被災地のメディアに問う
信じられない河北新報の報道
読んだ瞬間、思わず紙面を叩きつけるところだった。
東日本大震災の発災から13年の3月11日。東北地方のブロック紙「河北新報」の夕刊1面には、被災地のメディアが報じたとは思えない表現があった。
宮城県仙台市に本社を構える同社が、震災報道にどれだけ注力してきたかは私が説明するまでもない。敢えて説明すると、発災直後の社員の奮闘を記録した「河北新報のいちばん長い日」は、メディア関係者の中では「必読書」と評する人もいる程である。
数々の受賞歴は、河北がいかに震災と向き合い続けてきたかの証左でもある。
11年に一連の報道が新聞協会賞に、地元新聞社としての役割と責務を果たしたとして菊池寛賞を受賞した。12~14年には復興などをテーマにした広告が新聞広告賞を、18年には津波で児童と教員計84人が死亡または行方不明になった石巻市の大川小の被災を検証した連載「止まった刻」が、21年には東日本大震災10年報道がそれぞれ新聞協会賞を受賞した。
さらに、同社のサイトでは「「再生へ 心ひとつに」を合言葉に、被災者に寄り添う報道を続けている」と自負している。
だからこそ、3月11日の夕刊は信じがたかった。
1面トップは「青空の下 あなたに祈る」との大見出し。津波で甚大な被害が出た仙台市若林区荒浜地区で海に向かって手を合わせる人たちの写真が大きく載る。そのリード文はこのように始まる。
「発生から」との表現は、河北のこだわりだろう。避難先から故郷に帰れない人がいる。行方不明のままである大切な人を探し続ける人がいる。未だ震災が終わりではないと、被災地のメディアとして暗に訴えている。
だが、次の一文を読んだとき、河北が既に「再生へ 心ひとつに」の矜持を失ったのだと確信した。
亡くなった―。
河北新報は、行方不明者までも、亡くなったと報じたのだ。
同日の同紙朝刊を読み返す。1面トップ「東北も 能登も 思い寄せ」のリード文は「関連死も含め2万2222人が犠牲になった」と記してある。
震える手で辞書を解いた。犠牲の意味は3通りあった。
3の意味を拡大解釈すれば、行方不明者にも当てはまるかもしれない。
亡くなる、の意味も同様に調べた。
仮に「無くなる」ならば「今まであったもの、持っていたものがない状態になる」との意味もあった。しかし、そのように表現したいのであれば、新聞紙面上では「亡くなる」だ。
つまり、河北新報社はこの日の夕刊で「行方不明者は死んだ」と報じたのだ。
重箱の隅を突いている訳じゃない
こんな問題提起をすると、シニカルな思考を持った人間が後ろ指をさしてくるのかもしれない。「13年も見つからない人間が、一体どこで生きているというのか」などと。
そういう次元の議論をしたいのではない。何故ならば、「行方不明者が亡くなった」という河北の表現を受け入れるのならば、河北のこれまでの報道姿勢を問い直さなければならないからだ。
そもそも何をもって人が亡くなったとするか。
法律上では「死亡届」が役所に提出されたときだろう。いや、行方不明者の家族は死亡届を出そうが出すまいが、整理が付かない部分がある(もっと言えば行方不明者の家族だけでなく、地震や津波の被害で家族や友人、地域の人の死亡を確認した遺族や関係者もそうだろう)。
ただ、ここは河北の言い分を考察するうえで何が死亡かを敢えて定義しよう。
震災を契機に、政府は民法上の失踪宣言の手続きなしで、震災の行方不明者の死亡届を提出できる措置を講じた。民法では、7年間行方不明なら志望と見なす失踪宣言の規定を設けている。相続手続きなど実務上やむを得ない人などが、行方不明のまま死亡届を提出した。
しかし、もともと民法上で定められた7年を過ぎても死亡届を提出しない人も中にはいる。例えば、産経新聞は、子どもが行方不明のままである母親が死亡届を提出しないでいることを18年に報じている。記事中には「親の自分が前に歩み出したらこの子だけが取り残される」という悲痛な思いがある。
被災地のメディアである河北が、こうした思いを地域で見聞きしなかったはずはない。
事実、新聞協会賞を受賞した連載「止まった刻」では、大川小に通っていた娘が行方不明のままの父の思いを記している。
そう考えないとやりきれない日々を、行方不明者の家族が過ごしていると報じている。
発災10年となる21年3月には、行方不明者の家族が「死を受け入れられない」と答えたアンケート結果を報じた。
それならば、一体、どうして、行方不明者が「亡くなった」と報じられよう。
念のため、河北の過去の紙面を読み返した。毎年3月11日の朝夕刊のトップで、どのように報じているのか。
12年3月11日の朝刊は警察庁のまとめを引用している。
「死者は12都道県で1万5854人、不明者は6県で3155人で、死者・不明者は計1万9009人となっている」
この時点では、死者数と行方不明者数を分けて書いている。
翌年以降も同様の書き方だった。
19年3月11日の朝刊で若干の変化があった。
行方不明者も「犠牲者」として計上し始めたのだ。いや。私が確かめたのは毎年3月11日付の朝夕刊のみだったので、実際はもっと前からそのように表記していたのかもしれない。
22年3月11日の朝刊ではついにこのような文言が掲載された。
少なくとも、河北新報社は発災11年にして、行方不明者を亡くなったと報じているのだ。
河北新報に問いたい
どうしてこのような表現がまかり通ったのか。河北新報社社員は誰一人としておかしいと思わなかったのか。そうであるならば、行方不明者を「亡くなった」と報じる根拠はどこにあるのだろうか。
推測の域を出ないが、被災地に立つメディアでさえも、風化には抗えないのだろう。
死者、関連死者、行方不明者の数字の合計が間違っていなければよい。紙面・ニュースの向こう側に、今なお帰ってこない人を思う読者がいると想像できない―。そんな雰囲気が編集局内に漂っているのではないか。
河北新報社さん、河北新報のいちばん長い日は、ずっとずっと昔の、記憶の彼方に飛んで行ってしまったのか。
心をひとつにしてきたはずの、読者や被災者の気持ちをもう一度考え直してほしい。悲痛な思いのある人を置いてけぼりにするのが、被災地のメディアなのか。
一読者として、痛切に願う。
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