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(再翻訳)ジャマイカ音楽アルバムカバー社会史

Thank for Dan Mayer

翻訳元の記事↓


https://note.com/kijihon/n/ne3e0105cf994


これを翻訳し直しました。

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ジャマイカ音楽のファンではない人が想像するジャマイカ音楽の画は、おそらくBim Sherman「Exploitation」のようなカバーである。

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使い倒されたラスタファリアンカラー、ドレッドの男たち、ぼんやりと政治的な抑圧や自己反省がないポジティブシンキングにまつわるタイトル

多くの人にとって、このルーツレゲエのビジョンとリードシンガーの神格化、これらはジャマイカ音楽が持つ一側面にすぎない(率直に言うと、ジャマイカ音楽産業はこの側面の人気にあやかった資本主義に追いすがった。それに対して大いに抗ってはいない)

ジャマイカ音楽を少し掘り下げていくとルーツレゲエの蓄積となっている多くのジャンルを発見するだろう。これらのジャンルのアルバムカバー、Bob Marleyによってもたらされた正しきラスタファリアンのテンプレート人気だけではない、もっと言えばジャマイカンかくたるべしのビジュアルイメージとはかなり違っており、時には反対のアルバムカバーを見つけることができる。
1970年代のレゲエが反権力のメッセージを普及させたのに、である。ただ新植民地主義の価値を無意識に映し出すアルバムカバーを見つけるために少し年代をさかのぼらなければいけない。お宝がいっぱいのジャマイカは海外から興味を持たれることを待っていた。

同じようにポップカルチャーとの関係も複雑である。多くのアルバムカバーが西洋社会に反対するコンシャスなアフロセントリックを証明していると同時に、多くがアメリカ音楽、映画のしきたりから呑み込まれ、そっちに寄せていってた。ジャマイカの現代史を見ると植民地主義の荷重、政治的独立の不安、自治を迎え入れる社会•経済問題が直近50年にわたってアルバムカバーアーティストによるイラストとフォトグラフィに反映した。

始まり

国の規模について。ジャマイカは独特且つ多作な音楽ビジネスを有している。2000年には音楽産業がGDPの10パーセントを占めると計算されていた。
このレガシーの足跡は1940年代に遡る。ラジオやレコードプレイヤーが店先で客足を惹きつけるためにアメリカンR&Bを鳴らしてたころ、1950年代までに、サウンドシステム現象が現れた。巨大なモバイルスピーカーを組み立て、Tom the Great Sebastianといった華やかなキャラクターによって運営された。かつてサウンドシステムは広大なアウトドアダンスを志向していた。さながらレイヴカルチャーの先人たちのようであった。
紺のようなユニークなサウンドシステムが下の写真のようなオーディエンスを動員した。それはこの島国が自分たちのポピュラーミュージックのジャンルを作り出すようになるまでのほんの出来事である。

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スカ時代、Orange streetに構える自身の店先の伝説的なプロデューサーPrince Buster

スカ、ロックステディ時代の文化的な略奪

SKA

最初に土着したジャマイカンポップミュージックはアメリカンR&Bとメント(ローカルのフォークミュージックのジャンル、カリプソに似ている)、その他の影響が合わさったスカである。1950年代後半、Coxsone Dodd、Prince Buster、Duke Reidのようなローカルミュージシャンやプロデューサーたちは典型的なR&Bシャッフルビートの重きをアフタービートにかけるといった実験を始めた。その結果は少し前のリスナーが時々「upside-down R&B」と呼ぶもの。セッションミュージシャンのErnie Ranglinの話によると "Chinnk-ka...Chinnk-ka...Chinnk-kaスタイルの代わりに、おれらはKa-chinnk... Ka-chinnkというスタイルに落ち着いた" とある。アフタービートにを重視したフルホーンアレンジメントによる巨大なアンサンブルでプレイされることが多かった。スカミュージックはジャマイカ人のイギリスからの政治的独立を期待を映し出した、明るいエネルギ-を持っている。この音楽は公式には1962年に現れた。


ジャマイカ音楽の最初の世界的顔役は誰だったのか?Bob Marley, Jimmy Cliff, Desmond Dekker以前、それはByron Leeだった。

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このアルバムカバーは正確には1973年のものだが、スカ時代の始まりから自分たちをパッケージしようとしたジャマイカ音楽の一様を象徴している。ライトスキンの音楽がライトスキンのオーディエンスに演奏している。(Leeはチャイニーズジャマイカン) 明るくカドが取れた親しみやすいレタリング。小難しい社会的な背景が無いエキゾチックダンスミュージック、一つの文化的なお土産であった。

ジャマイカ音楽のマーケットへの画策は、1950年代のスカ時代の始まりに現れる。その画策とは登り調子だった観光業とジャマイカ音楽を取り入れるアメリカのレーベルの興味との邂逅であった。それは1964年のNew York World Fairでピークに達した。しかしジャマイカ政府による世界にスカを根付かせ、ジャマイカを人気観光地とするために注目を集めるための不穏で実を結ばない努力があった。
関わったミュージシャンの恨みを買ったことがある、それは政府がByron Lee's Dragonairesをこの巨額の資金を投じたプロジェクトのバックバンドに選出したこと。おそらくこの決定はこのバンドのクリーンなプレゼンテーションとLeeの次期総理大臣Edward Seagaの政治的なつながりに理由があった。この出来事はスカに世界の興味を駆り立てることができなかった。この経験から残った唯一の遺産は忘れられがちな「Jamaican Ska」と題されたUSのAtlantic Recordsからリリースされたアルバムである。'64年のWorld's Fairに作られた。

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ジャマイカ政府は同じ熱量でこのようなプロジェクトに取り掛かることは二度とないであろう、ジャマイカ音楽のはっきりと海外マーケットに標準を合わせた努力は長きにわたって続く。多くのアルバムカバーがジャマイカへの道筋のマップ、ジャマイカに来たらどう踊るかのインストラクション、まぬけなノベルティの印字を含んでいた。

Byron Lee and his Dragonaires「The Good Guys」中心に真っ黒な島がある。

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これはTreasure Islandレーベルからのロックステディコンピ。ジャマイカ政府観光局によって書かれたようなコピーがある。

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1960年代のいくつかのアルバムにあるように、ひとりの少女がカバーにいると、このシチュエーションはよりあいまいになる。

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全てのジャンルにいえることだが、いつかの時点でひとりの女性をアルバムカバーにのせるのに、並外れた理由があるわけではない。しかしAnglo-americanの美の基準を示すこれらのモデルの引き立ては人種問題に踏み込みそうな危うさである。このまがい物で似たり寄ったりの状況は今日では少し食傷気味に映る。

数年後、このカテゴリーの最たるものはTrojanの「Tighten Up」シリーズだった。このシリーズは白人のイギリス人をターゲットにしたコンピレーションであり、これらのカバーは初期のJames Bondの映画の微妙な文化のセンシティビティを証明している。

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この記事は音楽の内容をネガティブに紹介するものではない。カバーアートを除けば、スカとロックステディ時代の曲群は自らを保ち、イノベーションしていた。これらのジャンルが自分たちの音楽という自覚を強めていたジャマイカ音楽産業を表していた、ということである。
しかしマーケティングとビジュアルアイデンティティが足を引っ張った。植民地価値観を反芻しなかったこの時代のアルバムの大多数がアメリカンR&Bカバーを参考にした。(参考文献Chris Morrow「Stir It Up; Reggae Album Cover art」17~19ページ、たくさんのロックステディカバーアートがアメリカンR&Bやソウルアルバムを手本にしている)

ロックステディ時代の平等主義

ROCKSTEDY

1966年夏、Kingstonにてこの音楽のテンポは突如スローに作られた。そしてそれ以来音楽史研究家たちはその理由をずっと話し合っている。1つの説としてオーディエンスがうだるような熱波がスウェイするメロービートを欲した。もう一つの説はダンスの場での暴力である。自分の後ろに立っている人のつま先を踏みたくなかったから、という理由。最有力説はエレクトリックベースがジャマイカに出回ったという理由である。皮肉にもそれは他でもないByron Leeが輸入したものによるものであった。Leeの楽器への興味は純粋だった。エレクトリックベースはアップライトよりも持ち運びやすい。この楽器のダイナミックさはジャマイカ音楽をスロー、ヘビーグルーヴの方向にシフトさせた。小編成のミュージシャンをフィーチャーし、よりStaxとMotawnからリリースされるアメリカンソウルミュージックからの影響を受けるようになった。

ロックステディはStaxとMotownのUSソウルミュージックからの影響を最も明らかに受けたジャンルである。そしてそれはカバーアートの面においてもいくつかの特徴がある。
スカの大人数のアンサンブルの代わりに、ロックステディは少人数のミュージシャンという傾向がある、それはボーカルハーモナイジングの余地をより増やすことでもある。今度はこれが興味深いバンドダイナミックの民主主義を生み出した。以前のようにはっきりリードシンガーとバックアップする部下を定義するのではない。ロックステディはしばしばそれぞれリードの責任をシェアし、足並みそろえたトリオをフィーチャーする。最終的にスターダムでは平等なチャンスを掴むことになる。この時代のカバーではしばしば肩を寄り添った三人のボーカリストが立っている。そこにヒエラルキーは無い。

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ロックステディ時代、荘厳なオリジナルミュージックを作る傍ら、数えきれなあいほどのアメリカの曲のリメイクが量産された。当時のカバーがこのコミュニケーティングを表現する。

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太い「Rock」のレタリングがスムースソウルサウンドに目が無いジャマイカのオーディエンスに対して「これ買うやつは気をつけろよ」と書かれたラベルとしての役割を果たしている。

レゲエ時代の社会意識と自由奔放

レゲエとラスタファリ

1968年、最初のレゲエリズムはミュージシャンが再びテンポを上げることで世に現れるようになった。そして磨きがかかったオルガンパートがよりベースとリズムのリズムシンコペーションの余地を生み出した。しかしレゲエ時代がロックステディから枝分かれしたと言うのは音楽に限ったことではない。新時代の社会意識がジャマイカ音楽へ流れ込んだのである。スカとロックステディは基本的にKingstonで作られる音楽だったが、レゲエは以前から強くある政治的異議、特にラスタファリムーブメントと共にジャマイカの地方意識へのシフトを宣言した。「ラスタファリ」という言葉は1930年~1974年のエチオピア皇帝Haile Selassie(Ras Tafari)のメシア的ステータスの信仰を示す。1970年代までのジャマイカの中流階級、ましてやスカ、ロックステディをシャットアウトした。ジャマイカの政治•経済危機が無視できないほど深刻になると、ラスタファリはメインストリームの音楽、社会意識への高まりを見せた。すこしこじらせた神秘主義として揶揄されるが、ラスタファリは宗教とおなじだけ政治運動、黒人の社会意識媒体として最も認知されている、

ジャマイカとレゲエは切っても切り離せない。MotownアーティストStevie WonderとMarvin GayeはレーベルボスBerry Gordyと共に会社のヒットファクトリーへの抵抗、アーティストのレコード制作の自由、社会への主張との闘いにかかりっきりだった。ジャマイカでの表立った暴動があったわけではないが、レゲエへの変遷はプロデューサーよりアーティストが産業を支配する方向に変わっていった。その結果Motownとリンクすることになった。曲は長くなり、構成はより実験的に、リリックのテーマはヘビーになった。レゲエはポップミュージックの急進派であり、政治的、社会的リリックを伴う。それ以前に存在したものとは全く異なる音楽だ。聴く者にロックステディ時代をけん引したプロデューサーたちを懐かしく思わせるほどの奔放の傾向も確認することができる。

この時代のベストフォトグラフィックはフォトジャーナリズムとして機能している。第三世界の地方のリアリティに観る者を連れて行く。

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一方この時代のベストイラスト、特にLee PerryのBlack Arkスタジオを連想する。クリエイティブと音楽自体の鋭利さと同じように苦しみと政治的抑圧をテーマとしている。

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社会の不正に正しいジャッジを下す陪審としてのレゲエシンガーの状態が必然的に奔放の方向へレゲエを変わらせた。モノトーンでユーモアレスなテーマの繰り返しと同じである。

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US音楽との結びつきから解き放たれたレゲエは偉大なスターのアルバムに如実に現れている。まず「Burnin'」(1973)が思い浮かぶ。WailersとのMarleyのラストアルバムである。

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このバンドはまだアンサンブルを聴かせてくれており、Marleyはバンドメイトに囲まれている。このカバーへのリアクションは見る者が木目をどう感じるかによって変わってくる。そこには即時性があるのみだ。自己満足したスーパースターたちのバンドと言う感じはしない。むしろハングリー、満たされていないバンドと言う印象を受ける、

Marleyのネクストアルバム「Catch A Fire」はIsland Recordsによってピックアップされた。それは意識的にWailersをロックスターとして宣伝しようと試みた。このこれ見よがしなアルバムカバーはEmerson,Lake & Palmerの見開きダブルアルバムカバーに詳しい。「Catch a Fire」の最初の2000コピーは巨大なジッポライターが開いてレコードが見えているデザインになっている。

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This Is Reggae Music」413ページに、Lloyd Bradleyがこのことを書いている。"「Catch a Fire」までは、レゲエアルバムのアートワークはジャマイカ政府観光局の宣伝資料のようでないならば、緊張状態、裸体に近いが全くセクシーとは程遠い誰かのガールフレンドをフィーチャーしていた。” 意識的に誇張された「Catch A Fire」はリターンよりも問題の方が多いように思える。

伝記作者たちがどうMarleyの仲間たちが果たすことができなかったスーパースターダムに上るということをMarleyがやってのけたのかを議論するとき、彼らはしばしばMarleyがロックの神の一員を演じることを学んだと好意的に語る。「Uprising」、生前ラストアルバムで完成を遂げた。このカバーは彼のメシア的ステータスを確固たるものにする一助をなし、Bim Shermansの地盤を固めた。

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DubとThe Super Ape

DUB

7インチシングルのヒットソングひとつのプロモーションでセールスが出来上がるこの産業で、数十年間プロデューサーたちはB面に何をこしらえるべきかという疑問を抱えていた。資金が重要なジャマイカでプロデューサーは時にA面のインストバージョンを作ることで予算を節約していた。60年代後半から70年代初頭、サウンドエンジニアでありラジオ修理エンジニアであるOsbourne Ruddockはこれらのインストトラックを再構築する実験を始めた。ミックスから音を抜き差し、ボーカルをバックに薄っすら流したり、自分の機材のエフェクトでエコーやリバーブを施したり、産業の格好の的であった。目撃者はKing Tubbyとして知られているOsbourneがとあるダンスでそのミックスを最初に披露したことをこう語る "人々はしばし驚いて、そこから大盛り上がりした。フェンスを押し倒して乱入したような人がスピーカーボックスをバンバン叩いた(「Reggae The Rough Guide」197ページ)" King Tubbyとその仲間のイノベーター、最も有名なのがLee 'Scratch' Perryがこの10年間、作品を量産し続けた。その過程で自らの音楽のスタイルを作り、ディスコ、ハウス、他のリミックスに由来する音楽といった後に台頭する領域のプロデューサーやアーティストのパイオニアという役割を果たした。

ダブは意識的に不気味な音楽である。ぽっかり空いた空間、予測できない衝突、半透明に存在するボーカルライン。Lloyd Bradly(309 310ページ) はこう表現している "面食らわせる音楽" 視聴体験を "アフリカへの帰還" とも表現する。"クラッシュしたベースとドラムのリミックスは爆発音、衝撃音、窓ガラスが割れる音、大型犬の吠えといったのようなSFXに私たちの耳を惹きつけて離さない。考え抜かれたエコーで、恐ろしいほどに広大な空間が唐突に開かれる。ラスタドラミングのスモーキーな志向をビビッドに呼び起こし、寓話的な、とろとろ煮る、メディテイティブな正しさの気付きをデザインした。そしてドレッドに突き刺さった。Babylonの核心へと。オベアが農園から白人のクラップを恐れたように。"

すべては技術の進歩、ここには意図されたダブや白魔法の妖しさへのアフリカ的な原始がある。しかしこの原始主義はすこし装飾されている、まるでハロウィンコスチュームやフグのように、陰惨な色使いが施されている。70年代中盤の多くのダブアルバムカバー、特にLee 'Scratch' Perryのアルバム、以下の完璧なクオリティーを見てほしい。この不良的な荒々しさの美を。

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誇張したMarvel comicsスタイルのレタリング,,, 荒々しい一匹の類人猿、アフリカの象徴.... しかし鋭く、図表的なコミックブックテキストはこの裏側にある皮肉な自意識を私たちに表現している。

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これはCoxsone Dodd、彼は尊敬されるプロデューサーとして20年ほどシーンに存在していた。彼が版画のモンスターになったと見る人は信じたくなるほどだ。

アフリカへの興味はPerryの全盛期の多くのBlack ark作品にはっきりと表れている。

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この絶妙な「Heart of the Congos」を見て欲しい(ダブアルバムではないが70年代中盤のPerryプロダクション)

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ポップカルチャー、映画、ダンスホール

1970年代の幾つかのレゲエアルバムカバーでの文化的な反抗のすべてについて、ジャマイカ音楽は常にアメリカのポピュラーカルチャーに明確な影響を受けてきた。ジャマイカ人の洒落好きがこのパートの根幹である。遊び心にあふれ率先した破壊。次に、ジャマイカ人は彼らの映画を愛している、3つ目にたくさんのレコードが制作されているジャマイカではパロディーはコンスタントに生まれている。

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Kingstonでこのメジャー映画が公開されたとき「The Harder they come」はセンセーションを巻き起こした。チケットを持たない数千人の人々が映画館に殺到してゲートを壊さんとした。この絶妙なイラストとタイポグラフィーはHollywood Westernsとブラックスプロイテーションをオマージュしている。

また、ジャマイカ人には笑えるコメディー映画への並々ならぬ愛着がある。

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ジャマイカのミュージシャンはいろんなものを取り入れる気概を見せていた。それは高潔さの欠如の表れと受け取られることもしばしばだった。素晴らしいジャマイカの機転、使えるソースはすべて使うと言った気質からそうとして見られがちなのだ。

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しかし1980年のダンスホール期、ジャマイカ人の審美眼は物質主義の美とUSヒップホップカルチャーの図太さから飲み込まれたように見える。

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Yellowmanのジャケットにある彼の態度に見える暴力的なほどのユーモアは称賛に値する(これはいくつかのケース、細心の注意が払われた写真構図のセンスが見て取れる。Yellowmanのベルトの完璧なラインとカバーの端を縦に走る線を見て欲しい)70'sが終わるにつれて、ラップカルチャーの充実は悲しいほどの自意識の空虚になっていった。

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80年代:解き明かされたカバー

リリックのテーマ性の欠如と共に、ダブミュージックはイラストの話題性のためにカバーアーティストを解放した。Londonを拠点とするデザイナーTony McDermottは特にファンから親しまれている。ScientistやMad Professorといったミュージシャンのダブカバーに彼の大胆なアプローチが見て取れる

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80年代中盤には、コミックブックスタイルは時間をかけずに粗悪なアートワークを作る言い訳に成り下がった。そういったカバーは急いでまとめられた作品やひどいマスタリングのリイシュー作品で散見される。
King Tubbyが1989年に彼のレコーディングスタジオの外で殺されてからというもの、彼の遺作は盗まれ、乱発されたのがいい例である。このカバーはTubbyをBurger Kingのマスコットとするかのような扱いをした。これは顕著な一例である。

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概して80年代はジャマイカ音楽産業にちって難しい時期だった。Bob Marleyの死とパンクの崩壊から地盤が揺らいだ。レゲエはフラフラの状態で新しい10年間に突入し、新たなアイデンティティを見つけるために四苦八苦した。このアルバムカバーには厳しい時期が反映されている。このジャンルの最悪なアルバムカバーはこの時期のものだろう。Crestock「42 Reggae Album Cover Designs」を参照して欲しい、劣悪なカバーがいくつも見ることができる。

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Blood And Fire

全てのアイデアは枯渇し、テーマはすべて使い倒され、すべては展開しつくされたかのように見えたとき、私たちはこのジャンルがいつも少しの発想の転換から起死回生するのを思い出す。
イギリスのレーベルBlood and Fireは1993年にジャズやブルースのようにジャマイカ音楽をリイシューする目的で設立された。設立者のSteve Barrowの言葉によると"世界中のたたき売りのラックや半額のタグからジャマイカ音楽を救い出す" という理念がこのレーベルにはあるようだ。Blood and Fireはダブリイシューに力を入れており、そのイノベーティブはこのジャンルに新たなビジュアルボキャブラリーをもたらした。

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Tubbyをキャラクター化する試みは、ビーチ、ココナッツ、ビキニの女性、太いスピリフ、このジャンルのありきたりな他要素と共に消え去った。

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これらのカバーは屑鉄やざらざらとした感触のある表面で装飾されている。ダブミュージックを作り出したプロデューサーの腕と機知に富んだ発想力、彼らが夜間働くスタジオの機材の解説など。
TubbyとLee Perryは文字通り自らのスタジオを作った。最終的にたくさんの機材やエフェクトボックスがそこで稼働した。ジャマイカ産業のすばらしいポイントのひとつがずっとDIYの価値観である。それが最小限の資金と仲介でこの音楽に作り手からオーディエンスへの流通を手助けした。Max Romeoは1970年代のLee PerryのBlack Ark studioのことを語っている。

おれらはリリックとメロディーをいじり倒した。Scratchは"良い感じだ" と言った。彼はすぐにそれをレコーディングすることを決め、その音源は2日ぐらいでストリートに広まった。それがBlack Arkでのおれらのバイブスさ。翌日や翌週に引き延ばすことは無いぜ。聞こえがいいんなら、いますぐやれ。あの頃は楽しかったな。-Arkology box setのライナーノーツから引用

DIYの音楽文化。レコードレーベルの役員とMTVの影響が欠如した環境についてのMax Romeoの記憶である。これがBlood and Fireのアルバムカバーに伝わったものだ。現在Blood and Fireは残念ながら存在しないが、その灯火はPressure soundsのような他のレーベルに引き継がれている。これらのレーベルは創造的にジャマイカ盤のリイシューし続ける方法を模索し続けている。

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結論

ジャマイカの現代史は数あるヨーロッパの宗主国の影響のストーリーである。しかしすべての国にとってジャマイカはアルバムカバーの軌跡が見ることができるほどの多作な音楽産業がある国なのだ。レゲエを世界で有名にする努力はこのジャンルのビジュアルブランド好きをここに引き寄せた。これは枝分かれ、レベルであるべき音楽の宿命だ。ジャマイカのアルバムカバーの裏側には感動がある。一方、広くより分散した社会史に目を向けるとマーケティングキャンペーンの調和が欠如している。そしてそれは植民地から独立後の経験に矛盾を生じさせる意味も含んでいる。

以上です。

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