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Mad Professorインタビュー(2013) 後編


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イ: あなたの家のスタジオで誰がレコーディングしたの?
M: 毎週日曜日にいろんなバンドが来ていた。なぜなら平日はみんな働いていたからね。彼らはジャムって、おれらはSister Audreyのようなシンガーを迎えるんだ。
イ: ミュージシャンは基本的にSouth Londonに住んでたの?
M: Yes。South Londonの連中がスタジオに来ていた。Ranking AnneやいろんなMCがいた。おれらはAriwaレーベルの核を形成しようとしていた。


イ: ボーカルはバンドと一緒に歌っていたのか、バンドの演奏を下敷きに後からボーカルを入れていたのかどっち?
M: 最初はバンドに演奏してもらうんだ。その後、おれが録ったテープに声入れする。おれは実験的なことをやってた。ちょっとしたDubを試みていたんだ。わかるだろ?
おれらはスタジオに訪れたいろんなジャマイカンアーティストとも仕事をした。Mikey Dread, Dread At The Controls, Jah Thomasとかね。彼はレコーディングして、たくさんの実験をやった。
イ: Jah Thomasはリズムに載せてたの?それともジャマイカでレコーディングされたリズムに載せていたの?
M: 彼は大体ジャマイカからのリズムに載せてたね。声入れ、ミックス、エディットもね。
おれはTubby'sの作品のMo Amossaとも仕事をしてる。Shakaは声入れのためにスタジオに顔を出し始めていた。1980年ぐらいだったっけな。でもおれたちはスタジオの場所を見つけなきゃいけないというプレッシャー下にあった。おれは探した結果、Balhamに小さな良い一戸建てを見つけた。


そのころには16トラック2インチのAmpexマシーンをゲットしていたんだ。MM1000っていうソリッドなマシーンさ。非常に良い音なんだけどとにかく重いんだ。持ち上げるのに8人は要る。幸運にもそのマシーンを置く場所は1階だったんだけど、段差が2段あったから困ったんだよ。それくらい重いんだ。
Balhamの家は機材が入る大きさの部屋もあった。でも引っ越す直前に、いずれこの部屋のスペースでも足りなくなるって気づいだんだ。だからPeckhamのこの場所に決めたんだ。3階建てで広い地下室もある。やった!っと思ったね。
この場所にスタジオを作るぞって。でもおれのスタジオに来ていた客たちはPeckhamのことをよく思ってなかった。なぜならPeckhamはとても治安が悪く、スタジオの客の70%は白人のロックミュージシャンだったからね。Peckhamのゴロツキが白人なんか見たら、奴らは喧嘩を吹っ掛けるだろうな。80年代初頭は治安が悪かったんだよ。信じてくれ!


イ: 客にとっては好ましくないね。
M: 客なんて知るかよ!おれはPackhamに4年も住んでたんだぜ?ほかにもAriwaのアーティストはPeckhamやNewvrossに住んでたこともそこにしたい理由だ。彼らのためでもあるのさ。
おれらはそこに拠点を構えた。しばらくするとShakaが場所を貸してほしいといってきたから、Shakaに一つのフロアを貸し出した。彼はそこをオフィスにしたんだ。
イ: それがレゲエの中心地になっていったの?
M: その通り。Shakaのたくさんの繋がりが集まっていた。彼はRasta志向が強く、コミュニティにも属していた。彼はおれも知らない多くの人を惹きつけていたね。
Peckhamの問題はおれの愛しのAmpexが地下室のスタジオにフィットしなかったことなんだ。だから最初の半年は1階に置いてた。テープオペレーターは地下室から ”Play!!” と叫ばなければいけなかった。だからそれを何とかしないといけなかったけど、金がなかった。
地下室へ運び込めるぐらい軽いマシーンを探す必要があった。ShewsburyのPeter Keelingという男が作ったマシーンしかなかったんだ。彼は2インチ16トラックのマシーンを組み立てた。確かにコンパクトだったけど、まだ重かった。あまり凝りすぎないように、これで手を打とうと思ったんだ。彼はそのマシーンを€4,000で売った。新しいOtari MTR 90 Mk1を買えたかもな。まだ重いんだけど、Ampexより軽かったその機材は€18,000で売られてたね。
Soundcraftはマシーンも作っていた。彼らはSoundcraft Magneticという新しい会社を作って、とても小さい16トラック2インチのマシーンを作っていたんだ。でもその機材は€120,000もしたんだ。だからPeterのマシーンでやるしかなかった。
Peterは自分がやってることをイマイチ理解してなかった。最初のテープの16チャンネルにキックがすでに入っていて、15チャンネルにスネアがあった、Peterを呼んでマシーンの配線がおかしなことになってることを伝えた。彼はそんなはずはないと言ったけど、Peterから買った他の4つは問題なかったんだ。だから他に原因は無いぞと彼に言った。トラック1がトラック16だったんだよ。
イ: そのマシーンのオーディオクオリティーはどうだった?
M: 良かったよ。でも特別素晴らしいってわけではなかったね。おれはそれを2年間使い続けた。クレイジーなマシーンだったよ。まるで幽霊がいるかのようなことが起こるんだ。いきなり早送りになったり、プレイボタンを押したら録音が始まったり。ローグレードで構成されていたからそうなるのは明白だったんだ。生産者から直で買ってるからそれくらいわかる。おれは罠に嵌ったんだ。レーベル運営してたし、スタジオを借りに来る人もいた。だからテープマシーンは必須だったんだよ。
おれは1986年までPackhamにいた。例のマシーンを使っていたのは'82年まで。おれらにとって多作な時期だった。あのマシーンで多くのグッドチューンを録音したんだ。大変だったけどな!
おれらの最初のビッグヒットはSister Audreyの「Don't Call Me No English Girl」さ。Acesのマシーンで録音されたこの曲は本当に売れた。Shakaの曲の多くもそのマシーンで録音されてる。ラフな音になるルーツには良いんだ。
そうやって食えるようになって、おれはSoundcraftの友達のもとへ行った。そこで彼らがまけてくれたフレームをゲットした。それを修理した部品とくっつけて、最終的には32チャンネルのSeries Twoになった。
友達が電話してきてRichard Bransonが彼自身のスタジオをアップグレードしたこと、彼らはAmpexのマシーンを売りに出してることを知ったんだ。おれは友達にAmpexは部屋にフィットしないと言った。そのマシーンは24トラックのMM1100。おれは仕事をしなくちゃいけなかったからvarispeedに€1.500を払った。
Cyril SellingerはAmpexのエキスパートさ。彼は何でも知ってた。彼はAmpexに一日中を費やしていたからね。
エレクトロニクスは一つだけど、テープマシーンはメカニカルとエレクトリカルのコンビネーションなんだ。それに情熱を注ぐのさ。Cyrilはマシーンに情熱を注いでいた数少ない男さ。テープマシーンは確かなテンションの総量を表すからな。彼は調整するマシーンをのすべてを知り尽くした愛好家かつエキスパートだった。Cyrilがマシーンをいじり終わった後、おれにはそれがヒットになることがわかった。マシーンで声録りするときの音の出方を知って "wow! クリアじゃん!" ってなった。
イ: それはいつ?
M: '84年ぐらいかな。おれがLee Perryとツアーをし始めたときだね。
イ: ScratchはどうやってMad Professorを知ったの?
M: Adamという後にThe Orbのマネージャーになる男だよ。AdamはFulhamのZiconというレコード屋で働いていた。彼は白人だったけどダブミュージックが好きだったんだ。AdamはLee Perryが来ることをどういうわけか聞きつけて、仕事を抜け出してスタジオを覗きに来た。彼はそこでScratchをSeven LeavesとStudio16のWinston Edwardsと繋げられると思っていたらしい。
Scratchが仕事を始めると一日中声録りしていた。彼は本当にAmpexのサウンドやSoundcraftを愛してたよ。彼はスタジオにエンジニアを連れてきていた。おれのことをあまり経験を積んでないやつだと思っていたのかもね。連れてきたエンジニアってのはStudio OneにいたSid Bucknorさ。彼は良いよ。SidはScratchと共に仕事をするスタミナを有していたからね。
彼らは朝の10時から夜の10時まで仕事をしていた。Scratchがツアーをスタートしたとき、彼らはミキシングのためにおれを連れて行ったのさ。
イ: あなたはScratchのツアーでミキシングをしてたの?
M: そうだよ。初期のツアーで彼はWest LondonのSus Bandっていうバンドを引き連れていた。スタジオでは彼らはAmpexに声を録音する。Lee Perryはそのバランスをとるんだ。それも素早く、ほんとに早かった。彼らのコンプレッションの使い方は完璧だった。
イ: 彼は何をレコーディングしていたの?
M: 彼自身の作品を主にレコーディングしていたよ。おれとLee Perryの関係は純粋なスタジオと客って感じだった。おれはそのプロダクションに関わってない。
彼は自身のテープを持って取り巻きと共にスタジオ入りしていた。ただレコーディングするためにね。これは彼がプロデューサーというよりアーティストのScratchになり始めたころの話だ。
彼はアーティストScratchでおれはエンジニアのProfesorさ。おれにとって学びが多い時期だったね。特にLeeとSidによるgateとcompressor使いだね。
彼らはおれに多くのことを教えてくれた。ボーカルのこととかね。Ampexは洗練されていた。いいサウンドだったよ。
その後おれはスタジオをアップグレードして自分で修理したAmpexを手に入れた。そしてRolandのdigital delayもゲットした。あと素晴らしいサウンドのMXR digital reverbもね。こいつらを買うためにNew Yorkまでいったんだよ。€20,000かかったよ。€20,000っていえば1984年当時は大金だったんだぜ!スタジオにフレッシュサウンドをもたらしたね。
それからおれは自分のプロダクションに取り掛かるようになった。お気に入りのアルバムの一つであるThe Stylisticsのアルバムの中から2曲をピックアップしたんだ。その一つ「Country Living」をおれらはリメイクした。おれはリズムトラックを作った後にシンガーを探したけど、誰もボーカルを入れたがるやつはいなかったんだ。6人に断られたんだぜ。そこからSandra Crossにボーカルを入れてくれるよう頼んだ。彼女はやってくれたよ。その後はバックボーカルやキーボードを探してはoverdubしていった。後からいじる感じだね。


おれはそのレコードを500枚プレスした。半年間水が滴るようにじわじわ売れていくのを見ていた。ある日なぜかわからないけど卸に1日に1000枚売れたんだ。電話がかかってきてもう1000枚欲しいって言われたんだ。だから再プレスしてそれを彼らに売ったんだ。そしたら次はもう2,000枚欲しいと言われたんだ。おれは言った "ジョークだろ!?"そのレコードはそこから6,000枚売れたんだ。"85年のナンバーワンレコードだぜ。
そんなことがあってからプロデューサーたちは皆このスタジオに来たがるようになった。おれがヒットを産んだからな 。マジで忙しくなぅた。
Donovan Germainとかたくさんのジャマイカンプロデューサーを相手にした。みんなスタジオに来たんだ。彼らはおれの作品のことに興味があったからいろいろ質問してくる。それくらいおれのレコードはジャマイカに近いものだったんだ。でもジャマイカとは一味違う。皆そのエッセンスを欲していた。
Sandra Cross以外でおれがたたき出したヒットはSister Audreyとの作品だった。Lorna G, Pato Bantonともやったね。
おれらがミックスした別名義の曲もあった。John HoltやDennis Brownらのレコードさ。「Wild Fire」のような曲とかね。おれらが手掛けた外仕事のビックヒットはたくさんある。'86年のMacca Bのヒットだってそうさ。忙しかった。レーベルもスタジオもフル稼働だった。金は入ってきたから最初の方は良いことだと思ってたが、その後泥棒が入った。


イ: 何を盗まれたの?
M. コインボックスを盗まれた。当時おれらは一か所に金をまとめていた。カセットマシーン、Revox PR99、(Yamaha)DX 7、Ampexには指一本触れられてなかった。でもおれが部屋にいたときに誰かが盗みに入ったっていうことに一番恐怖を感じた。スタジオを畳めるうちに畳んで、こんな状況から抜け出そうって思った。また電気関係の仕事に戻ろうって思っていたね。
イ: 大きな衝撃だったんだね。
M: そう。ずっと盗まれてるように感じていた。地元の人間じゃない限り道をぶらぶら歩いたりしないですぐ屋内に入るだろう。スタジオじゃない場所にね。おれは2か月間家に引きこもって鬱っぽくなっていた。
そしておれは家にもう一つのスタジオを作ると決めたんだ。おれは何人かを新スタジオのために連れてきた。狭かったしサウンドも良くなかった。でも徐々に音楽ビジネスへのハングリーさを取り戻していたんだ。そっからThornton Healthのスタジオ候補地を見に行ったけど金がなかった。建物と隣の建物まで距離があったからスタジオには理想的な場所だったんだけどね。ちゃんとやれば、これは人生のチャンスだと気づいたね。
当時ビジネスをやる前提では買わなかった。借りたんだ。やるってなったらシリアスにやらなきゃいけいと思っていた。おれがしくじったら、ファミリーが食っていけなくなるからね。だから自分のケツに鞭打つことに必死だった。収入はスタジオによるものだけで経済的なバックアップなんてない。抵当権を設定してたから働かなくちゃいけなかった。当時のスタジオは朝の9時か10時くらいから深夜まで稼働していた。週7日勤務さ。
イ: ビジネスは順調だったの?
M: うん。Midemみたいなイベントにも行き始めていた。Cannesのインターナショナルミュージックフェアさ。おれの最初のMidemは'86年らへんだった。まだそこにレゲエとカテゴリ分けされるものは無かったからsoulと言わなければいけなかった。
イ: とても重要なことを言ってるね。だってMidemに足を運んでいたレゲエ関係者のことなんて想像できないじゃん?
M: いや、おれは行くのに飽きてたんだよ(笑)でも後に金をゲットして飛行機をチャーターするから旅行は好きになるんだけどね。当時はそこまでじゃないから歩き回っていた。その後も2回行ったね。レーベルの看板的に良かったよ。
イ: まだ行ってるの?
M: 行ってない。GambiaのBack To Africa(フェス)と日程が被るからね。おれはMidamに行ってたころに戻りたい。正直なところ売り上げ的なレーベルのピークは大体'88か'89年だった。vinyl時代のセールス的には一番の時期さ。
イ: ずっと売れてるレコードは何?Lovers系?
M: いろいろさ。'84年に発売された「Dub Me Crazy 4」は最も売れたダブレコードさ。'84年はダブイヤーじゃなかったのにも拘らずね。14,000枚は確実に売れた。'85年の「Dub Me Crazy 5」も同じくらい。
イ: あなたがスタジオを使うコストもしっかりカウントするのは理に適ってるよね。
M: 間違いないね。「Country Living」のような'85から'89年の間がシングルのベストな時代かな。みんな60,000枚売れたアルバムの話をする。John Mcleanの「If I Give My Heart To You」とかね。
イ: すごい数字だね。
M: そうなんだよ。おれらは一度に2,000枚を再プレスしたレコードを5,6枚手掛けた。ものすごく金回り良くてエキサイティングだった。その後も何枚かヒットレコードがあるんだけど、それらは50,000売れてないんだ。Jocelyn BrownがAretha Franklinの「Daydreaming'」をカバーした。それもおれらが手掛けたんだけど、それは5, 6年かけてじわじわ売れてったから最終的に50,000いったかもしれない。


イ: スタジオで仕事した人たちのことを教えてよ。Augustus Pabloとか。
M: Pabloと仕事したし、さっき言ったMikey DreadやJohnny Clarke, Yabby Uもそうだね。Pabloは機材を持ち込んでた。でっかいボードさ。たくさんの酒といろんなバッグで一杯だった。
彼は人が思いつく限りのガンジャをボードの上に並べてでかいナイフで刻むんだ、リキッドを注いで刻んだやつと一緒にやるんだ。そんなこんなを繰り返した後、彼の才能は火花を散らすんだ。あれは2時間くらい要する儀式だった。彼はパイプを手に取り、水を入れて、ブツも入れるんだ。それを焚いて、せき込む。10分、20分くらいせき込むからスタジオ中が煙で充満するんだ。
1時間後に彼は言うんだ "オーケー、Professor準備だ。テープを準備しろ、ミュージシャン達はどこだ?準備だ!" とね。
イ: それは90年代初頭の出来事なの?
M: うん。ドラムマシーンを使っていた90年代だよ。Pabloはドラマーを抱えていた。彼はEarl Sixteen, Sister Rasheda, Aishaらとも仕事していたね。Pabloは特に女性シンガーとLover's Rockが好きだった。彼がキーボードを演奏すると、スタジオが独特な仕上がりになるんだ。彼は本当に素晴らしいキーボードプレイヤーだよ。彼の耳は特別だ。ミステリアスな男だよ。
イ: Pabloは自分でEasternサウンドを確立したね。
M: あれは彼の才能だよ。彼は文字通りのBlack Chineyなんだ。所謂ハーフだね。カリビアンでは自分は自分なんだ。自分は持っているベストのモノを尽くすこと。自分の資産を余すことなく使うこと。
イ: Vivian Jacksonについて話してほしい。
M: Yabby Uがいるとき、彼は説教師のようだった。彼に惹かれたいろんな人が彼を見に来た。Lloydie CoxsoneやFatmanとかもいたね。Yabby Uはストーリーを語るんだ。生き方だったり、やってはいけないことといった正しさや過ちについて数時間話すんだ。聖書の一節を引用したり、先のことを予測したりね。
"わからないかもだけど、これはシナリオ通りなんだ。(そいつに)従順なやつが地球を継承する。" 彼は聖書の言葉を歌詞にコンバートする方法を知っていた。彼は言うんだ "Professor聞け、おれはおまえのためにレコーディングする。人々のためじゃない。わかるか?" 
Yabby Uは90年代中盤にレコーディングしてるときにおれんちに泊まったことがある。U Royもそうだね。2日間しか泊まらなかったんだ。家に二人マッドメンがいたから家に居続けられなかったんだ。彼はホテルをとっていたよ(笑)おれらはずっと騒がしくしていた(笑)
イ: Ariwaはここからどうなるの?
M: うーんわかんないなぁ。レコードビジネスはデジタルの時代だからね。船を十分に浮かせることすらままならないぜ。おれらはイベントに出演している。Back To Africaにも行ったし、おれらは2つのツアービジネスをやってる。
幸運なことにおれらはサバイブことに対する大きなプレッシャー下にいない。おれはただ電気代やガス代、税金を払わなければいけない。でもレコードレーベルとしてヤバいことをやりたい。その方法がイベントだと思っている。
おれらがやっていたようなレコードをプレスすることは理に適ってないんだ。

以上です。

個人的には最後のデジタル化された流通についてもっと深く聞きたかったです。

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