理論実験攻略wiki哲学

まず、攻略wikiには圧倒的に人的リソースが足りない。
でも、攻略wikiの本当の問題は人的リソースの不足ではない。

ゲームには統一的不変法則が存在するとは限らない。
だから攻略wikiではある程度の法則性の存在はを考慮に入れつつ一般化を進めながら、一方では一般化を諦め、個別具体的な記述を積み重ねていくことになる。
攻略wikiでたった一回の実験から結論を出すのは一般的すぎる法則を導き出してしまって危険。
だから他人の指摘が重要になる。
一方、やっぱり当初はそれぞれ独立していると思われた個別具体的な記述の中からその少数が小さな法則の纏まりになることもある。
ときどき関係を考えてみることも重要。
フリーゲームの作者が説明したつもりになっている効果の説明が実は何の説明にもなってないことがある。
だから、実際に実験して効果を確かめてから、その内容を噛み砕いて記述することは重要。
攻略wikiを執筆する段では本当にここ、僕も作者に言われた通りに書いてそれで説明したつもりになって騙されていることがよくある。
攻略wiki上で統計学を運用するのは現実問題、実現可能性が低い。
ここに楽観的な批判をくれる人は歓迎。
このため、攻略wikiにおける方法論は証明責任と再現性で評価するしかなくなる。
このため、方法の効率性は判断しにくい。
まま、攻略wikiでは何も攻略情報がなくてもクリアできるダンジョンに対して攻略wikiに攻略情報が記載されがち。
この時、この方法の再現性は評価しにくい。
攻略wikiで随時根拠を提示しながら立論するのは経験的にいってほぼ無理。
攻略wikiの執筆はまず根拠を調べておくなりして、大体いきなり結論から話し出さなければならなくなる。
このため、攻略wikiには質問されたら根拠について答えられるようなペアとなる議論スペースが重要。
理論上、建設的な攻略wikiでは常に議論スペースが機能していると考えられる。
しかし、まま、攻略wikiでは議論が省略されがち。
議論スペース、というかもうざっくり言っちゃうと雑談スレは雑談ばっかりで埋まりがち(正しい)。
雑談スレで攻略wikiに書いてある情報の根拠を聞いても返事が返ってこない。
計量と確率論は重要だが、フリーゲームの法則性はよく更新ごとに不規則に変化するからとても不毛。
つけくわえると僕はサンプルサイズに対しての知識がない。
だから悠遠物語攻略wikiで箱を10000個開けて特定の中身が10個出たという言明を僕は十分に分析できない。
そしてせっかく調べたのにその作業ももう時代遅れ。
理論上、フリーゲームではまず普通の状況(普通が完全に均等なバラつきであるとは限らない)の確率を定義してから、それと比較してある状況の確率を測らなければならない。
理論上、そういった証明の手順を推定すると、とても証明できそうにないことが攻略wikiには事実のように書き込まれることがよくある。
だからそれは反証可能性も小さい。
だから攻略wikiで自分の意見を自分で訂正するのは簡単だが、他人の意見を議論を介して誰かが訂正するのはとても難しい。
攻略wikiの最大の欠陥は主観ではなくて、主観が他の誰によっても訂正できなくなること。
攻略wikiの別の側面では、一貫性という点で量について当てにならなかった攻略wikiが(ただし参考としてそれなりには役立った)別の項目のアクションパート攻略情報については一貫性があって当てにあることがある(ルセッティア攻略wiki)。
だから攻略wikiはだいたいそれが匿名で書き込まれているのにおそらく個人技の影響が大きいと推測する。
攻略wikiの基本の方法は誰かが犯した間違いを他の誰かが訂正していくことになるので攻略wikiの新着更新情報はとても重要。
だからどうでもいい更新で攻略wikiの新着更新情報が汚染されるのはとても困る。
編集履歴は重要、情報の訂正の経緯が誰にでも確認できることは攻略wikiの健全さを保つ。
だから僕は新管理者によってどうでもいい更新が繰り返されたり、編集履歴が削除されたりした旧ざくざくアクターズ攻略wikiには批判的な立場を取る。
ただし結論として攻略wikiがニコニコ百科的になること自体には反対しない。
坊主と袈裟は切り分けよう。
しかし攻略wikiが他人に迷惑をかけずニコニコ百科的という結末まで合理的に辿り着く経緯が見えない。
攻略wikiに頻繁にどうでもいい更新が繰り返されていれば、たまたま他の誰かが書き込んだ有意義な更新が確率的に取り消されることが可能である、という仮説が立てられる。
この仮説を立てるとき、新管理人が他の人の記事執筆を取り消したという推測について、その故意性を過失と解釈できる。
まくーさんの自分の当事性についての主張だが、確かに旧ざくざくアクターズ攻略wikiの新管理人は問題の多い管理人だが、新管理人まくーさんを含むその企業の労働者に迷惑をかけたその幹部のサイコパスとは別人である。
だから結論は正しく推論の仮定が間違い。
だから新管理人が統合失調症患者やサイコパスである必然性もないが、ここでまくーさんが発達障害とか自閉症とかアスペルガー症候群とかそういう表現を出さなかったことは評価できる。
しかしやはりまくーさんの統合失調症患者やサイコパスへの理解は偏見。
まくーさんはあくまで旧ざくざくアクターズ攻略wikiの執筆者として当事性を主張するべきだった。
それならばまくーさんのポジションは正しい。
後知恵から言えば、旧ざくざくアクターズ攻略wikiについては5chスレ住民は管理人表明の名乗りがなされた時から危機意識を持つべきだった。
僕もこのあまり現実味を帯びない事態を甘く見ていたし、まだ旧管理者が帰ってくる可能性も考えていたし、後知恵から言えば、やっぱり新管理者が就任してから事後対応しようとするのでは遅すぎた。
@wiki公式が気軽に新管理者に管理者権限を与えた後、起きた問題は利用者同士が話し合って解決してください@wikiは関与しませんという立場を取ることは、予想が甘すぎたが、予測できなかった。
しかし翻って、管理者不在なのにそれなりに運営できていた旧ざくざくアクターズ攻略wikiの状況はユートピアすぎた。
別の深刻な問題にぶつかって、結局旧ざくざくアクターズ攻略wikiの管理者不在という条件が重くのしかかった可能性は十分ある。
新管理者の立候補の時の問題意識はよくわからなかった。
その上でも新管理者の就任後の管理方針は明らかに言行一致してない。
理想はどこへ行った。
後出しの投票とか、攻略wikiのデザイン変更はまあいいとして、
現在、新ざくざくアクターズ攻略wikiがグーグル検索上位で旧ざくざくアクターズ攻略wikiに劣り、また、無し崩し的に執筆者も旧ざくざくアクターズ攻略wikiに奪われているのは極めて問題。
また一つの攻略wikiの有用性として攻略wikiから対応した雑談スレに飛べることはとても便利で、
だから旧ざくざくアクターズ攻略wikiが雑談スレへのリンクを外したのは改悪。
しかもこれで議論スペースが消えている。
旧ざくざくアクターズ攻略wikiを例にとって言うが、おそらく誰も作者に報告に行かないと推測されるからおそらく項目として機能していないはずなのに存在するバグ報告項目が、旧ざくざくアクターズ攻略wikiの客寄せパンダになっていると推測されることから、旧ざくざくアクターズ攻略wikiはそれによって無根拠に人気が高まっている状況下にあると推測する。
これは極めて深刻な問題。
閑話休題、管理者が存在しない通常の攻略wikiには、編集合戦を防ぐ方法論が理論上存在しない。
この点、議論スペースがそれなりに機能していること、管理者が過度に介入的ではなくそれなりに裁量を振るえている点で、僕は新約帽子世界攻略wikiを評価する。
5chスレ住民は新約帽子世界攻略wiki管理者を減点評価しすぎ。
だいたい5ch住民は無能な働き者という表現を好みがちだが、
5ch住民はだいたい自分がその無能な怠け者だということに気付いていないし、
また無能な怠け者の意味を十分定義していない。
建設的な形で善意解釈義務を最大限働かせて無能な怠け者の意味をちゃんと定義すれば、
その定義は新約帽子世界攻略wikiの管理者とだいたい合っている。
なお、有能な働き者の実在可能性については疑問が残る。
5ch住民は無能な怠け者である状態から無能という条件を維持しながら、よく働き者になりがち。
しかし、問題設定さえ正しければ、結局、無能な働き者もそれなりに役に立つのではないか。
なお、有能な怠け者は暗殺教室を書いた後断筆するからあまり当てにはならない。
ただ、新約帽子世界攻略wikiはいちいち5chスレにグーグル検索から回らなければいけないのは設立の経緯が5chスレからとは系統的に違うことの問題。
ただ、もし5chスレが原因で新約帽子世界攻略wikiができたと反実仮想してもその時明らかにその新約帽子世界攻略wikiには議論項目もなくなると推測されるので、その可能世界は明らかに不毛。
また、新約帽子世界攻略wikiでは、コンボ数解説としてあった誰かからの善意のギフト的なキャラ掛け合い形式の古い攻略情報がこれからどう扱われるべきか判断するのがとても難しい。
やっぱりこの問題は帽子世界攻略wikiの議論によっても決着していない。
個人的には、やっぱりただ削除してしまうのはもったいないと思う。
そもそも匿名だったとはいえ、そのキャラ掛け合い形式の攻略情報の作者は行方不明。

理論的なwikipの実現可能性。
異なる意見を、要約せず、そのまま引用して、引用元が文責を持つ状態を維持したままwikipの上で戦わせる。
読者は、読めば形勢がわかる、ということを期待したいけどこれはほぼ無理かも。

現実的なwikipの運用。
まず、信頼のおける情報源は机上の空論。
wikipは引用元が古かったり引用元がチグハグで一貫性がなく、誰も文責を担っていない。
どこにも存在しない学説。
wikipは明らかに学説の進歩に編集スピードが追い付かない。
wikipでは頻繁に病跡学と精神分析学が引用される(これらってその学問系統が続く限り延々と信頼のおける情報源として引用され続けるのか? 理論上wikipにはこれらを排すべき規範がない。まあ、さすがに精神分析学には最新の研究などないかも)。
wikipでは事実に対して説明力のない解釈がされがち。
ストレス原因説は万能。
アドルフ・ヒトラーにそれありなら雁屋哲の鼻血も福島が原因でいいのでは。
ヒトラーの超自然的な幻影を強引に善意解釈義務してプラセボ効果と考えるのは現代科学的に無理がある。
そのプラセボ効果は誰と信頼関係があるというのか。
ヒトラーの超自然的な幻影を事実と定義するのは無理がある。
ウィトゲンシュタインのエピソードについて、客観的に教室内部の出来事を描写しながら少女の内面まで描写することは視点人物がよくわからない。
これはまるで心の理論的な形の自閉症仮説を仄めかしているように解釈できるが、
ウィトゲンシュタインが自然言語を使った哲学者であった事実と整合しない。
苦肉計が黄蓋より先なのか黄蓋より後なのかよくわからない。
権威主義者だったヒトラーの父親がヒトラーが反抗期を迎えたころ急にリベラリストになる。
wikipのたまに一貫性のある文章は「評価することを言う」とか測り方を教えてくれなくて、引用元がない。
見えにくいイデオロギーについて聞いているのに、見えてるイエオロギーについて説明されても困る。
まあ、大阪維新の会を過小評価しないことは大事かもしれない。
wikipはジョセフ・リスターの記事の出典が学習漫画。
日本でwikipがジョセフ・リスターの記事の出典を探そうとしても翻訳されている文献がない。
これはwikipの問題ではないが、ジョセフ・リスター生誕記念のニュース記事でグーグル翻訳して読んだ英語版ジョセフ・リスターの記事と矛盾する仮説を立てられても困る。
このニュース記事を日本のwikipは信頼できる情報源として扱わなければいけないのか?
まあ、日本のwikipのジョセフ・リスター記事を出典にニュース記事が書かれるよりはマシ。
「識字」で日本語研究者、角知行の*日本における識字率調査*に対する研究は*日本における識字率調査*についての研究である(大事なことだから二度言った)。
「一般に、」とか言って世界に敷衍されても科学者は誰もそんなこと主張していない。
これは科学者の研究について極めて不誠実な態度。
解釈論は論理学の学問領域ではないか。
独自研究。
なお、wikipに引用されることが、もしインパクトファクターや論文引用数よりも権威性を帯びるなら、それは角知行先生にとっての効用なのでぜひwikipはそのような立場を目指すべきである。
なお、インパクトファクターや論文引用数は検証可能性にも反証可能性にも特に作用していない。
wikipでは「この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。」と書かれてあるのに「信頼できない語り手」のノートページではまったく議論がされていない。
飯島多紀哉が日丸屋秀和を男性と言ったらwikipは信頼のおける情報源として扱わなければならないのか。
日丸屋秀和、三家本礼の単行本の読者投稿コーナーに居たのに。
そもそも存命人物全般のwikipに書き込まれる個人情報に関して信頼のおける情報源とは何を意味するものかが謎。
だいたい漫画家の性別は不明にするしかなくなるのでは。
荻上チキの著書の著者紹介にも批評家としか書いてないぞ。
wikipはたまに途中な議論が管理者権限で勝利宣言。
wikipには責任がなく、誰も一度行われた古い引用に基づく編集を新しい引用に基づく編集に取り換える正統性がなく、一方で政治的な意図による恣意的な編集は誰にでもできる。
凄く遅いスピードで出典要求が提起されたりするのはwikipのある側面の建設性だが、さすがに焼け石に水かも。
ボランティアの警察組織が運用不可能なのはMMORPGも2chも証明している。
基本的にはwikipは多少変な編集なら差し戻しで対応して編集履歴が残るのは長所。
そこに検証可能性がある。
基本的にはwikipには強硬削除に至るまでに合意形成のステップがあることは長所。
なお、50年前の資料が国会図書館のサイトで読めることはwikipにとって何の救いにもなっていないかも。

一つのwikiの問題点はそれが採用する方法論に科学的根拠が与えづらいことに起因している。
だからこれは、現代の教育学と同じ根源的な問題。
また、wiki執筆に合意形成は重要。つまり議論は重要。
それはwikiの項目の質が良くなるとはどういうことなのかについて、wikiは逐次定義していかなければならないことによる。
しかし現実を見ると明らかにwikiにおける大方の場合で合意形成は為されていない。
せめてwikiは最低限、欠席裁判における多数決ぐらいは目指したい。

Wikipediaに大竹文雄を採用し、アンサイクロペディアに伊勢田哲治を採用し、競争させどちらが生き残るか実験しよう。

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