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結婚式を思うたびに鬱になりかけてた僕が、いかにして結婚に向き合っていくかという話
この記事では、具体的なエピソードを含めてお話しする後半エリアを有料にしています。
記事の中で言いたいことは無料エリアで最後まで語っていますので、ぜひ無料の部分だけでもご覧ください。
突っ込まれたくないなら指輪なんかするな
先日、久しぶりに会った高知大生時代の後輩と飲みに行った。
そこには彼女さんを含む同期4人、ついでに声をかけてくれた後輩が4人の、吹奏楽団で仲良くしていた8人が高知に集まった。
すでに子どもが2人いる同期がひとり、結婚して1-2年くらいの後輩がひとりいるほかはまだ独り身で、話題は彼女らの暮らしぶりがメインとなった。
ところで、結婚を控えていながらしまって置くのもそわそわするということで、僕と彼女さんの指にはお揃いの指輪がはまっていた。
同期とは定期的に連絡を取っていたので、もうそろそろ結婚をという話はしていたが、後輩はそんなこと知らないため「その手の指輪はなんだ」「そもそもなぜ話題にしないんだ」「これは、聞いていいものなのか」とそわそわしていた。
鰹のタタキや地鶏の炭焼きなど、高知のグルメを堪能した1次会を終え、バーに移動して2次会が始まった。
そもそも飲み会や4人以上の集まりが苦手な僕は1次会で満足して帰りたかったが、彼女さんと2人で出掛けてきたためひとりで帰るワケにもいかず、参加したはいいもののお酒が入り眠くなっていた。
(もちろん自分の責任で残っているので、文句があるというわけではない。)
時間が経ちもうそろそろ帰ろうかというところ、痺れを切らした後輩のひとりが「その指輪について聞いていいですか」と口火を切り、答えない理由もないのでふたりでいつ頃の予定だという話をした。
そして定番の「プロポーズの言葉は?」が出た瞬間、僕は2次会に参加したことをとんでもなく後悔した。
結婚式とかプロポーズの話をすると同調圧力を感じるのは大概わかってもらえない
この流れになるから話したくなかった。
結婚するのが当たり前という風潮はさすがに緩んでいると思う。コロナ禍を経て、結婚式をするのが当たり前という風潮も緩くなっている。
しかし個人の具体的な話になると「するのが当たり前」はあちらこちらに地雷のように埋まっている。
僕は結婚について、いいイメージを持っていない。
どんな指輪を買うか、どんなプロポーズをするか、どんな結婚式をするのかと、全てにおいて試されているように感じる。
指輪は買うべき、プロポーズもするべき、結婚式もした方がいいに思え、僕にとって結婚に関わる儀礼のほとんどが義務であり、僕にとって「一般的にするものだから」という感覚に嫌悪感がある。
(ストレングスファインダーのトップ資質に個別化が出てきたことで、この嫌悪感の根拠となる価値観はこれかと納得した。)
だが僕は結婚がしたくないわけでも、プロポーズがしたくないわけでも、結婚式がしたくないわけでもないし、その話がしたくないわけでもない。
これらの話をすると、「普通は」をぶつけられて気分が悪くなることが目に見えてわかっているため、結婚の話自体に強烈な苦手意識があるのだ。
そもそもよく考えると「どうしたいか」「どう考えたのか」の話は好きだが、みんなが聞きたいであろう「何をしたのか」には興味がないので熱量を持って話せないから、どちらにせよいい気分になる見立てはできない。
「ちゃんとしよう」と思うが適応できないもどかしさ
何度も言うが、結婚に関して全てが嫌だというわけではなく、むしろ「ちゃんとしたい」という気持ちが強い。
当然、彼女さんにもご両親にも喜んでもらいたいし、お世話になった方々への感謝もあり、だからこそちゃんとしないといけないという気持ちがある。
しかし、このとき僕が思う「ちゃんとしたい」は「普通通りに」とか「みんなと同じように」という方向ではなく、「なぜするのか」という意味合いや「なぜそうするのか」という根拠に拠り所を求めているので、とても厄介な感覚である。
この意味合いや根拠を考え始めると哲学的になりがちで、最終的に正解はなく、自分がどう考えるかという話に行き着く。
しかし「自分がどう考えるか」は結婚の話が聞きたい人の念頭にはないので、「そんなめんどくさいこと考えずに普通にすればいいじゃん」と言われる。
「そんなに溜めると答えにくくなるよ」とか言われようもんなら、僕の心の鉄の扉は閉まり切ってしまう。
自分のいる環境の中でこの考え方がマイノリティであることは理解しているので、飲み会の場でもなるべく話を合わせて邪魔をしないようにしているが、自分の話になると「居た堪れない」という気持ちで心がいっぱいになる。
思っていないことを口に出すのが苦手なことも相まって、本当に居た堪れなくなる。
(この記事を書くにあたり「居た堪れない」の字面を初めて知ったが、この感情をよく表した字を使っていると感じる。)
結婚の話に限らず「こういうもんだから」にはとてつもない嫌悪感を感じるので、仕事や手続みたいなものはなるべくエネルギーを使わずさらっとこなそうとしてきたが、結婚に限ってはさらっと流すのは違うと思ってしまう僕のちゃんとしてる性格がさらに自分を苦しめる。
(と言いつつ、仕事もさらっと流しきれず苦しむことが度々ある。)
「ちゃんとしよう」とは思っているので、自分の考えを話すことで「彼女が可哀想」とか言われるのは心外で、彼女には「ちゃんとしたいが難しい」を伝えているので「それでいいじゃん」とも思わなくもないが、本当に立ち回りが難しい。
だから、飲みの場には行くのがめんどくさいことを行くたびに思い出されるのである。
「自分なり」を誠実に、なにより自分が楽しめる形で
僕の性格、価値観が結婚周りのイベントに向いていないのはよくわかっていたし、実際にそのフェーズに突入してきたことで改めて実感している。
そして僕が結婚に対して感じるものは感覚的なものであり、気分、気持ち、感情が真っ直ぐに向き合うのを邪魔していることを「自分の本心なんだ」と受け入れるしかないと悟っている。
だが「自分がよいと思っていない結婚式をするのは絶対に違う」と思うということも声を大にして言っておきたい。
そもそもよく考えれば「結婚式はやるものだから」と何も考えずにただ式場の提供するサービスとして結婚式をするよりも、自分が「これがやりたい」と心から思える結婚式をする方が本質的なはずである。
みんなはそこまで考えなくても本心でやりたいことができるんだということもよくわかっている。
しかし僕はそうでなくて、自分の思考がめんどくさいのもよくわかっているから、僕の結婚式の話はこのめんどくさい価値観を認識できる人にしか聞いてほしくない。
改めて僕はこのめんどくさい価値観を携えて、自分なりに自分の楽しめる形の結婚式を作っていくことを決心した。
披露宴も、結婚式も、プロポーズも、気持ちを伝えるイベントだと認識しているので、自分の納得できる形にできないのは相手に失礼だと思う。
だからこそ悩み、よく考え、若干どころでなく苦しんで、やっていくことになる。
「まず自分が満たされなければ人に与えることはできない」というのは、最近よく目につくようになってきたが、まさにその通りだ。
自分がやりたいことがあるならやればいいし、そんなことよりも彼女さんがやりたいことがあってそれを叶えたいならそうすればいいし。
どうしたいかをちゃんと見つめれば、楽しめる部分はあると思うし、自分がしたくなくても自分が大事にしたい人がやりたいことがあると思う。
まずは自分自身が納得できる形を探し、できれば自分が楽しんでできる形を求めながら結婚式に向かっていきたい。
ここからは結婚にまつわる具体的なイベントに対する価値観を書き出して自分の思考と感情の整理をしていくパートです。心のままに書いた記事をそのままの形で出すことに抵抗感があるため、ここからは有料エリアとさせていただきます。もし購入して読んでいただけた方は、感想や考えたことをコメントいただけると嬉しいです。
もし、結婚式には抵抗があるけど結婚式はしないといけないよなと悩んでいる方がいたら、参考できるひとつの考え方になると思うので読んでいただけるといいかなと思います。
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