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百姓見習い14年目〜晩冬:旧暦師走望月におもう

好天の日を見計らってではあるけれど、この二週間ほど、乾いた粘土質の土を相手に、畠の溝掘りに精を出していた。見回すところ夏秋に種をつけるイネ科の草たちは表面上冬枯れ中。しかしながら、その足元で着々と春の草が芽吹いているのがなんとも健気で。

休耕田復活によるビギナーズラックによる大収穫にあぐらをかいた昨冬は、冬の畠にほぼ足を踏み入れることなく、さらに猛暑のため、夏の管理もせぬまま、結局「あそこの嫁さん、どうしたの?諦めたんか?な、ほったらかし実験」となってしまったわが畠。

結局、里芋も豆も、満足いくものはほとんど収穫できずじまいで、料理人からは全く相手にされず。

地上の草の勢いで日が差さぬ地表、さらに土との対話不足で丸腰で臨んだ1年は、完全にもともとの土の性質が勝り、里芋ゾーンに至っては、土壌内に水が在りすぎて、さらに空気がなさすぎる土となり、豆ゾーンに至ってはおそらく背の高い草に覆われる日が多すぎるゆえの、全体的な日照不足で幕を閉じた。(窒素をとりこむ元気もなにもかも、光合成ができねば意味がない)

一年の計は元旦にあり、というのも、なるほどなぁと、今年は正月3日より畠をはじめ、秋のお彼岸あたりに在りたい風景を思い描きつつ日々少しずつ作業を。

きっかけは、単純。

東千茅氏の「人類堆肥化計画」をようやくこの正月に読めたから。
(11月に買っておいたのに結局日々に追われてようやく、読書に向かう心の余白が正月になるまでなかった)

彼の言う事は、驚くほど同感で、畠作業なんぞ、「人間が生き物になるだけの、俗の極み」のように感じていたから、本当にそうそう、そうなのそうなの、君はわたしかい?と想うことしきり。

それでいて、わざわざ(ほんとうにわざわざ)紙を変えて、色を変えて、間に挟まれる四季のエッセイは、美文!笑っちゃうほど、優等生!こういうのだけを読みたいのよ、という理想追求者にもウケるし、こういうのも実は感じてるんだよ、と言語化できない俗人にもウケる。

本当に土も畠も草も、向き合えば向き合うほど面白くて、奥深くて、たのしい。
冬の食欲に負けてたるんだ身体を引き締めるべく、力作業もむしろありがたい。

天水をどう制するか、にかかっている畠。
自然に生えてくる多様な草を、屋敷囲いの高木と、隣接する家屋と季節ごとの太陽高度の違いにより生じる、日照時間の変動をいかに折り込むか、にかかっている畠。

半世紀、草に任せるだけの休耕田へ人為を入れてしまったばかりに、有る意味わたしが手を入れたばかりに、一気にバランスを崩してしまった環境で、「手間」はたくさんかけてでも、いかに「労」を少なくしつつ望む収量を上げるか、今年も試行をあれこれと。

適地適作&個別最適化は、ここでも、どこでも。

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