スポーツが嫌いだった私の棚ぼた
私は転ぶときに、手を先について顔をガードすることをしばしば忘れる子供だった。顔に絆創膏が増えないようにと、母からはしばしば「手ーーーーーー!!!」という怒号が飛んだ。そして、私は母の声掛けとともに手を出すスキルを身に付けた。
そんな私は「鈍くさい」子と言われ、自分でもそれを疑わなかった。
故に、自転車の補助輪を外すにも時間はかかり、鉄棒の逆上がりにも苦労した。跳び箱を軽々超えることはまれで、たいていが跳び箱に座る練習になっていた。言わずもがな、走るのも遅かった。
この数行の説明でお気づきかと思うが、私は体育が大嫌いだった。
自分がうまくできないことに加え、自主練をしてもなかなかうまくいかない中、大縄跳びは私のスポーツ嫌いを超音速で加速させた。
全員で協力して飛んだ回数を更新していく競技において、すぐに縄にひっかかる人員はそこにいるほぼ全員の憤怒の標的となる。苦手な人ももちろんいたが、その中でも私は「大繩ひっかかり」という別の競技を一人しているのではないかというくらいひっかかっていた。頭や足に容赦なく当たる縄の痛さに加え、「あーーーーーー!!!!」という周りの声が重くのしかかり、その場から消えてしまいたいと毎秒思っていた。
私にとっては、地獄だった。
そこで私が最初に身に着けたことは「とにかく全身全霊で取り組むこと」だった。下手な人間は辛くあたられるのだから、一生懸命取り組むことがそこから逃げ去りたい私自身へのせめてものなぐさめだった。とはいえ、頑張っていると自分を納得させても、私のせいで全員の目標達成にストップがかかるということが申し訳なくてしかたがなかった。だから家でも練習した。家族の目もまあ手厳しいものではあったが、失敗できないという張り詰めた空気はなかったため、心穏やかに練習そのものに集中できた気がする。数十年前のできごとなのに結構しっかりと記憶に残っているからよっぽどつらかったのだろうと思うのだが、あきらめるという選択肢も、ずる休みを時々してやろうと思うこともなく、ただただどうしたらできるようになるだろうということを考えていた小さい自分、我ながらすごいなと思う。
自主練のかいもあって、ひっかかることは徐々に少なくなり、いつの間にか問題なく飛べるようになっていた。あれだけ嫌だった自分の番も、できるようになってからは意外に回ってくる回数は少なかったことに気付いた。
私はそこで、時間はかかってもやればできるようになるということを身をもって体験した。動機は決してポジティブとはいえなかった。でも、やり続けた結果できるようになった。当時は大抵の同級生がクリアしていることはできて当たり前で、自分はマイナスからやっとスタート地点にたてたのだと思っていた。今なら全力で褒めたたえるところだが、当時はそこまで嬉しいとも思わなかったのが残念だ。
振り返ってみると、私は自分ができないことをできるようにしたいという思いが強かった。できないことをおちゃらけてごまかしたり、あきらめたり、という選択肢は自分の中にはなくて、いつも一生懸命に取り組んできた。スポーツが得意だったら、、良い先生に巡り合ってスポーツが好きになれたら、、という思いはかなりしぶとくあったけれど、残念ながら私にはそのチャンスがなかったので、粘り強く自分からしがみついていくことを学んだ。
そんなわけで、私は走ることは好きだし、スポーツ観戦は全ジャンル熱狂し、自転車を乗り回し、あれだけ体育にトラウマを持ちながらも体を動かすことが大好きな大人になった。どんなことにも挑戦し、とりあえずやってみることは、あの体育のトラウマがなかったら難しかったかもしれない。嫌いだった体育から逃げなかったことで、私はその後の人生で結構役に立つ宝物を手に入れた。
あきらめず、粘り強く続ける不屈の精神を身に付けることになったきっかけはスポーツだった。