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メディア就活に有利なバイトとは


 記者を目指す上でやっておいた方が良いことを、学生時代の自分は必死になって探していた。とにかく本を読み、人と会い、街を歩いた。読書は知識を、出会いは人脈を、街歩きは想像力と好奇心を与えてくれたと思う。

 などと偉そうに語る立場にないのだが、最近「記者になる前にすべきこと」に類する質問が就活生から多数寄せられる。最たる例は「アルバイトは何をすべきか?」。

 結論を言うと「好きにしなはれ」

 詰まるところ、最適解はない。周囲の記者を見渡しても学生時代のアルバイトは十人十色。実家暮らしで、出世払いを親に約束して、旅行に行きまくっていた人もいる。必ずしもバイト=ガクチカではないのだと教えられる。

 同業他社の友人に学生時代のアルバイトを聞いてみた。ざっと書き出すと以下の通り。家庭教師、居酒屋のホール、コンビニ、ドラッグストア、スーパー、パン屋、ラーメン屋、マクドナルドのクルー、球場のビールの売り子、歯科医院の受付、警備員、大学の事務、ピザ屋の配達…。

 また、テレビ局や新聞社でアルバイトをしていた方が有利なのか、という疑問も多く見かける。志望業界の実情を見る意味では意義があると言えるかもしれない。

 私自身も都内の新聞社で2年ほどアルバイトをしていた。新聞は読み放題で、たまに記者が飲みに誘ってくれた。給料をもらうのが申し訳ないほどの環境だった。

 「でも、メディアのバイトって人脈がないと入れないのでは」。たしかに一部は特定の大学の体育会系サークルが脈々と受け継いでいる…ということもあった。地方紙も求人を詳らかにせず、伝手でバイトを受け入れている話はよく聞く。

 一方で、アルバイトの求人を採用サイトに載せている社もある。空きが出るまで待つ場合もあるが、メディア志望の学生は積極的に応募するのをオススメしたい。

 私の周りでは共同通信のアルバイトが人気だった。業務内容も多岐に渡るらしい。

▲共同通信が募集しているアルバイト一覧
(同社採用サイトより)


  以下に学生アルバイトを募集している主だった社のリンクを貼りたい。と言っても、共同通信、日経新聞、中日新聞(東京新聞)の3つのみだが…私が学生の頃は色々なところが募集していたのになぁ…。

 ただ、ここまで色々話してきたが、選考で加味されるかというと、そうでもない。インターン採用の話は以前書いたが、アルバイトが採用に直結するという話は昭和の時代ならまだしも、昨今はほとんど聞かない。だから必ずしもメディアでアルバイトをする必要はない。

 かくいう自分はどんなアルバイト遍歴を持つのか。振り返ると、数々の仕事をしてきた。

 大学進学とともに上京した私が最初に選んだのはガストのホールだった。掴み取ったリクルートに深い理由はない。メディア就活に臨む学生を描いた石田衣良の小説「シューカツ!」の主人公がファミレスのホールバイトをしていたため。我ながら安直である。

 店は小田急線の某ターミナル駅近くにあった。店長は芋洗坂係長似の気さくな方で、面接がすんなり通る。さっそく研修に入ると、すぐにつまずいた。

 今でこそ、猫型の配膳ロボや注文用タブレットがあるものの、当時は全て人力。慣れないオーダーの記録に両手が塞がった状態での配膳。高校時代にアルバイト未経験だった私は戸惑うばかりであった。皿を割り、注文を打ち間違える。

 幸いお客様は優しい方が多く、散漫で緩慢な私を咎めず見守ってくれた。同僚も「君ができないのではなく、ただ経験値がないだけだから焦らないで」と背中を押してくれた(この言葉には本当に救われた。受け売りで、今は私が元気のない後輩にかける言葉となっている)。

 思い起こせば結構恵まれた環境だった。にも関わらず2ヶ月足らずで辞めた。失敗続きで、このままだと自信を失いそうだと、怖気付いたのだ。

 「新聞社でインターンをする」と理由をつけ、前向きな退職ということにした。実際、その年の夏には地方紙のインターンに参加したため嘘ではない。

 自分は飲食業に向かない。ならば接客のないところへ行こう。今度は派遣会社に登録し、深夜の弁当工場での仕事に不定期で就いた。シフトは22時〜翌朝6時。神奈川県の山奥にある陸の孤島のような場所で、延々と弁当箱におかずを詰める作業だった。

 これが辛い。単純作業でなかなか時が進まないのも辛いが、職場の雰囲気が何より苦痛であった。

 配膳はおかずを一掴みし、秤にかけ、適正なグラム数を弁当箱に載せていく。要領が掴めず、もたもたしてベルトコンベアーを何度も止めてしまった。小太りの中年女性から「遅い」「どこの派遣だ」などとなじられつつも、苛立ちに耐えながら作業をした。

 いや。私などはまだマシである。大変なのは我々派遣社員の8割ほどを占める東南アジアから来た外国人労働者だった。言葉が分からないことをいいことに、工場職員は好き放題に彼らの悪口を言っていた。とてもここには書き出せない言葉で。

 中にはある程度日本語を理解できる者もおり、そんな人たちは一様に固まった笑顔であった。日本語が分からずとも、語気を強める職員に震えながら怯える人もいた。

 それでもここに職を求めていたのは理由もあったのだろう。ビザによって週の労働時間は決まっているはずだが、派遣会社がずさんであればその辺りはチョロまかせるらしく、明らかに規定時間以上働く人の姿もあった。

 ある時、外国人派遣社員と英語を交えた会話をしていると「君は日本人で羨ましい」と言われた。たどたどしい会話でも、切実な想いが伝わる。と同時に猛烈な遣る瀬無さが込み上げた。

 この弁当工場はコンビニ弁当の調理もしていた。工程を支えるのはやはり外国人派遣社員だった。深夜の時給は1200円。無難ではあるが、生活をまるっきり支えるには心許ない待遇である。

 だからこそ職場の雰囲気は深刻な悩みであった。せめて、楽しく働ければ。職場選びにゆとりのない相手の背景を考えると、胸が締め付けられた。嫌気が差し、逃げるようにして辞めた。親のスネをかじって大学に通う自分。深夜に外国人労働者が罵声を浴びながら作られたコンビニ弁当にかぶりついていた自分。

 知らず知らず、自分が搾取する側に立っていたのだと気づいたとき、世の中の残酷さを痛感したのであった。大学1年の冬のことである。

 その後、半年ほど定まったアルバイトに就かなかった。スキーバスの点呼、朝日新聞の営業(なんと契約を2件も取れた)、クロネコヤマトの配送センターの仕分け、ピザ屋の配達、イベント会場の雑踏警備。脈絡もなく仕事を練り歩き、大学2年の半ばに都内の新聞社でアルバイトを始めた。以降、卒業までお世話になった。

 最初から新聞社のバイトに就かなくてよかったな、と心底思う。接客業の大変さも、外国人労働者の悲しみも、流通業界の裏舞台も、1日中歩きっぱなしで足が痛くなる営業も知らず記者になっていたら。想像するだけでゾッとする。

 アルバイトは己の非力さと知識不足と世間知らずな部分を多分に教えてくれた。後半はごく個人の体験談になってしまったが、アルバイトは色々やってみて損はないと思う。ただ一つ後悔しているのは、長く継続して得たり見えたりするものを私は知れなかった。

 ガストで4年間働いていたらどうなっていたのかな…と今もふと考える時がある。

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