最期の選択の枝

現実と理想のはざまで考える老衰

 「きょうもビールは旨いな」

 「明日もこんな1日だったらな~」

なんて、はたして自分は年を取ってもこんなことを思いながら生きているのだろうか?いやはや、どんな死に方をするのだろうか?長年考えても結論に至らない。

 まあ当たり前のように何かしらを「選択」して生きている。仕事に行く、友人と遊ぶ、一人でのんびりする、寝る、起きる、顔を洗う。心身が健康であれば、より選択の自由が増えていく。

 私が身をおく医療業界の全体であることだろうけど、病んでいる方々の選択の自由度が増えるように、日々の治療やケア、環境づくりに励んでいる。と個人的には思っているのだが。。

 今回、「選択」という言葉を使っているのは、日常の選択ではなくて、特別な選択という場面に立ち会うことになったから。別に、新型コロナやら救命救急という現場ではなく、単に寿命にどう向き合うのかといった類の話。

 2018年人口動態統計月報年計(厚生労働省)によると、老衰での死亡数は脳血管疾患を上回り、第三位まで上昇。その反面、老衰には科学的根拠の余地がまだ残されており、解剖研究された医師らによると、それなりの疾患による死亡が確認されたということだ。

さて、最期の選択にはいくつかの言葉がある。

平穏死、尊厳死、安楽死。その中にも、積極的やら消極的やら複雑な言葉の定義は割愛する。

 対象者の意思が確認できない場合、対象者の家族へ様々な意思決定を行っていただく場合がある。それはもれなく「死」についても、家族様へ考えていただくこととなる。対象者が意思決定をできるなら、今回このようなnoteは書いていないだろう。

SOLとQOL

医療者側だけでなく、普遍的にあるSOL(Sanctity Of Life)。生きていることが最も重要で、簡単に言うと「命は尊い」。まさにそう思う。

しかし、患者側はどうだろうか。時には激しい苦痛を伴う医療処置というものに耐えつつ、QOL(Quality Of Life)を求めている。個別的な価値観であるから、生きることに否定的な方も、もちろんおられるわけで。食べたくない、治療を受けたくない、もう死にたいなどと。。

ポジティブなQOLなら、SOLと同じベクトルになるから、それはそれでいいとして、生きることに否定的なQOLと、普遍的なSOLが向き合ったとき、一夜の思考では済まない。

超高齢社会

 長生きができる国ではあるが、健康寿命が長いのかと問われれば、そうとも言えないのは日本という国の現状で、医療費の増加は国の財政を圧迫しまくっている。それ以上に、高齢となって望まぬ治療を受けてしまう環境が現状として存在している。普遍的なSOLのもとに。

 厚生労働省が「人生会議」なるキャンペーンを打ち出したのも、理由があってのことだろう。にもかかわらず、マスコミがネタにして一瞬にして消し去られたのは新しい記憶にとどめておきたい。表現方法が過激で話題となっているなんて話ではなくて、「アドバンス・ケア・プランニング」という考え方の必要性を啓発する目的なのだから。

 「決めなくてもいいから、いっぱい話をしよう」は記事にある通り、まさにそういうことだと思う。しかし、話をするためには、様々な情報は必要だ。自己啓発本などでよく目にする「死ぬまでにしたい~のこと」とか、「~をしたら健康に長生きできる!」だけでは生ぬるい。素敵な介護ライフのハウツー本は、寝る前の読書でいい。成功体験は目の前の視野を狭くする。

 良かれと思って病院へ、良かれと思って救命処置を、良かれと思って集中治療を、家族の意思決定ができていないので、施設からとりあえず病院へ。救命処置のためにたくさんの管を刺し、骨はバキバキになり、床ずれができることもあり、死に目には会えず、治療によって浮腫となり別人のような顔になり。残された方々の、

「こんなはずじゃなかった」

この仕事をして9年目。何度も何度も同じことを聞いてきた。

後悔しないためにも、「人生会議」を。

時にはこんな選択だってある

 ご飯を全く食べる意思を示さず、口を閉ざした超高齢者。入院してきたけど、こんなご時世だから、家族へは電話越しに病状説明や治療方針の確認が行われていた。

 ある程度の身体面の治療が終えても、食事は拒否。かたくなに拒否。連日の点滴により全身が浮腫状態。もう末梢から点滴は難しい。管を刺される本人は、点滴を自分で抜いてしまい、点滴も拒否していた。

 鼻から栄養チューブを入れるか、中心静脈を使うかの医療行為と、口から食べられるものを食べて自然な形で過ごしてもらうかの2択だった。前者をやると、自己抜去を予防するために、ある程度の身体拘束をされる可能性がある。太い分厚い手袋に、通気性の悪い介護服、最悪なパターンは、手首をベットに専用の器具で繋がれる。延命はできるが、自由は無い。

 この患者の運命は、家族に託されるのだ。

そこに愛はあるんかい

 「あ~~い~が~いち~ばん~」なんてCMではないけれど、前述した「生ぬるい」というのは、このようなことも自身の体験としてもあることと、第3者として関わることも多いことから出た言葉だ。患者も家族も「こんなはずじゃなかった」となる前に、人生の最期はある程度「選択」できることを知っていただきたい。「こんなはずじゃなかった」と、もう13年目を迎えるこの時期に。そして、こんな思いをして過ごす人を微力ながらも減らせるように誓ったあの日を思い出しながら。

 


いいなと思ったら応援しよう!