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Mad Professorインタビュー(2013) 前編

Mad Professorはイギリスてレコーディングエンジニア/レーベル運営の活動をしている人物です。ダブエンジニアとして作品をリリースしており「Dub Me Crazy」シリーズなどが有名です。

今回翻訳した記事で機材について多く語られています。しかし当方機械のことはズブの素人なので正しく翻訳できているかはわかりません。ご容赦ください。

それではいきましょう。




イ: バッググラウンドを教えてくれるかい?
M: おれは南米で生まれた。メキシコじゃないよ。Guyanaって場所。Guyanaって言ってもBritish Guyana, French Guyana, Dutch Guyanaの3つあるんだ。おれはBritish Guyana出身。イギリスに植民地支配されていたから文化もすごくイギリスに影響を受けていた。だから他の南米の国とはすこし違う。Guyana人はEnglish Caribbeanに近いんじゃないかな。TrinidadやJamaica、Barbadosに家族の誰かが住んでる人が多いね。
おれのおじいちゃんはTrinidad, Barbados出身で黄金を探しにGuyanaにきたんだ。いまだに多くの人がそんな感じだよ。Guyanaには最高な黄金と安価な石炭があると言われているからね。そうやってGuyanaに来た人が住み着いたのさ。

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イ: Londonに移住したのはいつ?
M: 12か13歳のときだね。
イ: Guyanaで過ごした少年時代の記憶はある?
M: あるよ。あそこはおれのエレクトリック人生が始まった場所でもある。
おれら家族は貧しくていつも腹ペコだった。家にある電気機器は2つだけだった。電球とラジオだけ。
ラジオが大工によってつくられていた時代さ。大工はときどき電器屋の役割もあった。彼らはウッドフレームと電気回路を扱ってたんだ。
家じゃ毎日ラジオを流れてた。おれはお母さんに言った「ラジオの中の人はなにやってるの?」つてさ。すると「ラジオの中に人はいないよ!」お母さんは言ったよ。ある日お母さんが外出してる隙にラジオの後ろをスクリュードライバーで取り外した。おれはそこでレジスター、コンデンサー、バルブを目にしたんだ。お母さんが帰ってきて、見つけるなり引っ叩いた。そして「ラジオの中に人はいないっていったでしょ!?なにやってんだか。」と言った。
だからおれはもっと調べられる本をゲットしに図書館に行った。おれは本を読んでラジオのことを学んだ。それからおれは古いBitを集めて10歳のころに最初のラジオを組み立てた。トランジスターから小さなスピーカーを作ったりもした。
その後、お父さんに会いにLondonに来たんだ。科学者で薬学者だった父はすべての化学に精通していた。そんな父の部屋でたくさんの本を発見したぜ。プレイボーイ誌もいっしょにね!
イ: 11歳の少年には刺激強いでしょ!
M: まあね。カリブの少年は絶対に見たことないよね。でもおれがもっと興味を持ったのは、電気系の書籍。そしてもっと電気機器作りをやっていった。Tootingの交差点に「Broadway Electronics」というショップがあった。そこでビットやトランジスター、いろんなレジスターが買えた。だからおれは町に繰り出してたんだ。
イ: 当時、電気機器好きのシーンはあったの?
M: Practical ElectronicsとPractical /wirelessがあったね。Croydonにさえホビーショップが5,6店舗あった。おれが言ってるのは70年代中盤の話ね。
これらのショップの多くがきちんとしたエレクトロニックメーカーになったのはわかるだろ?Tuacのような人たちさ。70年代は誰もが自分で機器を作ってたからね。サウンドシステムの到来とともに、パワーモジュールへの依存が見られた。サウンドシステムがある場所は500ワットを4本つなぐための500ワットモジュールを欲した。そして2000ワット必要とするんだ。いきなり多くのWest Indiansがサウンドシステムをつくった。オーディオ機器の需要も高まったんだ。

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Croydonは大戦中たくさんの基地があった場所でもある。その基地は最終的に地元の電気会社になった。欲しいものはそこで手に入った。おれは機器を組み立てることに飢えていたんだ。
いろんなものを修理するために学校をやめたと同時に速攻でアンプやターンテーブルみたいなオーディオ機器を修理する仕事を始めた。そこからおれはPractical Electronicのミキシングデスクや12チャンネルデスクの回路を見つけた。おれは台座に穴を開けてすべてを一緒にした。メタルワークとかなんでも。
そしてSoundcraftでの仕事のオファーをゲットしたんだ。彼らはミキシングデスクには不良品のボード, 2つのコンソールがあった。Lee PerryはSeries Oneを持ってたよ。あれはフライトケースに収納された最初の機材だったな。その後ちょっとばかしデカいSeries Twoが出たんだよ。Series Oneはマジなライブデスクだった。Leeはスタジオでそれを使ってたけど、そういう使い方じゃなかった。他にもPCB(printed circuit boards) で一杯の部屋ってのもあったな。めっちゃ積み上げられてた。そこは何千ものボードがなきゃいけなかったんだ。
そしてLee Perryのおもしろいところは彼もGuyana出身だったんだ。彼は "おまえは自分のことをテクニシャンと呼ぶのか?オーケー、この部屋のボードを見ろよ。全部不良品だぜ?こいつらを修理しなきゃいけない。言っとくが修理するのは簡単じゃない。6人でかかっても修理できたやつはひとりもいなかった。" 彼らはおれに1週間の試験期間を与えたんだ。彼はおれにやることを見せた。ジグを置いてオーディオボードの完璧なテストであるスクエアウェーブテストをおれの見せた。スコープを覗いてインプットに完璧にスクエアウェーブをやるんだ。アウトプットに完璧にスクエアウェーブが出てくるようにね。EQに関してはディストーションが見れる。もし高音に偏ってしまえばスロープに表れるだろう。ベースに偏ったら平坦なエンドに表れる。スクエアウェーブは多くを語るんだ。これがベーシックな電気仕事のやり方さ。だからおれは一週間で15から20のボードを修理した。彼らはボードは大丈夫だと言った。おれは職にありついたんだ。

ここでいうSoundcraftは1973年にイギリスで設立されたオーディオ機器会社と思われます。現在はサムスン電子の子会社になっているそうです。違ったらすみません。

イ: だから今のあなたになったってわけ?
M: そう。自分自身をプロフェッショナルレベルで教育してたってことだね。
イ: その期間はいつ頃なの?
M: '78か'79年。
イ: そのころ聴いていた音楽は何?
M: ダブとMotown。
イ: ジャマイカとイギリスどっちのダブ?両方?
M: 当時はDennis Bovellや数人以外のUKモノは無かったんだ。ほとんどのUKモノはツアーでイギリスを訪れたジャマイカンミュージシャンによって作られていた。Castro BrownからSlyやLloyd Parksといった人たちのプロデュースされていたんだ。
おれのお気に入りのアルバムの一つがThe Stylisticsのファースト。「Betcha By Golly Wow」「You Are Everything」Phillyのバラード全部だよ。
おれはマジな音のクオリティに惹かれていった。普通じゃないサウンドを作るスタジオとレーベルを理解していた。レコードに針を落とすとSigma Soundが聴けるだろうぜ。レゲエはTreasure IsleやStudio Oneのようなレーベルを多く擁していた。感謝してる。
イ: 音楽の技術的な要素は存在してるの?
M: もちろん。テクニシャンはいた。おれは頭の中で音をバラバラにするね。そう試みるんだ。The O’Jaysの「For The Love of Money」みたいなレコードをまとめ上げる方法さ。あのレコードを聴いたら "どうやってやったんだ?" って思うだろうね。
エンジニアとプロデューサーの間柄であるJoe TarsiaとGamble & Huffは「For The Love of Money」でソウルのインサイドを目覚めさせることをやった。自分自身に立ち返る歌を聴いた後にボーカルが逆再生されてることに気づくんだ。ありゃ変態的だ。もしドラッグをやってたら人々を怖がらせるだろうね。いや実際はドラッグをやってないよ。そういう音楽は意識させるんだ。もし時間と金があればとても面白いレコードを作れるだろうな。億万長者になる必要はない。ただリスナーのソウルに届けるためなんだ。それがおれの居場所。
レゲエでいうと、当時、最も想像力を掻き立てられるレコードはJoe Gibbsのレコードだと思っていた。彼らはその他大勢よりも音のクオリティが違った。ベストなプレイヤーはNow Generation, Geoffrey Chung, Mikey Chungだろうね。おれはそういうのをたくさん聴いていた。そういうレコードがカリブのホーンを保持したんだ。おれがTreasure Isleを愛する理由はそれさ。Tommy McCookを聴いたときCaribbeanやココナッツの木、太陽をマジで感じたね。本当のこと言うと、あの時代、質の悪いレコードはかなり少なかったんだ!
イ: イエス。もしレゲエというジャンルに限らず'65年から'75年の音の広さや深浅に触れてるなら、ここ10年と比べてみると溜息が出るよね。
M: 本当のことをいうと、'73年のような年のスタンダードはかなり高かった。多くの素晴らしいレコードがヒットしなかったからね。
チャート16位だったBloodstoneの「Natural High」を聴いたとき、73年がWilliam DeVaughnの「Be Thankful For What You Got」のような年だったと気づくまでそれを信じられなかったね。Al Greenの「Call Me」やMarvin Gayeの「What's Going On」をリリースした年でもある。そこら中に素晴らしいレコードがあったから本当にいい音楽を作らなきゃいけなかったんだ。トップ20に食い込むためには世界レベルと競わなきゃいけなかった。
そしておれはテクニシャンとしてフォーマットに多くをもたらした。フォーマットがレコードのサウンドすべてやることをやっているっていうことには自信がある。


イ: ここでいうフォーマットってどういう意味?
M: マルチトラックという意味。例えば、2インチ16トラックは音を強調することに関してイージーでベストなフォーマットなんだ。美しいフォーマットだよ。音楽がダイレクトにくる。ProToolsじゃ同じ感じは出せない。テープはデジタルじゃない何かがあるんだ。少し経ってからこのことに気づいた。
多くのアーティストの目線の先にあった大きな技術はノイズの比率と周波数の帯域、ディストーションさ。レコーディングで具現化された確かなものがあると思う。70年代、アートフォーマットの最先端は16トラック2インチか8トラック1インチだった。
イ: 16トラック2インチはテープレコーディングする音域によって24インチ2インチより良いってこと?
M: その通り。キックに関してはもっとだな。バスドラを聴くときにその存在感が出てくる。

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イ: NassauにあるIslandのCompass Point StudiosのMCIデスクを使っていたことは知ってるよ。
M: MCIはジャマイカに近いMiamiで作られていた。だから多くのジャマイカのスタジオはMCIの機材を使うようになったんだ。
最初のほうのChannel OneはAmpexを使っていた。Ampexの4トラックね。1980年ぐらいにになると16トラックにアップグレードしたんだ。それがサウンドが変わったときさ。Scientistの作品はスペースを感じれるぜ。フォーマットは軽くなるためのものじゃない。もしスタジオを作るなら、使用するフォーマットをよく考えるべきだ。
イ: Soundcraftにはどれくらいいたの?
M: 一年半くらいいたな。自分のスタジオをつくることについて十分学ぼうと決断したんだ。早すぎたかな(笑)おれらはすぐにフロントルーム付きの家を買ったぜ。その家ってのがThirsk RoadとBruce Roadの交差点に立地した、2つの個室と良いフロントルーム付きでノックアウトされた。
イ: あなたの奥さんは何か言わなかったの?
M: (笑)えーっと、おれの考えにちょっとチビッてたな。でもおれがドラムキットを置きたかった場所にソファを置いたのは義母だよ!彼らはスタジオになるとは思ってなかった。おれはドラムキットやピアノを置こうと思ってたのに、、おれは4トラックマシーンでハーフインチのTEAC 3440を持っていた。その後小さいデスクを修理したから8トラックも持つことになる。
イ: それが自分で音楽を始めたときになるの?
M: そう。それまでレコーディングなんてしたことなかった。
イ: ミュージシャン仲間はいたの?
M: Daveと呼ばれていたミュージシャンは知ってたよ。彼はBlack Voltsっていうレゲエバンドでキーボードを弾いていた。実際は二人だな。
DaveとDennis Bovell。彼の奥さんと同じ学校に通っていた。彼がメジャーになったころから知ってるんだ。
イ: 彼は当時からスーパースターだったの?
M: Oh yeah man。彼はスターさ。彼は映画のサントラを作ってた。ある日おれに 映画一本で4万ドルだってことを話してくれた。おれは言った "まじかよ!" ってね。4万ドルっていえば当時ベッドルームが2つか3つ付いた家を買える額だぜ。70年代後半から80年代初頭かけて音楽は金になったんだ。
もし正しいことをやれば、後々結果はついてくる。集まった4人のミュージシャンが跳ねるSunday afternoon sessionをやるまでそんな感じ。毎週日曜日おれらは4トラックに落とし込んでいたんだ。
イ: それはレゲエ?
M: Yes。レゲエだよ。何年か後にクロスオーバーしたかもだけど、おれはいつもレゲエなんだ。ルーツレゲエやラバーズ、おれは100%レゲエだったよ。
イ: 最初のレコードをプレスしたのはいつ?
M: 4トラックから8トラックにアップグレードしたときかな。Tascamにチャンネルを加えて拡張したんだ。
イ: デスクをカスタマイズしたの?
M: 完全に改造してたね。よりボトムを、よりトップスをって感じでね。
イ: どんな感じでやったの?
M: 実験だよ。トランジスタを頼りにするんだ。トランジスタが40 hertzっていったら、20 hertzになるように調整するんだ。
イ: あなたは帯域の上昇のあり方を変えたよね。
M: 間違いない。より良いサウンドをつくるための技術を手に入れたんだ。その技術を用いて欲しいサウンドをゲットするまでレコーディングするんだ。だからよくなるまでの文字通り実験なんだよ。
イ: その期間はどんな感じだった?
M: 70年代は魔法のような時期だった。人々はハングリーだった。レゲエは次なる領域にあった。今よりクロスオーバーしていたよ。'69や'70年のことを考えているなら、Desmond DekkerやBob & Marciaの「Young Gifted and Black」みたいなポリティカルなサウンドを聴いてるだろう。あれらはクロスオーバーヒットだよ。誰しもメインストリームでヒットしているレコードを聴いているんだ。
でもHMVのようなストアにレゲエコーナーは無かった。レゲエのレコードを探すにはソウルミュージックコーナーで探すしかなかった。でもレゲエがほんとに豊かだった時代なんだ。


イ: そのころにSoundcraftを脱退したの?
M: そう、Soundcraftの後は3か月間別の仕事をしていた。航空機の部品の仕事さ。そっちの方が稼げたけど次第に飽きてきたんだ。おれはいつも音楽のことを話してたからおれはクビになった。おれは家に行って、クビになった週にMoAmbassaをスタジオに呼んだ。彼らはサウンドシステムの人間さ。
それとShakaだね。彼らは制作したがってたからおれは3日間仕事した。これは正しい兆候だと思ったね。翌週、誰も連絡してこない。またその次の週、誰も連絡してこない。おれは失業給付金に申し込まなきゃいけなくなった(笑)3週間後再び人探しから始めた。そんな感じ。
イ: 現在のスタジオはBruce Roadの家の次に作られたの?
M: いいや、スタジオの後におれはPeckhamに家を持ってたんだ。Bruce Roadは平屋でいい感じの場所だったんだけど、ちゃんとした制作するための資金が無かったし、夜に騒がしいから近隣の人たちが寝れないって警察に文句をいってた。次第におれらは苦情の手紙を受け取るようになっていった。だから引っ越したかったんだ。それくらいからおれは訪れたロックバンドとも仕事をするようになった。おれがSouth Londonに行くことを宣伝してたからね。
スタジオが人気になっていくごとに苦情の手紙が激しさを増していったから引っ越し先を見つけなきゃって感じだった。おれはレコードをプレスした、あれは紛れもないボムだった。

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イ: それをリリースしたレーベル名は?
M: Ariwa。最初の方はAriwaだったんだ。
イ: Ariwaってどういう意味?
M: 西アフリカの言語で「Yurubaのコミュニケーション」っていう意味だよ。'75年ごろにやっていたRedifussionで電気関係の仕事をしていた時に思いついたんだ。おれは七頭身くらいあるアフリカ人と働いていた。レーベルの名前を相談すると、彼はAriwaという名前をくれた。'75年からおれはその名前をキープしていた。

yuruba(ヨルバ)は主にナイジェリアに居住する民族のことです。

以上です。

繰り返しになりますが回路のことや部品ことは全く知らないのでなんとなく訳しました。知ってる方からしたらなんだこれ?って役になってると思います。後編は来週アップする予定です。

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