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これは私の人生論バージョン1である

画面を流れ落ちる動画を見ながら
人生を無駄にしていると、思った事があるだろうか。

働かない頭で今日、私は何をしていただろうと思ったことはあるだろうか。
何一つしていなかったと、動かぬ心で情けなく思ったことがあるだろうか。

これは私の人生論バージョン1である。

序章

有名な詩がある
冒頭を紹介したい

もし人生に価値がつくなら
今何をしているか関係なく
均等にばら撒かれていると思うのです

今回ここで話すことは全て、この言葉が伝えてくれている。
ただ少しだけ、私なりの考えを喋らせていただき
そして願わくば、それを聞いていただきたいのだ。

第1章 人生とその価値

もし本当の価値があるならば
どんなものだろうか?

それは貴方が持っており
そして他の皆んなも持っている。
だからこそ私も持っている。

そういうものだと、思わないだろうか。

カフェを想像してほしい。
そこで座っている人を指さしながら

あの人は…持っていない。
あそこの人も、あっちの人も
みんな持っていない!

私は持っているのに!!

それは本当の価値ではない。
本当の価値とは
カフェで座っている人を指さしながら

あの人も持っている
あの人も、そこの人も、窓際の人も
みんなが持っている!!

そして…私も持っている
これが本当の価値だと思うのだ。

人生にも価値がつくことがあるのだろうか。
私の主観でしかないが、価値が付くと思っている方々多い気がする。
もちろん、他人を見下すような人は殆どいない。

しかしだ、自分の人生をより価値あるもにしようとするのだ。
英語のコンテンツなどを見ていると皆、人生をより良くするために躍起になっている。
(翻訳機能に感謝を)
そのコンテンツなのだが中身は素晴らしいと思う。
睡眠、運動、食事、瞑想などなど
人生をより良くしてくれそうなメソッドの集合体である。

でも人生の本当の価値はそこにはないのだ。

人生の本当の価値は
80億人の頂点に立ち
80億人からの声援を受けているときにも

80億人誰からも気づかれることなく
80億人誰からも気づかれことなく声援を送っている時も

等しく存在するものだと思うのだ
故に全人類が持っており
故に私も持っている、それが人生の価値だと思うのだ。

全ての人が等しく持っている価値
これは自分の人生にも当てはまる。

つまり今の自分と過去の自分、そして未来の自分
この3者に価値の違いはないのだ。

過去の自分(貴方)は全ての人が等しく持っている価値を持っていた。
今の自分(貴方)も同じだ
そして未来の自分(貴方)もである

人生どの瞬間を切り取っても、
全人類に共通する価値は貴方を含んでいる。

今この瞬間の行動によって価値が決まるわけではないのだ。
今この瞬間何を与えたか
今この瞬間何を得たかは関係ないのだ。

今この瞬間、存在することによって価値を獲得するのである。
(これが自信である)

スマホを流れていく光を見ている時も
人から感謝をもらっている時も
等しく価値ある人生を生きているのである。

だからこそ貴方は唯一無に存在となるのだ。
何故なら貴方の存在は価値を持っているから。

故に私も唯一無に存在になることが許されのである。
私も今存在しているからだ。


第2章 やりたい事をやらなければ

もし人生どの瞬間にも等しく価値があるならば。

未来は意味を持たなくなる。
ただ今と同じく
等しく価値を与えてくれる存在と化すからだ。

何をしても良いのだ。
行動によって人生の価値が(私の価値が)決まるわけではないのだから。

友達にかこまれたり
お金を稼いだり
旅をしたり

ただ、素晴らしい人生の上で何をするか
それだけの問題なのである。

私は(貴方は)今やりたい事をすれば良いのである。

やりたい事ができなくて悔しい思いをして
自分を嫌いになってしまっても。
それは何の問題もないのである。

人生の価値は等しく敷かれている。

自分が嫌いな人生も、自分が好きな人生も
人生の価値には関係ないのである。
ただ自分が嫌いな人生、自分が好きな人生
それだけの違いである。

もし自分を変えたいなら、変えればいい。
変えなくても人生の価値は変わらない。
それでもなお、変わりたいと思うのなら。
やってみたいと思うなら

自分のペースで進めばいい。
やり遂げた時と
やり遂げようとしている時、何もしていなかった時
それぞれ、人生の価値に変わりはない。

早く進むことで人生の価値が変化するわけではない。
人生は行動によって価値が決まるわけではないのだ。

第3章 私には選択肢がない

前回の章で自分のやりたい事をやればいいと喋った。
だが、無理な事もある。

金もなく、時間もなくやりたい事ができない。
それでも人生に価値があることはわかった。
だが楽しくない
そう思う事がある。

だけど多分それは
自分という存在、人生に価値があるという感覚に行き着いていないからだと思うのだ

僕は人類はいずれ皆んな幸せになるんじゃないかと思っている。
幸せのほとんだはホルモンの問題だから。

そのせいだろうか?
僕は思考で、妄想で納得する考えが欲しいのだ。

脳の中でこんな事が起こって
こうなって
そんなことの何がいいのだ。
点と点を繋いぎ、ここには関係性がありますね、と。
点と点の間に何が詰まっているか不思議に思うだろう。

僕は不完全な脳みそで生きる意味や人生に考えるのが人のすることだと思うのだ。

気分が落ち込むなら人と喋ればいい
歩けばいい、亜鉛を飲んだり、日をあびたりすればいい。
旅行に行ったり、しっかり寝ればいい。

それでも納得できないなら
僕は今のところ
自分という存在、人生に価値があるということを理解していない
そう思うのだ。

死と隣り合わせの時に、もう先がない時にも
意識することだと思うのだ。

本当に出来ないことなのだろうか?
出来ないならそれでいい。
やらない事を選択しているのだろうか。
変わらず人生には価値がある。

何をやっても人生には価値がる
だからこそ自分のやらいた事をやればいいのだ。

選択肢が一つしかないならそれをしたらいい。
それでも人生には価値がある。

この記事が気に入らないなら、自分で考えてみたらいいのだ。
そういう事が個人個人の人生論を形作っていくのではないだろうか。


第4章 ここに来て伝えたかったこと


ここまでを読んでくださっている貴方は几帳面な方だろう。
ありがとう。
ここになって申し訳ないが、もう一度私の伝えたかったことを書いていこうと思う。

コーヒーを淹れてくるので少しお待ちを
(もう夜だか)

人生の価値は存在によって担保される。

何故なら
全てに適応される価値は
その存在がどんな状態ときにも、なんであれ適応されるからだ。

人生全体に当てはまる価値も、存在によって担保されと思うのだ。

でもなぜ、そんな小さな要因が自分の価値を担保するのか

何故なら全ての存在によって、自分の存在が担保されるようになるからだ。
人でも物でもいい。
どんな見窄らしい格好の人でもその人がいるだけで自分の存在の肯定になる。
普遍的な価値を全てのも存在が持っているからだ。

好き嫌いなどの感情とは少し違う領域の感覚だ。

例えば自分ことをボロクソに言ってくる人がいるとしよう。
その人のことが嫌いになり、今すぐに殴り倒したくなる。

しかし、自分をボロクソに言ってくる人も人生を歩んでいる。
人生は何をしているか、何を成しているか関係なく価値を持っているものだ。
その人はその人生の中で今自分のことをボロクソに言っているのである。
それだけの話なのだ。
その人も価値ある人生を歩んでいる。
そして当然私も価値ある人生を今歩んでいる。

揺れ動かない、感覚があるのだ。

例え皆に嫌われても、無視されてもそれは変わらないのだ。
自分を嫌う人も価値ある人生を歩む。
自分のことを気にしない人も価値ある人生を歩む。
そして自分も価値ある人生を歩む。

いい言葉が見つからないのだが
本当にそれだけの話なのだ。
貴方が今日億万長者でも
明日1文無しでも変わらず存在しているように

最後に

ちなみに冒頭で紹介した詩は私が書いたものである。

ありがとう
歓声とブーイングを

感情の波を感じます

ありがとう
貴方の存在に私は生かされています


ではでは

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