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Aston "Family Man" Barrettインタビュー(2011)前編

今回はレゲエベーシストのAston Barrettのインタビューを訳しました。

前編では主にwailersに至るまでの過程を語っています。

このインタビューではAstonのパトワイングリッシュを翻訳するインタビュアーの生徒さんが登場します。
Astonが聞き取れなかった質問を彼に聞き直したりしています。

翻訳元の記事↓

それではいきましょう。

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イ: 僕らとのインタビューに応じてくれたあなたに感謝したい。

A: Yeah, man. おれも嬉しいよ。いい感じだ。

イ: あなたの弟であるCarlyの話からインタビューを始めたい。

A: Okay.

イ: 彼がワンドロップビートの発明者だったってのは正しいのかな?

A: 間違いなくあの男だ。

イ: Carlyはどういう風にワンドロップを思いついたの?

A: おれら兄弟は四六時中音楽のことを考えていたんだ。音楽ど真ん中みたいな生活だった。
Robertは"音楽の極みってなんだよ?" って言ってたな。ソウルミュージックと言う人もいるし、クラシックだと言う人もいる。そうだろ?
おれら兄弟はたくさんのリサーチをやった。音楽の頂点はジャズだって気が付いたんだ。だからジャズに関するすべてをチェックする決断をした。ジャズは自由な音楽フォームだってことを理解したから、おれら自身を解放することにした(笑)。わかるかい?自分自身を勇気づけるってこと。

周知のとおりドラムは音楽の最初の楽器だ。アフリカではドラムは村から村へ、谷から谷へ、街から街へメッセージを送るために使われていた。おれらがやってることはそれさ。
おれらはナイヤビンギの共同体と合流して、ドラムをジャマイカメントとミックスした。それからビートを作ってからワンドロップに感じ入ったね。ワンドロップは人々のハートビートになった。これがレゲエだ。おれらはレゲエの功労者なのさ。

イ: あなたたちが子供の頃、Cartonは空き缶でドラムを始めたっていうのは本当?

A: Yes! そしておれはワンストリングベースでベースを始めた。自作だぜ(笑)

イ: どうやってそのベースを作ったの?

A: ネックは2×4木材で作って、ボディは合板で作った。ボディを引っ張って、カットしてもらって、くぎを打って一つにまとめた。いいか、ねじじゃないんだ、釘だぜ(笑)。灰皿のボードだったし。灰皿の底にブリッジみたいに載せてストリングが取り外せるようにした。ストリングはカーテンロッドだった。ネックのあたりまでそれを伸ばしてブリッジとして木の灰皿をフレットを外すために取り付けた。

おれがそれを演奏すると、ピンピンいうんだ。バックルームにそれを持って行った。地下室で、木でできた部屋ね。おれが演奏してると、どんどん大きくなるんだboom, boom, boomってさ。まるでベースみたいだった(笑)

イ: そのときあなたはいくつだったの?

A: 歳はわからないな。10代なのは確かさ。15, 16, 17ぐらいだったかな。

イ: あなたは何年もの間ギター、キーボード、パーカッションをやってたよね。

A: おれは間違いなくベースのスペシャリストだ。Yeah, おれはリズムギター、リードギター、キーボード、パーカッションもやるよ。

イ: あなたの心にあるのはベースなの?

A: ベース?

イ: ベースがあなたの一番お気に入りの楽器なの?

A: Yeah, おれはベースをやるって決めたんだ。ストリングミュージック。
ドラムが心臓でベースは背骨さ。ドラマーがダメだったら、音楽は心不全になる。ベースがダメなら音楽はぎっくり腰さ。動くことすら不可能になる。これが音楽の新しいコンセプト。

連中がLos Angelesで大口叩いてるときを知ってるだろ?アメリカの音楽の首都だけじゃない、世界さ。'73年とか'74年だった。何が世界中に議論を巻き起こしたんだ?音楽のすべての新しいコンセプトはドラムとベースさ!

アメリカンミュージックはドラムとベースを後ろに追いやったからね。バイオリンと声と ching-ching-chingという鳴り物とホーンセクションだ。ドラムは後ろの方。
おれらはレゲエミュージックとは呼ばない、これは人々のheartbeatなんだよ。ルーツのメッセージ、カルチャー、リアリティを伝えるユニバーサルな言語なんだ。ping, puff, too-too-too-tooっていうリズムにフィールしなくちゃいけないよ。わかるかだろ。ダブセクションさ。

イ: 初めて本物のベースをゲットしたのはいつ?

A: ええと、最初は借りたんだよね。Kentだった。その後Hagmonを借りた。安っぽいベースみたいな感じだけどまだプレイしてるよ。Gibson、Kent、Hofnerも試したけど、おれにとってはFenderがリアルなベースだ。Fender Jazzね。

イ: Precisionに対してFender Jazzのどこに惹かれたの?

A: ディープなサウンドさ。ベースのすべてを思い出させてくれる。アップライトベースにはない感覚だ。
おれはいつもサウンドの特訓に順応しようとしていた。おれがエレクトリックベースを使っているとき、Fenderとアンプを調律してピースにするんだ。アコースティックベースみたいにね。

イ: あなたがUpsettersで演奏しているとき、ちゃんとしたアンプを持ってたの?

A: ええと、おれらはやっていることに時間を費やさなけゃいけないんだ。そんなに機材を持ってなかった。小さなFenderアンプを持っていたよ。当時はその一つだね。
彼らは2本の6L6のアウトプットチューブを使っていた。彼らはよくチューブを失くしていた。Fenderの回路を作っていた6L6を持っていった。KT66も使っていたね。おれがチューブを使うとき、レッドになったり、焼けたりしなかったよ。これらのチューブが音によりスムースなパンチを与えたんだ。

イ: The Uniquesのシングル「Watch This Sound」があなたの最初のレコード?

A: Yes! 

イ: そのことで覚えていることはある?

A: おれがそのセッションの約束をしたとき、彼らにおれの膝が枝葉のように震えていることを話したよ(笑)。おれはスタジオを見たことが無さすぎてどんな見た目をしているのか知らないくらいだった。
バンドスタンドでバンドメンバーはおれの演奏を聴いたんだ。わかるか?おれらがやるってときはゲットーなのさ。

おれがあのセッションのチャンスをゲットしたとき、シンガーのB.B.に "おれはこのセッションの約束をしたけど、おれはスタジオに行ったことが一度も無いんだ。" と言った。彼は "スタジオはお前が経験を積む場所だ。" と言ってくれた。そんなに励みにならなかった、要するに"絶対スタジオ来いよ。" ってことだろ(笑)。

イ: その次はHippy Boysだよね?

A: Yeah, Hippy Boysだ。最初のバンドの最初の名前がそれ。同じバンドがあったんだよ。その後名前が変わり続けるんだ。

イ: あなたの弟も一緒だった?

A: Yes.

イ: Cartonはあなたが作ったリズムで重要な役割を担ったっていうのは本当?バンドで一緒に演奏した他の兄弟は誰?Van Halensが言ったみたいに、他人よりも互いのリズムを理解してるみたいな。

A: もちろんおれがリズムを作った。それがおれらの役目、ドラマーとベーシストさ。そしてダブセクションを考案した。ドラマーとベーシストは普段練習していなかったことを理解していた。だけどおれらはめちゃめちゃ練習したよ。
Cartonはちょっとしたプラットフォームを作っていろんなサイズの空き缶を叩いていた。わかるか?違うサウンドが出るんだ。彼もおれとバックルームにいたよ。Cartonは右足で床を踏んでフットドラム代わりにしていたし、ベースエフェクトも伴っていたね。
おれのワンストリングベースはドアの裏側の木のフロアに依存していたな。他のベースエフェクトをゲットしていた。おれら兄弟はベースエフェクトをゲットしたんだ。おれらはシンバルを一つ持っていた。おれらは歩きまわってもう一つのシンバルを見つけたよ。それを小さめの角材に打ち付けた。だからそのシンバルはcartonのクラッシュとアフタービートハイハットの両方だった。

イ: あなたが最初にBob Marleyに会ったとき、彼が曲を書いてたの?

A: Bunny LivingstonとPeter Toshがバンドを去ったときにおれらは加入したんだ。わかるか?最初のツアーは'72年だった。Bunnyが去った後ね。翌年はPeterが脱退したんだ、それは少し衝撃だった。
アメリカツアーの最後らへんでおれらはPeter Toshに代わるJoe Higgsをバンドに迎えて、Joeが彼のソロに戻った後、Peterは去ったままだった。そしておれのキーボードプレイヤーのEarl Lindoが飛んじまったんだ。
Bobがおれに "これからどうする?残ったのはおれら3人だろ?"と言ってきたから、おれは"おれら3人?Trinityの力だろ?" と返した。"まず最初におれは何をすればいいんだ?" とBobが言った。おれは"おれらの音楽室、リハーサル室をもう一度アレンジして小さいデモスタジオみたいにするぜ。おれらのニューコンセプトリリック、メロディー、ミュージックを録音するんだ。そこでスタジオに行く前に準備するんだ。" と答えた。そのデモスタジオで「Natty Dread」の作業が行われたんだよ。

おれらが作業しているとき、Martha Velezと言う名前の女性がNew Yorkからやってきた。「Escape Out of Babylon」っていうアルバムを携えてね。彼はWoodstock出身だった。
彼女曰く、オリジナル5曲は持ってるから、残りの5曲はおれらの曲をカバーしたいんだと。おれらは彼女のためにプロデュースしなくちゃいけなくなった。おれらがやっていたことをいったん中断して、彼女のアルバムに取り掛かった。録音して、重ねどりして、ミックスして、彼女に完パケした。Islandからオーケーも貰ったよ。彼女がはすごく満足して帰ってったよ。
おれらがスタジオにようやく戻って、おれらの曲をこしらえてオーバーダブする準備をしていたら、もう一つのお誘いが来たんだ。それはSan FranciscoのTaj Mahalだった。彼は「More Roots」っていうアルバムを制作中で、彼もおれらの曲である「Slave Driver」をカバーしたがっていた。だからおれらはSan Franciscoに向かったよ。面子はBob Marley, Alan 'Skill' Cole, Lee Jaffe, そしておれ。Taj Mahalに向けた「Slave driver」ではピアノを弾いたよ。オーバーダブした。

イ: Tajのアルバムのミックスもやったの?

A: 「More Roots」だけね。それだけ。他のプロジェクトの予定があったからね。そうだろ?忙しくしてたのさ。

イ: Wailersの曲はどうやってできたの?いつ「Who the Cap Fit」を作ったの?この曲はどうやって制作された?

A: 地球の危機のイラストで地球が回ってるんだ。"表紙を見ただけで本の内容を判断できない。"、"人の顔ではその人の内心まで判断できない。" と書いてあるんだけど、これはもうひとつのイラスト。わかるか?
マインドは遠いようで近い。だからおれらは "おまえのベストフレンドは最悪の敵かもしれない。" と言ったんだ(笑)。"おまえの唯一の友達はおまえの秘密を知っている。" 誰でもそうさ。"彼らはそれを暴露するかもな。" それからBobが "夜が明けたら、多くの人間が逃げ出すだろう。" と言うんだ(笑)。わかるか?

イ: あなたの音楽からスピリチュアリティを切り離すことはできる?あなたの祈りとレゲエを演奏することに違いはある?

A: もちろんさ。でもおれらはひとつになることが使命なんだ。なぜなら神が密かに信仰せよと言ったから。神はオープンな報いをもたらす。
Yeah, man. おれらは自発的に天国から地上に来た存在なんだ。おれらのビッグブラザーのJesusみたいにな。課せられたミッションを遂行するためにね。たくさんの人が地球上でミラクルを起こすことができるとおれは人に話す。他の人ができることだってできるぜ。人は唯一無二の素晴らしい存在なんだぞ。おれらが目にできる素晴らしい出来事は今日起こっている。
馬無しの馬車みたいなことさ。おれらはこれらの馬車の一つにのっているのさ(ツアーバス)。馬力だぜ!(笑)。Yeah, man.

イ: Bob Marley時代のWailersであなたのお気に入りの部分は何?

A: おれらは自分たちがバイブ、メッセージを持っていたことを理解していた。それらを伝えるときに誠実さも兼ね備えていた。Most Highからインスピレーションを受けていたね。
宗教はすべてのタイプの音楽、サウンドのバイブレーションについて回る。言葉、サウンド、パワーだからね。わかるか?おれらはそれを'60年代後半のインスピレーションから次のステップに持っていくと決めたんだ。だからおれらは今までやっている。

おれらが世に出始めたのはまさしく最初のツアーを始めたときだった。The Speakeasyっていうイングランドの場所で演奏したときのことを思い出すぜ。2週にわたって一晩2公演をやったんだ。おれらは仕事を終えると紙にレポートを書き綴った。なぜならあのクラブの名前はThe Speakeasyだったからな。The Speakeasyはすべてのメディアの人間のたまり場みたいな場所だったよ。ジャーナリスト、批評家、ラジオ関係者、雑誌関係者、新聞社の人間といった業種さ。おれらは2週間一晩2公演を彼らのために行ったみたいなもんだ。2週間ほとんど同じ顔だったよ。何人か入れ替わるぐらいでさ。彼らは新聞でおれらが演奏した曲を特集したよ。彼らを虜にしたんだ。その後はまるで魔法さ。

イ: 1976年にBob Marleyの母親がPhiladelphiaのTower Theaterまでバンドを観に来たのを覚えている?あなたのコンサートはとても特別だった。

A: Yeah. Bob Marleyの母親を2回見かけたよ。彼女はパフォーマンスしていたの?

イ: いや、彼女はオーディエンスの中にいたんだって。Bobは自分の母親がそこにいるのを知っていたよ。

A: Okay. Yeah, クールだね。

イ: Bobの母親とあなたは友達なの?

A: 彼女の最初のゴスペルアルバムはおれがプロデュースした。その後いろんなマネジメントが関わるようになったよ。
おれが最初にアルバムデザインを見たとき、"違う、これじゃない。" と言ったんだ。あんな風に彼女を着飾らせることはできない。教会の背景になじむようにしなくちゃいけないよ。そんな感じに思える。
マネジメントは彼女に合ってないことをやっていたけど、その後、そのうちの何人かは新しい経理とありとあらゆるクソなことをやっていたぜ。彼女は自身のためにオリジナルで歌っているってのによ。
彼女はおれをマネージャーに据えたがっていたよ。でもおれは "おれにはあなたをマネジメントすることはできない。でもプロデュースすることはできる。" と答えたよ。アレンジャーとプロデューサーでさ。

イ: あなたが共に仕事をしたレゲエミュージシャンの中でお気に入りは誰?

A: おれはその時に来た仕事を受けるのみだってことを言っとくぜ。それがスリルってもんだし、いろんな人と仕事をする縁だからな。彼らのソウルや彼らが表現しようとしていることを耳にするためにね。おれはそれらをキャッチしたし、彼らに与えたりもしたよ。

イ: あなたが考える音楽におけるベースの役割は何?

A: おれは歌うのも好きだよ。でも人に聞かせるような練習はやってない。おれがベースを弾くときはまるでバリトーンで歌ってるみたいなんだ。だからおれは毎回メロディックなラインを作るのさ。

イ: 特に思い入れのある曲は?

A: ほとんどの曲がそうさ。すべての曲が良くやってる。もしおれらがBob MarleyやWailersの曲を聴いたら、おれらがその曲にしてやれることは何も残ってないぜ(笑)。
おれの関わった曲はとてもユニークなんだ。ほとんどがおれらのリハーサル室からのインスピレーションさ。もちろん音楽の第一歩はバランスみたいなものを保つことだ。そしたらおれらはスタジオに行って、何度もリテイクをするのさ。

イ: 「Want More」のことを教えてほしい。

A: 「Want More」Yes, Bob、おれの弟、そしておれの時代の曲だね。
おれらは11曲を作ったんだ。おれらがちょうど6曲目に差し掛かったときのことを覚えている。おれは事実上2つのギターと2人のキーボードプレイヤーを抱えていた。おれはキーボードの一部を録音したし、リズムギターだって演奏した。Bobの演奏にオーバーダブしたんだ。

おれはグループ唯一のエンジニアさ。おれはすべてのミックスをチェックする人間だ。おれがそこにいないときでも彼らはミックスできるけど、おれがもう一度チェックするんだ。すべて一定のペース、ピッチでなくちゃいけないからね。

イ: 1970年代通してずっと同じベースを使っていたの?

A: No. おれはSeattleの美術館から借りてたんだ。そこは音楽の場所だった。そのベースでおれがやれるだけのツアーを敢行したよ。Yes!

イ: BobのLes Paulに何があったの?

A: Bob一家がそれを持っていた。おれはすぐにYamahaをゲットしたよ。それは'77年に日本から持ち帰ったものさ。

イ: Al Andersonについて知ってることはある?

A: AlとJuniorには込み入ったことがあったんだよ。彼らは一部なりすまそうとしていた。よくないことだね。彼らがおれを知る前にやっていたこと以外のことを考えるべきだ。
おれが最初にJunior Mervinに会ったとき、彼はJimi Hendrixになりたがっていたし、彼らは「Music Marvin Explosion」と呼ばれていた。彼らは喋りが強みだったんだけど、その代わりに音楽に対してあまり良くないものを作ろうとしていたな。その音楽っていうのはWorld Federation of Musicとジャマイカの音楽とジャズのことね。彼らはすべてに暴力を持ち込もうとしていたんだ。全く良くないことだね。

イ: あなたのご両親はジャズミュージックのファンだったの?

A: ファンじゃないけど、少し聴いていたね。おれはそれらの音楽のコンセプトをミックスしてレゲエに落とし込んだ。ファンクだったり、rhythm and bluesだったり、ソウル、ジャズの要素も少しあるよ!

以上です。
次回後編をアップします。

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