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猫の死体をSNSにアップすることは悪か
またAIイラストをめぐってボヤ騒ぎが起きた。個人名を出して批判するのは悪のインターネットなので、匿名で説明する。
とあるVTuber(以下、甲)がとあるファンアートを配信のサムネイルに使用した。これは許容されている文化。しかし、そのファンアートにAIイラスト疑惑がかけられることに。甲の所属するグループの方針として、AIイラストを制作物に使用しないという取り決めがあり、甲は「AIイラストをサムネに使ってしまったから差し替えます、ごめんね」とポスト。しかしその後、AIイラスト疑惑がかけられたファンアートの作家(以下、乙)がこれはAIじゃない、描いたものだとポスト。これで魔女裁判勃発。結果、乙のファンアートはAI生成物だったと大勢は判断した。乙は不特定多数から攻撃され、該当のSNSのアカウントを削除する形となった
私は、魂がこもってないとか感性が鈍るとかそういう宗教的な理由でAIイラストが嫌いだけど、それでも乙が気の毒だなと思った。
今から善悪の話をしたい。
良いと思ったものをみんなにも見せてあげたくて、シェアするのは明確に善だ。旅先の絶景、スポーツの新記録、友達の隠し芸、すごいよ面白いよとシェアしてそれを通して相手を感じるのが現代のコミュニケーションだ。では、それが猫の死体だったらどうだろうか。多くの人は見たくもない写真。でも本人は心から美しいと思った猫の死体だ。これは悪だろうか。または自分の子供の写真だったらどうだろうか。判断能力が十分でないどころか、物心すらない状態の人の顔写真をインターネットに上げるのはどうだろうか。でも本人はその子供の笑顔に心から癒されて、みんなにもシェアしたいと思ったのだ。これは悪だろうか。私は、どちらのケースも善だと思っている。なぜなら善意の元に行われているから。ここに教養や良識の話を持ち出すと「頭が回らない奴は悪」になってしまう。
今からするのは極端な例だが……ポストする前に一歩思いとどまれる暇な人が善で、子育てに追われる日々にちょっとした気晴らしを求めてポストした人が悪になってしまう。そんな社会はおかしい。多様性を認め合い、それぞれの感性を尊重すべきだ。
さて、乙のポストはいかがだろうか。まずAIイラストをアップすることそれ自体は善だろう。良い絵が出力できたからみんなに見せたい。いいねをたくさんもらって嬉しい。ここに悪意はない。(繰り返すが、私個人はAIイラストは嫌いだ)もちろんAIイラストと明記しないのも問題ない。人は絵を上げるときに、何を使ったか書かなくてはならないだろうか、そんなルールはない。
次にそれが二次創作であった場合はどうだろう。そもそも権利的にかなりグレーな文化だが、愛を持って行われることを前提に許容されている素晴らしい行いだと思う。今回のケースでは、甲の所属するグループのルールに「ファンアートにAIイラストを使ってはならない」というものがあった。では、乙は悪だろうか?……違いますね。これは教養の話になってくる。二次創作を描くときに公式がルールを出していたら確認しにいく、これは教養や良識があるから行えることで、それができる自分を誇らしいと思う一方、できない人を悪としてはいけない。もちろん今回は公式である甲に迷惑をかけてしまった以上、二次創作側の立場は極限まで弱いことは理解している。
ここら辺で隙が見えそうなので先置き。私はずっと、善意と悪意の話だけしています。
最後に、AIイラストではないと偽った(とされている)こと。これはどうだろうか。ここで初めて悪意を感じることができる。でも、だからこそ気の毒だなぁと思うのだ。乙はAIイラストをアップしてSNSを楽しんでいた。そんなある日、急に大勢の人が自分を批判し始めた。突然の出来事!人生で初めての炎上!ここで、素直に謝れるほど頭の良い人がどれだけいるだろう。少なくとも私は無理だ。軽いパニックになって自分を守ろうとする行為を、断罪できるほど冷たい人間が溢れているのが悲しい。これは悪だけど、強い悪意があったように私には思えない。法律的な契約を破ったわけでもなく、何かイラストコンテストに出していたわけでもない。趣味のファンアートに対してSNSで嘘をついただけで、ここまで叩かなくても良いじゃないか。
誰かの間違いに寛容になれる社会になってほしいなと、強く願っています。