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ベーシックなジャズプレイヤーはアウトローなのか? 〜 Frank Strazzeriインタビュー(1999)

Frank Strazzeriはジャズピアニストです。彼のインタビュー動画をYouTubeにて発見したので抜粋して訳しました。抜粋したので会話が飛躍していると感じることがあるもしれませんがご了承ください。

翻訳元の動画↓



イ: 私はMonk Rowe。ただいまLos AngelesでHamilton College Jazz Archiveの収録中。
今日のゲストはFrank Strazzeri。既に電話でいろんなこと話したよね。
F: Joeという父方の叔父がジャズピアニストだったんだ。おれは5.6歳から彼の演奏を聴いていた。毎週日曜日になると彼が住んでいた上の階の家にお願いしに行ってた。おれたち家族は日曜になると上の階の家に集まって夕食を囲んでた。
Joeがおれの家に来たときには、おれは "Joe叔父さん来てよ、ピアノ弾いて。" とせがんだよ。
当時は自分がピアノを演奏するという考えが無かったんだ。後に始めることになるホーンを演奏したいと思ってたからね。
Joeはswingスタイルのピアノを弾いていた。Teddy WilsonやArt Tatum、Mel Powelみたいなね。
イ: 演奏してくれた曲で耳に残ってる曲はある?
F: 「Avalon」、「After You've Gone」、「Indiana」、「Idaho」、もちろん「Body and Soul」と「How High The Moon」はずっと演奏してたよ。Benny Goodmanが演った曲を演奏していた感じだね。彼はあの時代の教科書だった。
イ: 家じゃなくてJazzの環境でJoeの演奏を聴いたことは?
F: あるよ。Rochesterのクラブで聴いた。Squeezer's Barって名前だったな。Joeは最終的にNYのミュージシャンをブッキングしていた。だからおれはNYから来たミュージシャンの演奏を聴くことになったんだ。
ちょっと奇妙なことがあって、彼はウェイトレスにクラブで働いていたことを話していたかもしれないけど、バーテンダーは彼が演奏していたことを誰にも話さなかった。だれも彼が演奏していたことさえ知らなかったんだ。Teddy Wilsonは演奏のためにそこに来たけど、誰もJoeがジャズピアニストであることを知らなかった。

Rochesterはニューヨーク州北西部に位置する都市です。アメリカ五大湖の一つであるオンタリオ湖に隣接してます。

イ: 彼はいろいろ尋ねられることを恐れていたの?
F: 彼はただ単にそのレベルに達してないと感じてた。でもおれが聴いた限り彼はとても良いピアニストだったよ。とてつもない才能があった。でも更なるレベルにいけるかを考えたとき、彼は裏方に徹するようになった。彼はNYに行ったら本当に良いピアニストになれた。
イ: あなたが最初に興味を持ったのはサックスなの?
F: そうだよ。クラリネットとアルトサックスを演奏していた。今もアルトサックスは演奏してるよ。でも子供の頃はなによりスポーツに熱中してた。いつもサッカーや野球で走り回っていた。そのうちリウマチ熱を患った。心臓がささやいてるようだったよ。だから医者は家族にこういった「お子さんを今までみたいに走り回らせることは危険です。彼が好きなこと且つ家にいれることはありますか?」とね。だから家族のみんなはおれに音楽のレッスンを受けさせたがった。おれは戦慄したね。だって当時、うちはそんなに金を持ってなかった。若いうちはクラリネットを買ってなんて言い出せなかった。でもちゃんとした先生のレッスンを受けるためにクラリネットをゲットしたのさ。これがクラリネットを始めた経緯だよ。サックスは家族から借りてた。9歳とか10歳の頃だね。でもおれが演奏にのめりこんでいく様を見た家族はおれが再び体を酷使しすぎていないか恐れていたそうだよ。ある日、家に帰るとピアノがあった。
イ: おもしろいね。いまの医者は音楽はあなたにとって良いことだというだろうね。ただのエクササイズだし
F: 間違いない。その後、家族はおれにピアノのレッスンを受けさせた。でもピアノを弾くことなんて想像してなかった。子供の頃に観ていた叔父の指捌きを覚えていたから。こいつはとても難しそうだぞって感じだった。結果的にピアニストになったわけだけれど、ピアノはおれを家に留めて、おとなしくさせるための手段だったんだ。走り回って心臓が悪くならないためのね。
イ: あなたがこんなキャリアを歩んで家族はびっくりしたと思う?
F: そうかもね。おれの兄弟のうち二人は医者なんだ。だれだっておれが他の兄弟に続くと予想するよな。リウマチ熱が無ければ楽器を演奏することもなかっただろうし、皆同じようなことをするように仕向けてたかもね。
お父さんはおれに "なぜそんな滑稽な音楽をやるんだ?" とか "Frankie Carleみたいにやらないのか?お前がやってるのはノイズじゃん"言った。ジャズは万人受けするものじゃないってこと。
イ: どういうこと?
F: 特別な音楽なんだよ。おれたちはジャズが大衆に知られているからって最前線ではないことを知らなければいけないと思う。
一方でおもしろいこともあった。少しずつ生活のためにRochesterで演奏を初めたんだ。こんな小さな町でさ。みんなKodak Parkで仕事したり、大学に通って医師を目指したりしてる中、おれはストリップで演奏してるから両親からとても反対されたよ。"なにやってるんだ、意味わかんない音楽で人生棒に振るつもりか?そんな音楽だれも好きじゃないし未来はないぞ" ってね。
最終的にAir Forthに入隊した。朝鮮戦争の真っ最中だったから徴兵されたんだ。あの時期はおれにとって休息だった。なぜならピアニストとしてこき使われたからね。本気で学ぼうと思ったのがあの時期だよ。兵役が終わるとRochesterに戻って同じことをやって生活してた。
その後Las Vegasに移ってCharlie VenturaやWoody Hermanらと仕事をした。ある時Woody Hermanはおれに言った"Frankは何をやりたいの?"ってね。"ジャズピアニストになりたいね"と答えると、"なんでLas Vegasに居るんだ?ここを去ってNYかCaliforniaに行け。仕事無かったら帰ればいいじゃん。ここに居てもそういうショーは無いからジャズピアニストになれないぞ" と言われた。彼はコマーシャルな成功を収めていたからそこでパフォーマンスしていたんだけどね。彼はベストなアドバイスをしてくれたんだ。
だからしばらくの間New Yorkに行った。でも生活はできなかったんだ。なぜなら奥さんとまだ幼い子供がいたからね。New Yorkでアパートを探したんだ。500ドル払えないとちゃんとしたとこに住めないんだけどそんな余裕は無かった。だからfunkyな場所にしか住めなかった。そこに家族と住むのは推奨できなかった。
イ: 50年代や60年代初頭にはよくインストゥルメンタル音楽がよく盛んだったように見受けられるけど、今じゃあんまり聞かないよね。
F: 確かに。New Orleansからきた間違いないミュージシャンがいたからね。Sam Butera, Al Hirt, Pete Fountainといったメンツさ。彼らは偉大なミュージシャンだったがsemi-jazzみたいなものをよく演奏していた。Art Tatum, Bud Powell, Gil Evansらのようなheavy-jazzではなかったんだ。
イ: 聞きやすい方向のジャズに染まってるからね。
F: 聞きやすいし甲高いホーンが聴ける。Al HertとPete Fountainは素晴らしいトランペットプレイヤーだつたと思う。Alがおれに言ったことを知ってるかい?彼はどのくらいClifford Brownの演奏を愛していたかを熱く語ってたんだ。
イ: 冗談抜きで?
F: もちろんさ。親しんでる曲も多いし、少なくとも彼に感動を与えたのはCliffordだった。
イ: 長年に渡って奥さんと支えあってるよね。
F: 彼女はいつも懸命にサポートしてくれるんだ。ミュージシャンの結婚生活の多くが破綻している。ミュージシャンの人生にはネガティブな事象が続くことが理由さ。仕事がある日があれば、無い日もある。最終的にはそれが結婚生活を脅かすストレスになるんだ。
おれの奥さんは最初から一緒にいてくれた。キャリアがある程度固まってから一緒になったわけじゃないんだ。厳しい時期も共に経験した。たくましい奥さんだよ。
イ: New Yorkはfunkeyだって言ってたね。
F: NYには何回か行ってて、あるときSal Nesticoの家に滞在したんだ。彼は素晴らしいサックス奏者、そしておれの親友なんだ。彼の家に泊まってたある日の夜、キッチンに行って電気を点けると壁という壁にびっしりゴキブリがいた。それがNYに引っ越さなかった理由さ。そんなとこに家族を住まわせるか?そこに住みたい人はいいんだよ。おれは違ったってだけ。アパート全てがあんな風だとは言わない、知らないからね。でもSalの家はそうだった。
だからRochesterに戻って、おれはLas Vegasに単身赴任って形になった。
イ: ここに越してくる前からコネクションがあったの?
F: 無い。でもVince Guaraldiとの繋がりだけはあった。Woody Hermanと彼を訪ねるとこう言ってくれた "もしL.Aに来るなら、おれに連絡しろ"とね。
だからおれはそうした。当時の彼はFrank RosolinoやBob CooperらとThe Lighthouseで仕事をしていた。
Stan LevyやArt Pepperもいたな。
L.Aに来てから最初の一か月で住む場所を見つけた。だからLas Vegasから家具など全てを持ってきた。おれは父さんに電話することを考えなければいけなかったけどやりたくなかった。ちゃんとやってないと思われるからね。でもミュージックストアに行ってレッスンもやってた。結局電話したけどね。おれはユニオンに加わった。おれがVinceに引っ越しを考えてることをちらっと言ったら、彼は前金を要求した上でユニオンに掛け合ってくれた。信じられるか?本当に起こったことなんだよ。誰も俺のことなんか知らなかったけどね。それがあったからHoward Rumseyはおれに日曜午後からのThe Lighthouseでの仕事を持ちかけてくれた。昼の二時から朝の二時までだよ。

Vince Guaraldiはチャーリーブラウンとスヌーピーのサウンドトラックで有名なジャズピアニストです。

イ: Wow
F: Terry GibbsやHerb Ellis、少し後にRed Mitchell、Harold Landらと仕事をし始めたのさ。おれが口にしたことをVinceが覚えていてくれたおかげだね。サクセスとは奇妙なものだ。Vinceがどうやって成功し続けているのか想像してみ?彼は47歳のときに若くして死んだ。San Franciscoのホテルの外で死んだんだ。彼はSan Franciscoに住んでいたにもかかわらず忙しすぎて家に帰らずホテルにチェックインしていた。夜に心臓発作さ。
イ: 当時、ウエストコーストジャズのスタイルは存在したの?ジャズ史を少し知ってる人らはウエストコーストスタイルやクールジャズのことを言及するよね。
それらジャズのスタイルを決定的にした何かがあったの?
F: 現在には確実にそんなものはない。50年代らへんのことをいってるんだよね?
イ: うん。
F: おれがそのカテゴリーだったのかわからない。ウエストコーストみたいなサウンドはあったよ。でもそのスタイルの曲を書いたアレンジャーじゃなかったからわからんない。Chet Baker quartetのことを考えてるんでしょ?あれはウエストコーストな感じじゃなかったよ。でも彼らがArt PepperやStu Williamson. Bill Perkins, Frank Rosolino, Marty Paichらへんと一緒になったときの作曲はそうだったと言えるね。Hampton Hawesもそうだったね。
HamptonはShorty Rogersのような、そういう作曲に助けられたスタイルはやらなかった。
イ: レイドバックしてなかったよね。
F: いいや、個人的にウエストコーストスタイルは作曲者によるものだと思う。彼らはソロイストより全体のフィーリングを押し出したと思うね。なぜならおれはquartetの厳密な血管を担うプレイヤーと演奏したからね。Bud Shank, Frank Rosolino, Bill Perkins, Stu Williamson…
Art PepperやChet Bakerらはそういう感じのウエストコーストスタイルはやってなかった。アレンジャーによって作られたものなんだよ。ウエストコーストサウンドの考えの多くは東海岸の人々のものだと思う。Jack MontroseやMarty Paich, Shorty Rogersらが俗に言うウエストコーストサウンドを作ったんだ。それらはアレンジャーによるフィーリングであり、ソロイストたちは確実に影響されてなかった。
イ: 初めてのレコーディングはいつ?
F; 最初のレコーディングはTerry Gibbsとの仕事だった。これまでたくさんのレコーディングをしてきたけど、そのすべてがビジネスさ。最初のレコーディングはまるで昨日の出来事のように覚えているよ。ほとんどのレコーディングは忘れているだろうが、最初は忘れない。それくらい大きな出来事なのさ。レコードの名前は思い出せないけど、誰がいたかははっきり覚えているよ。ベースはDizzyでドラムはFrank Capp, ギターにHerb Ellis、、、いやAl McKibbonがベースだったかな?2nd アルバムはHerb Ellisとやったんだ。
イ: レコードの演奏とライブの演奏は同じだと思う?
F: 一長一短だね。スタジオで最高な状態でいられるとするだろ?多くの場合それは演奏するピアノに依存してるんだ。少なくとも自分の場合はそうだね。録音する部屋によるかもしれない。どんな状況でもやらなきゃいけないことがたくさんあると思う。質問への答えをすぐに返しただけなんだけどね。おれはレコーディングするのが好きだ。静かだし、建設的で集中できる。群衆に向けてパフォームしなくてもいいからね。まるでボクサーだね。リングで練習するボクサーと大観衆の前で王座戦を戦うボクサーは同じ人でも同じじゃない。アドレナリンが働きかけると、人はダイナミックになったり、エネルギッシュになりすぎる。そういったものがおれに良い影響を与えないことがある。コンディションがおれの浮き沈みを左右する。
イ: 1969年にあなたはすこし方向転換のようなことをやったよね。「Johnny Cash Show」のコーディネーターだったの?
F: ずっと前、おれはカントリーミュージックに興味を持った。実際にカントリーバンドを持ったくらいだからね。
おれはそのカントリーバンドと共にリハーサルをやって本番を迎えたんだけどカントリーなんて演奏したことなかったんだ。人はそれを何と呼ぼうが知らない。あの時やったことを求めていただけなんだ。それしか考えてなかった。ジャズをやっていた人はカントリーを貶めてる。何にも生まれないことだぜ、わかるだろ?おれは多くのカントリーの曲を知らなかったけど、自分自身の曲を書いた。そしてそれを演奏したんだ。信じられないだろ?
東海岸からおれんちに訪ねてきた人たちがいたんだ。彼らはカントリーミュージックを演奏するおれを悪いものを見るような目で見ていた。そのリアクションを観察するのが面白くてたまらなかった。ある日Shorty Rogerから連絡があった。彼はTennesseeのNashville発の「Johnny Cash Show」と仕事をしていた。「Johnny Cash Show」サイドは彼に音楽コーディネーターとしてのミュージシャンの推薦を依頼した。おれはダンスと歌モノを監督したよ。おれが言いたいことはポジティブシンキングだよ。もしそれができないなら、生まれるものは何もない。おれがそこにいた時、自分が深い水の中にいるような心地がした。

Johnny Cash ShowはJohnny Cashがホストを務める音楽バラエティ番組です。1969年から1971年にかけて放送された当番組は視聴率17%を獲得したことあったそうです。

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F: Elvis Presleyとも仕事をしたけどね。Elvisと2回ツアーをやった。彼はgroovy guyだった。彼はビッグスター、おれは伴奏担当のいち外様ミュージシャンにすぎなかった。後から加わって、リハーサルでさえ彼と一緒じゃなかった。Elvisがステージに上がるまでどんな男なのかもわからなかった。
ある日の夜、ホテルのパーティーに招待されたからおれも行くことにした。そこにいる人間はスターだらけだった。皆Elvisに会いたくてやってきたんだんだろう。おれは数少ない知り合いのトランペットプレーヤーたちと家内で飲んでた。知らない人だらけだったからな。Elvisはいろんな人とあいさつしてた。トランペット奏者のJohnにおれは言った"Elvisがこっちにくると思う。だからここから離れよう"ってね。おれはあまり気乗りしてなかった。Elvisとの仕事ではミュージシャンやプロデューサーらがみんな周りにいるんだ。彼はビッグスターだったから王様のような扱いを受けていた。彼の飛行機で移動したり、ステーキを食べたり、成功の象徴だったんだ。
彼はおれらに近づくやいなや手を差し出してきた。彼は器の大きい男だよ。何を話せばいいかわからなかったおれだったが、Elvisは空手にハマっていたとおれの奥さんが教えてくれた。"Hey, Elvis 空手にハマってるんだってね"とおれは言った。すると彼は"なんかやらせてよ。Frank, ちょっと待ってて"と言って立ち去った。みんなも彼を追っていなくなった。
おれは小さなバー付きのベランダに行ってドリンクを取りに行った。"おいFrank, Elvisが探してるぞ"って皆が言ってるのが聞こえた。おれが向かうと、彼は空手の道着を着ていた。そこから一晩中空手の話をした。だからじきに取り巻きもいなくなった。彼はおれが一緒に働いたスターたちとは違った。彼らはおれとのコンタクトを避けるが彼は違う。おれはそんな彼が好きだ。
次の日の朝、ドアの下の方を見てみると300ドルが入った封筒があった。再び彼と話すと、また300ドルがあった。彼と話す度に300ドルくれたんだ。信じられなかったね。これはベストなgigをやるための行為だったんじゃないかな。
イ: すごい話だね。他に投げれる話のカーブボールはないの?
F: 最初のジャズ仕事はNew OrleansでSharkey Bonanoとの仕事だった。当時のおれは子供だったからね。おれが一緒に演奏していたグループに存在した変わったことと言えば、超有名人がいたってことだね。彼の名はEmile Christian。彼はオリジナルのDixieland Bandに在籍していた最初のジャズトロンボーン奏者だった。New Orleansから東部に来た最初のオリジナルバンドさ。
最初に聴いたのは彼らがChicagoに来て演奏をしていた1920年くらいだね。当時の人々はジャズバンドと呼ばれるものを聴いたことがなかった。そんな人たちが新しい音楽を聴くために集まったんだ。Emileはジャズを演奏した最初の集団の一員だったんだ。おれと演奏した1952年あたりのEllisは68歳だった。当時のおれはDixieland Bandのことなんて全く知らなかったから、自分の耳を頼りに彼の演奏についていった。やってくうちにだんだん彼が有名人ということがわかって言った感じだね。
イ: 歴史の1ピースだね。
F: イエス。
イ: Chet Bakerと演奏した?
F: 30年間くらいも彼と演奏していた。彼の葬式にも参加して、墓地でChetに話しかけた。彼の家族から彼が眠った場所で話しかけてやってほしいと頼まれた。Chetが死んだなんて信じられなかった。空港に向かうバスに搭乗するときのことを覚えている。そこで草履と白TのChetが"See you Frank"といった。彼は元気が無くて病んでいるように見えた。おれが次に耳にしたChetの報せが彼の死だった。彼の伝記映画観た?
イ: 見てない。
F: Bruce Weberの映画なんだけど、おれもその映画の曲の一部を演奏した。Chetはたくさん言及されていたね、ドラッグの常用だとか。ドキュメンタリーの話題はドラックと彼の女性関係に終始していた。ゴミみたいな男に映るだろうね。彼はひとりのトランペット奏者だったことをおれは言いたい。
彼の演奏を聴きたくて映画を観に行ったのに。Chetはミュージシャンでありたいという志においては最も誠実な男だった。ジャズミュージシャンのなかで最も誠実なおとこのひとりだったよ。だって彼は人生を全うしたが、麻薬中毒や自分自身に対して絶対に言い訳をしなかった。トランペットにすべてを注ぎ込んだんだ。Chetは芝を刈ることや、湯水のように金を使うこと、家の壁を塗ることに興味はなかった。言ってることがわかるかい?彼はおれが人生でやってきたようなことをやらなかった。彼の人生のすべては演奏することだった。
ChetがSan Joseらへんのガールフレンドと破局したとき、そのガールフレンドはおれに言った。Chetがずっとトランペットを離さなかったと。トランペットと草履、白Tのほかに何も持ってなかった。何もだぞ?彼には子供がいた。その子供たちがおれになんて言ったと思う? "家に金を入れてくれとお父さんに言ってよ、ぼくたちStillwatrで飢えてるんだ" だぞ。Chetは人生を演奏するためだけに費やした。それがやつだった。上等な服なんて欲してなかったんだよ。彼はよくなぜドラッグをやるのかと尋ねられていた。Chetはなんて答えていたと思う?"好きだから、おれのgrooveなんだ"って答えていた。普通は社会のプレッシャーがきついとか、自分は壊れてるんだとかいうだろ。彼は絶対に言い訳はしなかったんだ。刑務所に行こうがお構いなしって感じだった。自分のやり方で人生を生きたかっただけなのかもね。
ドラッグを欲して、道端で死んでいく人たちを行政はただ埋葬する。彼らの生き方なのさ。おれはタバコを吸っているし、やめられない。そんなおれはドラッグをやってるやつよりも良い人間なのか?おれはそうは思わない。ただタバコは合法ってだけで、それが原因となっておれは死ぬだろう。ドラッグやってるやつのどこが間違ってる?たしかに誰かを傷つけることもあるだろうけど、それでも誠実な部分はあるだろ。Chet Bakerはとても自分自身に誠実だったと思うね。ちょっとしゃべりすぎたな。おれはドラッグを肯定してるわけではないよ。
イ: Chetの歌と合わせて演奏することに興味がずっとあるんだ。
F: 彼の裏で演奏することはいままで経験したなかでも最も容易いことだったよ。彼はおれに疑問を抱かなかった、絶対にね。それがかれのすごいところだったんだ。ちっぽけな人間じゃない。
彼はジャズのプロモーターと数多くバトってたから、基本的に自分から言うことは少なくて、相手が意見を求めてきたら言うべきことを言うって感じだった。だから彼から学んでるみたいにすんなりと受け入れられた。
とにかく彼はベーシックなジャズガイだったから一緒にやるのは簡単だったよ。ベーシックなジャズガイというのがいるんだよ、Frank Rosolinoみたいな。Charlie Parkerもベーシックだったと思う。Chetは"わかってるなFrank, さぁやろうぜ"といって、キーも言わないまま演奏を始めるんだ。

以上です。

Chet Bakerの話はグッときますね。凡人にはできない破滅的な生き方がChet Bakerをここまで魅力的にしたのかもしれません。

周りが普通に働くか勉強をしている中、演奏をしていて親とギクシャクしたエピソードなんかは今にも通じる話だ思いました。このレベルの人もそういうことを乗り越えてるんだと実感します

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