの人は知らないだろうけどRunは素晴らしいDJでもあった。
Run-DMC「It's Like That」(1983)
LS: これは「Planet Rock」のおれバージョン、「Planet Rock」からとても影響を受けたからね。だけどおれはあんな速いテンポでできなかったってだけ。120BPMより速くできなかったんだ(笑)。おれがレコード制作をしてるときってのはやっぱり完璧を目指すんだ。誰も聞かないレコードを作りたくないんだ。
このレコードを制作した機材はオリジナルDMX(Oberheim DMX) ドラムマシーンとProphet 5 キーボード。Run-DMCのファーストアルバムの基盤になった機材だね。
Run-DMC「Rock Box」(1984)
このレコードを作るのにおれはファイトしなくちゃいけなかった。入ってるギターといい彼らはやりたがってなかったんだ。一度おれの友達のEddie Martineszをスタジオに連れてきて彼らに会わせたら彼らはやる気になったんだよ。
Whodini
おれがソロプロデューサーとして初めての仕事だ。Run-DMCはおれとRussellだったから。RussellはWhodiniのマネージャーだった。おれらはLondonのBattery Studiosでレコーディングしたんだ。Jive Recordsが所有していたスタジオさ。Run-DMCの成功を受けておれに白羽の矢が立ったってわけ。Jiveはとても計算高い会社だよ。出版会よりもだ(ZombaはJiveが所有していた)
おれはRun-DMCとWhodiniを同時にプロデュースしていたけど彼らのサウンドが似通ってるってことは絶対にない。とても注意深く聴くかクレジットを見なかったらリスナーは両者ともおれの仕事だと思わないぜ。
基本的にWhodiniはRun-DMCみたいにハードじゃなかった。そうなったら彼らじゃないからな。反対にRun-DMCはWhodiniみたいに艶っぽくてスムースではない。
おれが最初にプロデュースしたアルバムは1984年の「Escape」。このアルバムはWhodiniの二枚目で制作に6週間かかった。1986年の「Back In Black」は9か月かかった。Escapeに関してはJiveは当初難色を示していたんだ。Jive曰くRun-DMCみたいなサウンドじゃないってさ。彼らはWhodiniをもうひとつのRun-DMCにしたかったんだ。ああいうサウンドだったからJiveは完全にがっかりしてたよ。ただしWhodiniのレコードが売れ始めるまでの話だ(笑)
おれが最初にプロデュースしたWhodiniの「Escape」はグレートだ。おれが求めていた24時間ぶっ通しでスタジオ作業ね。Jiveが所有していたスタジオと機材も会社からの貸し出しだった。会社はアーティストに請求するからね。
経済的に言ってもWhodiniのアルバムに携わることはおれにとって一番稼げる仕事だった。おれ一人がプロデュースしたからってわけじゃないよ。Profileが手回ししてWhodiniをとっちゃったんだ。おれは一緒に行かなかった。おれが関わったのはスタジオだけ。
イ: あなたは1980年代のクラブシーンで有名だったよね。
LS: Mr.Magicがおれのことを「Never Home Larry」って呼んでたんだ、なぜならおれは家に帰らず常に外にいたから。デモを作った後、そのカセットを持ってクラブに行って、DJに渡すんだ。もしDJがかけたら群衆は盛り上がるよ。それを見ておれはその曲が間違いないものだと知るんだ。おれがプロデュースした曲のほとんどでそれをやった。
おれとRussellは最新のサウンドをキャッチしにたくさんのクラブに足を運んでいた。Jellybean Benitesの場所にあったThe Funhouseだったり、The Loft, The (Paradise) Garage、The Feverとか。
1980年代初頭のおれのお気に入りのDJはDJ Hollywood, BronxのJunebug, Starski and Starchildだったね。Starskiはかなり良いR&BミックスのDJ。Davy Dは誰よりも曲を良くかけた。Flashはスピード感があったね。
1979年のクラブの様子を録音したカセットを1000以上持ってる。たくさんKurtis Blowのショーを録音したよ。
おれがスポットライトを浴びることは無いんだけど、盛り上がってるクラブにいなかったんだ。Russellはその逆、彼はグレートなセールスマンだったし今でもそう。おれが彼との仕事をストップしたときからRussellよりもプロモーションを知ってる人間と働いたことが無い。
イ: あなたは当時のことをどう思う?そして次チャレンジしたいことは?
LS: 今のおれは音楽ビジネスのど真ん中にはいない。マジでインスパイアされてるってことは無いな。ここ5年はクリスチャンミューっジックをずっと作っている。教会でメディテーションアルバムをやった。そしてBilly Preston Christmasのアルバムをプロデュースした。だけどブレイクしたアルバムは無い。
おれの機材はいつでも準備オーケー。インスピレーションとアーティストを待ってるだけなんだ。またこの機材を使いたいと思わせる何かをな。
以上です。
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