家路
運賃箱に小銭を入れて、路面電車から降りた。しっとりと水気を含んだ空気が頰に触れ、ああ、着いたんだ、と気づく。
リュックサックを背負い、暗い夜道をゆっくりと歩いていく。十年以上前、毎日のように歩き、毎日のように走った一本道だ。
とぼとぼ歩いた。すたすた歩いた。嬉しくて走った。悔しくて走った。どうでもよくなって走った。どうでもよくないから走った。
田畑に囲まれていたはずの脇道には、住宅が何軒も建っていた。
すぐ横を、ひとりの少女が駆け抜けていく。
月
静寂に包まれていた。夜空には雲がかった月がぽわんと浮かんでいる。じいっと空をみつめ、雲の流れを追ってみる。時が止まったようにみえる街の上空で、雲だけがうごめいていた。
月は動じない。動じずに、ただそこにあった。
すべてを包み込むように、すべてを知っているかのように。見守っているかのように、冷めた瞳で突き放すかのように。暗闇のなかで、月はひっそりと生きていた。
歩けども、歩けども。あなたはただ、そこにいる。
そういえばここは、昔から、月のみえる街だった。
すぐ隣でひとりの少女が、ぼうっと空を見上げていた。
ミルクセーキ
突き当たりに曲がり角がみえた。部活帰りにいつも立ち寄った自動販売機がある場所だ。
ひさしぶりに、あったかい飲み物でも買おうか 。
あの温もりを思い出す。
かじかんだ手で、あつあつの缶を包み込むしあわせを思い出す。缶のふたを開けたとき、ふわりと立ち昇った湯気の白さを思い出す。口に含んだとき、じわりと広がった砂糖の甘みを思い出す。ごくりと飲み込んだとき、走り疲れた体のすみずみにまで染み渡ったやさしい熱を思い出す。
憂鬱も淋しさも溶かしていった、 一瞬で永遠のひとときを思い出す。
近づいてみると、あのころ凍えながら買ったミルクセーキはもう売っていなかった。
抜け殻になった自動販売機の前に立つ。寒さで肩に力が入る。
ひとりの少女が小銭を入れ、ミルクセーキのボタンを押した。
田んぼと山並み、澄んだ空気
角を曲がると視界がひらけた。
立ち尽くした。息を呑んだ。空気が透き通っていた。
ここにしかない、澄んだ香りがする。風をすーっと吸い込んで、ゆっくりと吐いてみた。
田んぼと野菜畑があった。夏にはカエルが五月蝿いほどに鳴き続けるこの土地も、今はしんと静まり返っている。昼間にはすくっと立って緑の色彩を弾けさせるネギとキャベツは、姿を隠しているようだった。
遠くに薄っすらと山並みがみえる。わたしは見惚れた。ずっと人々のそばにある山だ。ずっと人々の遠くにある山だ。ときに美しく、ときに残酷で、ときに情熱的で、ときに冷厳な山だ。
これまで何度、あなたに助けられてきたんだろう。
そういえばここは、昔から、山がきれいにみえる街だった。
ひとりの少女がそばに立ち、遠くの山を眺めていた。
車のライトと、人の影
車が横を通るたび、ライトが田畑を照らした。
光が差すと影ができる。ひとりの少女が影と重なる。
彼女はなにも言わずに微笑んでいた。
すぐ近くには家がある。帰る家だ。
わたしは歩いた。
自分の足音が聞こえる。心臓の鼓動も聞こえる。ひさしぶりに聞いた気がした。
靴底が地面に触れ、かすれる。体重を乗せ、地面に踏み込み、反発を受け、いつのまにか進んでいる。
こうやって歩くんだ。
アスファルトに踏み込むたびに、不思議に思う。
いつのまに歩けるようになったんだろう。どうやって、歩けるようになったんだろう。
アパートの入り口で、ひとりの少女が縄跳びをしていた。
梅酒
家に帰ると母がいた。
「これ、お父さんが絶賛してるのよ」
食卓にやってきたのは、祖母の家の梅で作った梅酒だった。
花柄のグラスに注がれた液体は透き通っていて、淡く控えめな黄色と、ころころと鳴る氷の音がいじらしかった。口に含むとほんのり甘くて、梅の香りがきゅっと広がる。
母は嬉しそうだった。声が明るかった。表情が穏やかだった。
幸せそうだった。
あの日の辛そうな顔を思い出し、わたしは少し、ほっとした。
街並み
選べないものがある。選んできたものがある。
変わらないものがある。変わっていくものがある。
選べないものがきらいだった。変わらないものがつまらなかった。
選ぶのは怖かった。変わっていくのは寂しかった。
高校を卒業して以来、もっとも長い里帰りの最中だ。
少し前まで、帰るのが億劫だったこの土地とも。連絡しないことでしか、返事をしないことでしか、勝手に決めることでしか、話さないことでしか、表現できなかった気持ちとも。矛盾する思いの狭間で、向き合うことを避けてきた関係とも。
ちょっとずつ、ちょっとずつ、ほどよい距離をとれるようになってきた。
選ばせてもらったものがある。変えずに変えられるものがある。
安心がある。発見がある。
路面電車に揺られ、街並みを眺めている。
この街は、わたしが少女になれる場所だ。
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